面土国の王女2
トキハが押し込められたのは、宮殿の最も奥まった一角にある、かつて、国の宝物を保管していたとされる、巨大な高床倉庫を改造した牢獄だった。
分厚い木の壁と石で補強された土台は、並大抵の力では破壊できそうもない。
内部は一人で使わせるには広すぎるのだろう。
木の格子によって、二つの部屋に無機質に区切られており、行き来できる小さな扉もついているが、頑丈な鍵(南京錠)がかかっている。
彼女は、そのうちの一つに閉じ込められた。
ゴッ、と外から重いかんぬきをかける音が冷たく響き渡る。
トキハは正方形の小さな室内を見渡す。
右の壁と後ろの壁が分厚い石の壁で、左と正面が木の格子で遮られている。
正面では篝火が焚かれ、今は暖色の明かりがあるが、それを消せば真っ暗になりそうだ。
いや、手の届かないこの倉庫の玄関口の上、壁の高い位置にスリット状の細い窓があった。
そこから、わずかな外光が得られている。
部屋の中はひんやりとしているが、寒くもないし暑くもない。
古い穀物の匂いと、埃の匂いが混じり合っている。
ここに来る前、薬殿に連れられたが、左腕の傷は触らせなかった。
すでに血は止まっているが、傷穴は深く空いたままである。
「……くっ……!」
彼女は床に敷かれた硬い藁を、拳で力任せに叩きつけた。
彼女の心は、憎悪で燃え上がっていた。
トキハは、その牢の中で石の壁に背中を預けると、固く目を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇
最初の夜、見張りの兵士が食事を運んできた。
美しく飾り切りにされた蒸し魚、濃厚な獣肉の汁物。
明らかに囚人に出す料理ではない。
それどころか、自国では貴人でもとうてい口にできないほどの品である。
だが、トキハはその膳を一瞥しただけだった。
「食べぬのか」
「………」
訊ねた兵にトキハは言葉も返さない。
彼女の瞳には、一切の迷いもなかった。
戦士として捕らえられた以上、敵の食を受けて生き恥を晒すことは、彼女の誇りが許さなかった。
それが、何日も続いた。
序列第二位のオシヒトが面子にかけて作った伝統的な焼き魚も、他の料理人が知恵を絞った珍味も、全てが同じ運命を辿った。
トキハは、頑として、一切の食事を拒否し続けた。
牢に運び込まれるのは、水だけ。
彼女は捕縛された際に腕に負った傷の手当ても、頑なに拒み続けた。
そのせいか、彼女の鋭かった眼光は日を追うごとにその力を失い、頬はこけ、肌は荒れ、左腕に負った傷口からは熱が発せられ始めている。
ただ憎悪と誇りだけを支えに衰弱していくのが、誰の目にも明らかだった。
◇◆◇◆◇◆◇
「全てを拒み、水しか口にしませぬ」
タケヒコは困り果てた現状を、卑弥呼に報告する。
「このままでは、あと数日で……」
「タケヒコ。我らのやり方が間違っているのだ」
卑弥呼はガラスが張られた窓の外に目を向ける。
「あの者を餓死させれば、未来永劫、面土国と刃を交え続けることになる。そうなる前に、次の手を打つ」
「次の手とは?」
卑弥呼の脳裏には、ミトを救った、朔のあの言葉が蘇っていた。
――足りないものを、満しただけのこと。
「サクを呼べ」
◇◆◇◆◇◆◇
朔は、卑弥呼の私室へと呼び出された。
そこには、タケヒコとユズリハも同席している。
「サク、聞いてくれ」
卑弥呼は、疲れた顔で、朔に事情を説明した。
「……というわけだ。あの者は、どうにも我々を誤解しているように感じられるのだが、私の言葉もタケヒコの力も届かぬ。この宮殿の料理すら、『敵の情け』として映り、一切、受けつけぬ」
「それよりも誇り高き餓死を選ぶ、と。そうなると、交渉の切り札が永久に失われ、面土国との和解の可能性も露と消える」
タケヒコが、卑弥呼の言葉を引き継ぎ、忌々しげに付け加えた。
朔は、なるほどと頷いた。
彼女は、この邪馬台国を心底恨んでいる。
その恨みが強すぎて、「邪馬台国から差し出される施し」のいっさいを、拒絶しているのだろう。
ならば、自分が差し出すべきは、技術の粋を尽くした料理ではない。
意を決した朔は、口を開いた。
「陛下。私にお任せいただけないでしょうか」
「ほう。そなたに、策があると申すか」
「はい。ですが……」朔は、タケヒコと卑弥呼の顔を、交互に見つめた。
「お暇をいただかねばならず、陛下やタケヒコ様にも少々、芝居を打っていただく必要が」
そう言って、朔が提案した策は、常軌を逸したものだった。
「正気か、サク殿!」
タケヒコの怒声が、部屋に響いた。
「失敗すれば、大怪我……いや、命までも落としかねないぞ」
「サクよ。そなたはもはやこの国の大きな礎。そのような危険に晒すことはできぬ。タケヒコの言う通りだ。それはあまりに……」
卑弥呼もまた、その顔を、不安に曇らせた。
「陛下。そしてタケヒコ様」
朔は、二人の言葉を遮った。
その目は、真剣だった。
「王女が私の想像通りの方であれば、この策はかなりの確率で成功します。そして、私でなければこれはできません」
「………」
重い沈黙が、部屋を支配した。
タケヒコの荒い鼻息だけが聞こえる中、ユズリハは身じろぎもせず、ただ静謐な瞳で朔の覚悟を測っている。
「これは二度は弄せない策です。どうか私に。危険があればすぐに知らせ、撤退します」
卑弥呼は、朔のその揺るぎない瞳を見つめた。
この男は、いつもそうだ。
常識の外側から、誰も思いつかない「理」で、奇跡を起こしてきた。
「……わかった」
卑弥呼は、決断した。
「そなたの知恵を信じよう。……だが万が一にもサクの身に危険が及ぶ場合は即座に中止する。サクに鈴をもたせ、ひそかに外で兵を待機させよ。タケヒコ、さらに万全となる策を講じよ。ユズリハ、そなたも頼む」
「はっ!」
タケヒコとユズリハが、同時に頭を下げた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の夜更け。
高床倉庫の牢に、重いかんぬきの音と、男たちの荒々しい声が響き渡った。
「――入れ、この罪人が!」
「ぐっ……!」
ドン、という鈍い音と共に、一人の男が、トキハの隣の牢へと、乱暴に突き飛ばされた。
牢の扉が、再び無慈悲な音を立てて閉ざされる。
「………」
トキハは高熱にうなされながらも、その物音に、薄目を開けた。
格子越しに見える隣の牢に、麻の粗末な衣を着た男が、藁の上でうめき声を上げて倒れている。
顔は、スリット状の窓から差し込む、冷たい月明かりに照らされて、青白く見えた。
「……ふん……お前は何をしたのだ」
それは、トキハがこの牢に来てから初めて発した、敵意以外の感情からくる言葉だった。
男は、ゆっくりと身を起こした。
顔を上げ、月明かりが、その顔を照らし出す。
20代くらいの、まだ若い男だった。
囚われる際にかなり暴行を受けたらしく、着ている服はぼろぼろになっている。
「……あー、声が、頭に響くな……」
男はイテテ……と、顔の片側を抑えながら、うめいた。
「私は、トキハ。面土国の王女だ。お前は?」
「……名か。無策のサクと呼ばれていた」
トキハは鼻で笑った。
「無策か。それでここに放り込まれたか」
「そういうことになっちまった」
男は壁を背にして、トキハに横顔を見せるように座り直す。
トキハは木の格子越しに、男の方に寄った。
高熱と肩の痛みを紛らわせるために、男と話すことにした。
「無策のサク。お前は何をした。私と同じ、この国に歯向かったのか」
「俺はこの国が大嫌いなんだ。だからいろいろ盗んでやったのさ」
「ほう」
トキハの顔に、今までにない光が差し込んだ。
今のトキハにとって、邪馬台国を害する者は、どんな者でも味方だった。
「でも、足がついてしまってな」
サクという男は、辺りを警戒するかのように、声を潜めた。
「なにを盗んだ?」
「いろいろ。奴らにとっちゃ、大変なものさ」
サクは壁にもたれかかり、苦しそうに息をついた。
「だが取ってやったんだ。お偉いさんたちが、とんでもない方法で国を大きくしている、その証拠をな」
その言葉は、トキハの心の奥深くに、突き刺さった。
(…やはり……! こいつも見たのか。この国が、海賊国家である証拠を……)
トキハは前のめりになった。
「……そうか。お前も、この国の海賊行為を見たのだな」
その言葉に、男はぴくり、と反応したが、すぐになんでもなかったかのような顔になる。
「……そうかもな。ともかくその奪った証拠を隠したから、俺はここに閉じ込められた。奴ら、その隠し場所を知りたいんだ」
「それで、すぐに殺せないというわけか」
「そうだ。相当困っているだろうさ」
「ハハハ、案外に無策でもない」
トキハは声を上げて笑った。
そんな、たった数分のやり取りで、すでに二人の間に奇妙な絆が生まれつつあった。
「で、トキハさんとやらは、どうしてここに?」
トキハの顔から、笑みが消えた。
「我が面土国は、邪馬台国に幾度も海賊行為を受けている。多くの村が襲われ、多くの船が沈められた。無惨に殺された民に代わって、私がこの手で復讐をしに来た」
「……邪馬台国が、海賊行為を?」
サクは瞬きをした。
「そうだ。この旗が何よりの証拠」
そう言って、トキハは懐から畳んであった、血に染まったボロ布を取り出し、男に見せた。
それは破れてはいるものの、国を象徴する旗の一部が描かれていた。
「………」
サクは格子越しに、その布を、瞬きもせずにじっと見る。
まるで、脳裏に焼き付けるかのように。
「だから私は、この国を絶対に許さない。……今生でなければ来生で、復讐を果たす」
トキハは言いながら、布を握った拳を震わせた。
その目はいつのまにか、涙ぐんでいる。
サクはただ、そうか、とだけ言った。
「で、トキハさんとやら。あんた、腹は減ってないか?」
男は突然、話を変えた。
「もう何日も食べていない。自分が空腹なのかどうかもわからない」
トキハは旗の布をしまいながら、自分の体のことなど、どうでもいいことのように言った。
「うへ、ひどいことするな、邪馬台国ってのは」
「私が食べないだけだ。奴らの施しを受けるほど、腐ってはいない」
トキハは声を大きくして言った。
そのせいで、ズキン、と左腕の傷に痛みが走り、トキハは腕をおさえ、ぐっ、と歯を食いしばる。
「なら、これ食えよ」
サクは、懐から何かを取り出した。
「ついさっき、奴らから盗んできたものだ」
そう言って、サクは格子越しに、それをトキハの方へ差し出した。
「……なんだ、これは」
トキハは初めて見るそれに、不思議そうにする。
だが、とても良い香りがしていた。
「『パン』っていうらしい。たぶん卑弥呼って王の食事だ。それを盗んでやったから、とんでもなく困っているだろうな」
ハハハ、と無策の男は笑った。
「でも、私は……」
トキハはためらった。
餓死は、彼女が選んだ、最後の戦い。
食べてはならない。




