面土国の王女3
「でも、私は……」
トキハはためらった。
餓死は、彼女が選んだ最後の戦い。
食べてはならない。
「あんた、邪馬台国が憎いんじゃないのか」
サクは怪訝そうな顔で言った。
「憎い、心底憎い」
「なら食ってやれよ。せっかく国の王のためにつくったのに、あんたに食われるほど、奴らにとって嫌なことはないんじゃないか」
「………」
そう言われて初めて、そういう考え方があることに気づく。
この男の言うことはもっともである。
確かに、国の金と労力を使って敵将を肥やす行為は、自分なら馬鹿らしい。
「ほら。これでやり返してやれよ」
「……やり返す……」
「そう、『仕返し』だ」
その言葉に、トキハの心に火がついた。
差し出されたパンを掴む。
「サクは食べたのか」
「もちろん。目についたものを片っ端から食べて来たから腹いっぱいだ」
「なら遠慮なくもらうぞ」
手に取ると、中から暖かさを感じる、しかし固そうな食べ物だった。
「それを縦に持って、蓋を押し込むんだ」
「蓋?」
トキハは、男の言っている意味がさっぱりわからなかった。
蓋というのは、鍋などで使うものだ。
「こうやって持って、上の丸いところを」
サクがなにもない空中で、手を動かして見せる。
言われた通り、トキハはパンの上部の丸い部分を指でぐっと押し込む。
すると、カポッ、とパンの上部が押し込まれた。
「………えっ!?」
瞬間。
トキハは驚愕する。
トキハの鼻腔を、信じられないほどの芳醇で優しい香りが直撃した。
牢の中にその香りが立ち込める。
パンの中がくり抜かれ、そこに白くとろりとした、軽く湯気の上がる液体がなみなみと満たされていたのだった。
濃厚で甘い香り。
そして、じっくりと煮込まれた滋養に満ちた香り。
「パンを、そのシチューにつけて食べるんだ」
サクはまた手を動かして説明する。
(し、しちゅう……?)
トキハはパンを小さくちぎると、中のシチューなるもので濡らして、恐る恐る口へと運んだ。
刹那。
トキハの、痩せ細った体に熱い衝撃が走った。
なんだ、これは……!
まず、パン。
ふわりとして、噛むとほのかな甘みが口の中に広がる。
次々と口に放り込みたくなる味。
そしてそのパンに染み込んだ、熱いほどのシチュー。
広がる脂のうまみ。
それは猪の脂のような重たさや、獣臭さがない。
どこまでも滑らかで、クリーミーで、信じられないほどの深い「コク」がある。
そのコクと、朔が作り上げた塩の清冽な塩味が、野菜の甘みを何百倍にも何千倍にも増幅させている。
そして中に入っていた、味の染みた肉。
猪の肉とは違う、それは驚くほどほろほろと柔らかく、口の中で解けていく。
「……い、いったいなんの肉だ、これは」
トキハは口元を拭いながら、名無しに訊ねる。
「あぁ、たぶん鶏だ」
「に、にわとり?」
見たことも聞いたこともない。
ただ、とんでもなく美味いのだけはわかる。
「この国では、食用にそれを大規模に繁殖させてるんだ。だから手に入れるのはそんな難しくない」
トキハは、繁殖という言葉の意味すらわからなかった。
(なんとまろやかで、美味な……)
何よりも、これ以上ないほどの優しい味。
空っぽの胃袋に、その温かく滋養に満ちた味がじんわりと染み渡っていく。
「世の中に……こんなうまいものが、あるのか……」
トキハは癒やされていた。
飢えと寒さと孤独と憎悪で凍りついていた心が、そのパンによってゆっくりと溶かされていくのが分かった。
彼女は我を忘れ、パンの壁を指でちぎっては、シチューをすくい、夢中で食べ続けた。
その糖質、タンパク質、脂質のバランスだけでなく、栄養素の補充まで考え抜かれた食べ物を。
結局トキハは、大人の手のひら以上もあるそのシチューパンをまるまる3つ食べきっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「起きろ。食べろ」
兵士が面倒くさそうに、用意された料理を置いて去っていく。
その音でトキハは目が覚めた。
いつのまにか眠りに落ちていたようだ。
起きたトキハは、はっと気づく。
自分の左腕に布が巻かれて、処置されていることに気づいた。
「起きたか」
隣の牢獄から声がした。
男が木の格子のすぐ隣に座っていた。
「……これは、サクが?」
トキハは左腕を指さし、言った。
たしかに自分は、サクから手の届く位置で寝てしまっていた。
「邪馬台国のやつにやられたんだろ? 介抱して当然だ」
肩をすくめる無策の男に、トキハはくすり、と笑った。
「……ありがとう」
しかし、本当に布を巻いただけなのか。
昨晩まで強い熱を持っていた肩は静かになり、痛みは半分以下になっているのが不思議だった。
「今日は湯と着替えも置いていってるぞ。さすが王女様は扱いが違うな」
湯をためた桶がふたつあり、ひとつは泡立っていて、花の良い香りがした。
「え、なんだ、これ……」
「それな、先に泡の湯の方で体を洗うと汚れが落ちやすいんだ。その後に湯の桶で泡ごと流す」
サクが説明してくれる。
「よく知っているな」
「この国では当たり前のものさ」
「だが、この国の温情など受けたくはない」
トキハの表情がまた硬くなる。
「温情じゃない。囚人もなにもかも洗わないと気がすまない国なんだ。使わないと、後で男の兵士が何人もやってきて、縛られて強引に洗われるぞ。それが毎日続くことになる」
トキハの顔から、血の気が引いた。
「使うか……」
「あー。向こう向いてるから終わったら教えてな」
トキハは格子から手を伸ばし、言われた通り、泡立った湯で布を濡らし、ここ数日、血と汗と土埃で不快なまでにこびりついていた肌をこすった。
(え、なんだ、これは)
泡は、まるで極上の絹の上を滑らせるかのように滑らかだった。
(よごれが……落ちる?)
今まで水と砂でどれだけ強く擦っても落ちなかった汚れが、泡に触れただけで浮き上がり、解けていく。
泡は汚れを巻き込むようにして、瞬く間に灰色に濁っていく。
そして、汚れが消えた後の肌には、あの不快な脂のぬめりも汗の塩気も一切残っていない。
代わりに甘く清らかな「花の香り」が、自らの肌からふわりと立ち上っていた。
(すごい……)
彼女は夢中になった。
泡をすくい、首筋を、胸元を、そして泥にまみれた蒼い髪を洗っていく。
洗うたびに、数日間の屈辱と不快感がその泡と共に体から剥がれ落ちていくようだった。
昨日、あの男が手当てをしてくれた腕の傷口の近くも、恐る恐る泡で撫でてみる。だが不思議なことに痛むことがない。
声を上げるだけで、響いていた痛みが嘘のようだ。
やがて彼女はもう一つの桶に汲まれた清浄な湯を使い、その泡を洗い流し始めた。
そして、彼女は三度目の衝撃にその身を震わせる。
(この肌……)
湯で泡を流した後の肌は、今までの水浴とは全く違っていた。
ぬめりもざらつきも、全てが消え失せ、まるで生まれたばかりの赤子のような肌がそこにあった。
べとついていた髪も、洗って軽くなった気がする。
不快感の全てが消え去った肌に、新しい清潔な衣がふわりと触れる。
そのあまりの心地よさに、トキハは思わず深いため息を漏らした。
「……終わったぞ」
彼女は濡れた蒼髪を右肩の上で絞りながら、努めて冷静な声を装い、背後の男にそう告げた。
あぁ、すごくすっきりした。
「よかったな」
「サクはもらえないのか」
「俺は後で行水だろうな。俺も王子様とかだったらよかったな」
その言葉に、トキハはくすくすと笑った。




