ヌナカワの頼み 前編
晩夏の空は高く澄み渡り、吹き抜ける風には実りの香りが混じっている。
その年の邪馬台国にとって、今はかつてないほどに期待の膨らむ季節であった。
朔がもたらした鉄の農具――鋭い刃を持つ鋤や鍬――は、それまで人の手では深く耕せなかった固い大地をたやすく切り開き、根の張りを劇的に良くした。
さらに、牛や豚、鶏といった家畜の導入と、それにより生み出される発酵堆肥は、痩せて栄養の乏しかった土地を、黒々とした生命力に満ちた豊かな土壌へと変えたのだ。
そのおかげで、宮殿の巨大な高床式倉庫群は、例年以上の米や粟で満たされることが確実視されている。
収穫を待つ農民たちの顔にも、飢えの恐怖ではなく、労働の喜びと安堵の色が浮かんでいた。
女王・卑弥呼と宰相タケヒコは、高台からその景色を見下ろし、深い満足感を覚えていた。
この豊かさこそ、彼女の持つ神権と、彼女が見出し、信じて重用した賢者・朔の知恵が正しかったことの、何よりの証に他ならない。国が富むことは、王の威信そのものであった。
だがその同じ空の下で、全く違う秋を迎えようとしている国があった。
東の山深き国、越。
険しい山々に抱かれ、翡翠の産地としても知られるその国は、今、静まり返っていた。
女王ヌナカワが治めるその国は、その年、未曾有の大凶作に見舞われていたのである。
原因は夏の冷害だった。
本来ならば灼熱の太陽が照りつけ、稲がその熱を吸い込んで育つはずの季節に、北の海からの冷たい風がやむことなく吹き荒れた。冷気を含んだ霧が山肌を這い、長雨が何十日も続いたのだ。
太陽は厚い鉛色の雲に隠れ、人々はその顔を拝むことすらままならない。山々に囲まれた彼らの土地は、ただでさえ日照時間が短いというのに。
稲の育ちは著しく遅れ、田の水は冷たいまま温まることがなかった。
秋風が吹き始める今になっても、稲穂はようやく出たものの、そのほとんどは実を結ぶことなく、籾の中は空っぽのままだ。
青白く、力なく首を垂れる稲穂の群れは、まるで死にゆく兵士のようにも見えた。
実りの季節は早くも半ばを過ぎようとしている。
このまま時が過ぎれば、国の民は冬を越すための糧を持たず、飢えて死ぬしかない。
村からは子供の笑い声が消え、大人たちは絶望的な目で空を見上げるだけだった。その恐るべき現実が、女王ヌナカワと彼女の民に、鉛のように重くのしかかっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
宮殿の謁見の間に、使者が転がり込むように駆け込んできたのは、そんな初秋の日の穏やかな昼下がりだった。
「申し上げます! 越の国より、急使! ……女王ヌナカワ様が自ら、謁見を求めておられます!」
その報せに、卑弥呼とタケヒコは驚きに顔を見合わせた。
同盟国とはいえ、国の長が正式な事前の使者も立てず、これほど切羽詰まった様子で突然訪れるなど、外交上の常識では考えられない。
よほどの事態が起きているに違いない。
二人の間に、張り詰めた緊張が走った。
「通せ」
広間に通されたヌナカワの姿を見た瞬間、広間の空気は凍りついた。
卑弥呼たちの予想をさらに超えていたからだ。
彼女は、変わり果てていた。
以前、朔に奇病『苔むす病』を救われ、石鹸の知恵を授かった頃の、あの生命力に満ち、自信に満ち溢れた美しさは完全に失せている。
高価なはずの絹の衣は長旅の泥と雨で汚れ、ところどころ解れている。
誇らしかった翡翠の髪飾りも、今は手入れもされず、ただ虚しく揺れているだけだった。
その顔は、長旅の疲労と、幾夜も眠れぬ夜を重ねた苦悩、そして民を憂う深い絶望で青白くやつれ、頬はこけていた。
「卑弥呼様……」
ヌナカワは玉座の前の冷たい石畳に、その身を投げ出すように崩れ落ちた。
何の躊躇いもなく、額を冷たい床に強く擦りつける。
「……どうか、お助けください。このままでは、越の国は冬を越す前に……民は全て飢え死んでしまいます……!」
彼女の震える声が、静かな広間に悲痛に響き渡った。
「どうか、豊作と聞く邪馬台国の豊かな米を、お分けください。どうか、我らに食料を……。無論ただとは申しませぬ。対価として、我が国にあるものでしたら何でも、私の命すらもお譲りいたします。どうか!」
ヌナカワの必死の懇願。
涙で濡れたその瞳は、なりふり構わぬ覚悟を宿していた。
卑弥呼は玉座から立ち上がると、ヌナカワのそばまで行き、その顔を上げさせた。
その表情には、友を思う慈悲と、王としての威厳が同居している。
「ヌナカワ殿、顔を上げよ。そのようなことはせずともよい」
「……しかし、卑弥呼様……!」
「我らは盟友。そなたの国の窮状、見過ごすわけにはいかぬ。米と金も送ろう。幸い、今年の我が国は、ある男の知恵のおかげで、かつてないほどに大豊作となる見込みでな」
卑弥呼は、広間の脇でこの異様な事態を静かに見守っていた朔に、ちらりと視線を向けてそう言った。
ヌナカワの顔に、ぱっと希望の光がさす。
「なんと……なんと、ありがたきお言葉……!」
ヌナカワが再び深々と頭を下げようとするのを、卑弥呼は手で制した。
「気にするな。困った時はお互い様だ。だが、ただ米を送るだけでは、その場しのぎにしかなるまい。――サク」
「はい」
卑弥呼に名を呼ばれ、朔が前に出てその隣に畏まった。
護衛のユズリハがその傍らに控えている。
「遠方より自ら出向いてくれたヌナカワ殿の気持ちに応えねばならぬ。三日間、ヌナカワ殿の国にてそなたの知恵を授けよ。根本から解決する術をな」
「わかりました」
朔は静かに、しかし力強く頷いた。
その目には、すでに解決への道筋が見えているかのような理知的な光が宿っていた。
「よろしいのですか、姉上……三日といえど」
駆け寄ってきたタケヒコが卑弥呼の耳元で、他の者には聞こえぬようそっと囁いた。
朔の持つ『未来の知恵』は、今やこの国の最高機密であり、国力の源泉である。
それを、他国へ、そう易々と……。
しかし卑弥呼がこれほど太っ腹なのには、もうひとつ理由があった。
「代わりと言ってはなんだが、ヌナカワ殿」
卑弥呼は、柔らかな笑みを浮かべつつも、鋭い眼光で話を続けた。
「我々は今、『石炭』が喉から手が出るほどに欲しいのだ。そなたの国には、山々に黒く『燃ゆる石』が眠ると聞く。定価でよいから、今貴国にある分を全て、そしてこれからも継続的に我が国に売ってほしい」
朔がもたらした製鉄技術。
その生産量をさらに爆発的に増大させ、より質の高い鋼を作るためには、木炭や薪よりも遥かに強力な火力と持続力を持つ、石炭が不可欠だったのだ。
産業革命の種火を大きくするには、越の資源が必要だった。
「なんと、そんなことでよろしいのですか」
ヌナカワは目を丸くした。
米という、今最も貴重な「命をつなぐ糧」に比べれば、山から掘り出せる、ただ燃えるだけの黒い「石」など、彼女にとってはあまりに軽い対価だった。
しかも差し出すのではない。
買い取ってくれるというのである。
「ヌナカワ殿。我が国にとって、これ以上ありがたいものはない」
「卑弥呼様。この度の御恩、心より感謝いたします。石炭は国のありったけをお送りいたしましょう!」
「よかった。こちらこそ感謝するぞ。商談成立だな」
卑弥呼は朔とタケヒコに、後は任せる、と告げ、満足げに玉座から去った。
残された朔は、希望の光に顔を輝かせるヌナカワに向き直った。
「ご無沙汰しております。ヌナカワ様」
「サク……様」
ヌナカワが、まるで救世主を見るかのように、かすれた声で彼の名を呼んだ。
かつて死の病『苔むす病』から自分を救ってくれた、不思議な知恵を持つ賢者。
彼がまた、不可能を可能にする奇跡を起こしてくれるかもしれない。
朔はその重い期待をまっすぐに受け止めた。




