衣の刷新
一年の中で、太陽が残酷に地上を焼き尽くす季節が巡ってきていた。
空は突き抜けるような青さだが、そこから降り注ぐ光は暴力的なまでの熱量を伴っている。
卑弥呼の私室は、風通しを良くするために窓が開けられ、竹簾がかけられていたが、それでも熱気は澱んでいた。
部屋の中央、一段高い場所に設けられた座所には、豪奢な絹の衣を何重にもまとった卑弥呼が、気怠げに頬杖をついている。
その傍らには、タケヒコが汗を拭いながら木簡に目を通していた。
「……暑い。タケヒコ、風が止まったぞ。もっと扇げぬか」
「姉上、これ以上は無理です。外の風そのものが熱湯のようなのですから」
タケヒコが困り果てたようにため息をついた。
卑弥呼はごくごく薄い着物も持っているが、9割が重ねられた厚着に分類される衣である。
神事に合わせて着回しすると、夏はどうしても地獄になってしまう。
卑弥呼が何度目か知れぬため息をついた時、謁見を希望してきた朔たちが私室へと案内される。
三人が畏まると、卑弥呼は扇をぱたりと閉じ、わずかに身を乗り出した。
その切れ長の瞳が、朔の姿を捉えて大きく見開かれる。
「朔か。……なんと、奇妙な恰好をしておるな」
卑弥呼の声には、咎める響きよりも、純粋な驚きが含まれていた。
タケヒコもまた、手元の木簡を置いてまじまじと朔を見る。
「そなた、それは……腕も足も剥き出しではないか。なんとふしだらな、と言いたいところだが……」
タケヒコは自身の首元を伝う汗をぬぐい、羨ましそうに目を細めた。
「ずいぶんと涼し気に見える。それにその布、いつものゴワゴワとした麻ではないな?」
朔は顔を上げ、爽やかな笑みを浮かべた。
「陛下、タケヒコ様。今日は、この酷暑を乗り切るための『新しい衣』をお見せしたく」
朔が合図を送ると、後ろに控えていたユズリハとアカネが、ゆっくりと立ち上がり、羽織っていた薄い布を肩から落とした。
その瞬間、部屋の空気が変わったようだった。
「ほう……!」
卑弥呼の口から、感嘆の息が漏れる。
ユズリハが身にまとっているのは、深く澄んだ「藍」で染め抜かれた、キャミソールスタイルの上衣と、体のラインに沿ったマーメイドスカートだ。
肩紐は細く編まれた組紐で、彼女の華奢な鎖骨と滑らかな肩のラインを露わにしている。
布地は驚くほど薄く、窓から射し込む光を受けて、まるで水面のように揺らめいた。
深い青色は、見ているだけで体感温度を下げるような清涼感を放っている。
対照的に、アカネがまとっているのは、鮮烈な「茜」色だ。
こちらは肩を大きく出したオフショルダーのデザイン。
ふわりとした袖が二の腕のあたりにあり、そこから手首までは素肌が見えている。
腰に巻かれた帯が彼女のくびれを強調し、膝上の短い丈でひらひらとしたスカートは、動くたびに軽やかに翻る。
情熱的な赤色だが、素材の透け感が暑苦しさを消し去り、咲き誇る夏の花のような生命力を感じさせた。
二人の姿は、これまでの「一枚布をかぶる」もしくは「布を体に巻き付けて紐で縛るだけ」の衣服とは、根本的に構造が異なっていた。
それは、布が体のラインに合わせて「仕立てられている」からだ。
「美しい……この色もなんと鮮やかなことか」
タケヒコが思わず立ち上がり、二人の近くまで歩み寄った。
「これは、大陸から送られてくる献上品……いや、それ以上か? この光沢、この薄さ。それにこの鮮やかな色」
タケヒコは遠慮がちにユズリハの袖口の布端をつまみ、その手触りに驚愕した。
「滑らかだ。麻のような刺々しさが微塵もない。まるで赤子の肌のようだ……。一体どうやって作ったのだ?」
朔は自信に満ちた表情で説明を始めた。
「素材は二つ。山野に自生するカラムシから取り出した極上の繊維と、野生の蚕から紡いだ糸を混ぜて織り上げました。カラムシは丁寧に苧引きをして不純物を取り除き、絹のような光沢を出しています。そこに、蚕の糸のしなやかさを加えることで、肌触りを良くしました」
「カラムシも、蚕も……。あのようなか細い糸が、これほどの服になるのか……!」
卑弥呼は興味深そうに目を輝かせ、座所からゆっくりと降りてきた。
彼女が動くと、何枚も重ねた重い布が衣擦れの音を立てる。
それは権威の象徴ではあるが、この季節には枷でしかなかった。
「それだけではありません」
朔は続ける。
「糸を紡ぐための『紡錘車』も織機も、工房で新たに組み上げました。これまでの地機よりも速く、そして緻密に織ることができます」
朔の言葉に、タケヒコは唸った。
「道具から作り変えたというのか……。相変わらず、そなたの知恵には底がないな」
卑弥呼はアカネの前に立ち、その茜色の衣に指先で愛でるように撫でていたが、やがてくるりと振り返り、熱っぽい視線を朔に向けた。
「朔。そなた、そこまで言うからには、これと同じものを私の分も用意しているのだろうな?」
「もちろんです」
朔は控えていた従者に合図をし、白木の箱を持ってこさせた。
「陛下のものは、染色はあえてせず、素材そのものの美しさを生かした純白の衣にしました」
箱が開かれると、中には雪のように白く、羽衣のように軽い衣が収められていた。
「おお……」
卑弥呼の目が輝く。
「……素晴らしい。今すぐ着替える。皆、下がっておれ。朔、手伝え」
「は?」
「姉上、それはさすがに……」
タケヒコが慌てて止めようとするが、卑弥呼は扇でそれを制した。
「着付け方が分からぬ。朔に教わらねば着られぬであろう? タケヒコ、お前も向こうを向くか、どこかに行け」
しかし、朔はあらかじめこうなることを予期していた。
「恐れながら陛下。男女の別もあり、着付けはユズリハにお任せします。私は几帳の外から、手順をご説明します」
「……む。朔が直接手解きしてくれるのではないのか?」
卑弥呼は少し不満げに唇を尖らせたが、タケヒコの安堵した顔を見て、しぶしぶ頷いた。
「よいだろう。ユズリハ、参れ」
「はっ」
部屋の奥、几帳の陰で、卑弥呼は重厚な朝廷の衣を脱ぎ捨てた。
ユズリハが新しい衣を手に、緊張した面持ちで控える。
朔は几帳越しに声をかけた。
「ユズリハ、基本はカシュクールワンピースのような構造だ。袖を通してもらったら、布を体に巻き付けるように胸元の紐を背中で交差させ、前で結ぶ。肩口を広げてオフショルダーに」
衣擦れの音が止み、しばしの静寂の後。
「……できました」
ユズリハの声が聞こえた。
朔がタケヒコと共に視線を戻すと、そこには純白の衣をまとった卑弥呼が立っていた。
「おお……姉上……」
その姿は、まさに神々しいの一言だった。
光沢のある白いカラムシの布は、卑弥呼の白い肌と溶け合うようで、すらりとした四肢を際立たせ、彼女の神秘性を際立たせている。
大胆に開かれたオフショルダーの襟元からは、華奢な鎖骨と滑らかな肩のラインが露わになり、鎖骨のくぼみに汗が真珠のように光っていた。
腰の高い位置で帯を結んだことで生まれたAラインのドレープは、古代の女神像のような気品と、現代的な洗練を併せ持っている。
これまでの重苦しい衣装から解き放たれ、彼女はまるで少女のように軽やかにその場で一回転してみせた。
膝下の裾がふわりと舞い上がり、涼やかな風が起こる。
「ああ……なんて軽いのだ」
卑弥呼は自分の腕をさすり、うっとりとした表情を浮かべた。
「風が、布を通り抜けて肌に触れるのが分かる。まるで裸でいるよりも心地よい。朔、これは魔法の衣か?」
「いいえ、ただの技術の結晶です」
「ふふ、謙遜するな」
卑弥呼は軽やかな足取りで朔に近づくと、その距離を詰め、吐息がかかるほどの至近距離で立ち止まった。
甘い香油の匂いと共に、彼女の体温が伝わってくる。
彼女は朔の胸板に白く細い指を這わせ、上目遣いに彼を見つめた。
その瞳は為政者としての鋭さを潜め、女としての艶を帯びていた。
「そなたは私を喜ばせる術心得ている」
「よ、よよ、喜んでもらえて、何よりです」
朔は動じないように努めたが、彼女の纏う妖艶な雰囲気には、抗いがたい引力があった。
卑弥呼は指先でスカートの裾を摘まみ、いたずらっぽく微笑む。
「ただ、足元の裾はこんなに長くなくて良い」
そう言って、卑弥呼は裾を折り込み、股下3センチまで畳み込む。
「へ、陛下……!」
朔は顔を真赤にする。
後ろでタケヒコが「ゴホン!」と盛大に咳払いをした。
「姉上、戯れが過ぎますぞ。朔も困っておるでしょう」
卑弥呼はけらけらと笑い、スカートを戻した。
だが、その瞳の奥には、朔という存在への深い所有欲が見え隠れしていた。
「冗談だ。……だが、朔よ。一つ懸念がある」
彼女は真面目な顔つきに戻り、自分の衣を見下ろした。
「この衣、夏には極上だが、冬はどうなのだ? これほど薄くては、凍えてしまうのではないか?」
朔は頷き、自信たっぷりに答えた。
「ご安心ください。この織機の技術があれば、布を何層にも重ねて空気の層を作る『多重織り』や、獣毛を混ぜ込んだ厚手の布を作ることも可能です。また、蚕の繭の中綿を使えば、驚くほど軽くて暖かい防寒着も作れます」
「ほう、そなたの服は冬も暖かく過ごせるというのか」
「もちろんです」
「ははは! それはいい!」
卑弥呼は上機嫌に笑い、再び座所へと戻った。
その足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽快だった。
「気に入った。今年の夏はこの衣で過ごすことにする。あの重苦しい儀礼服は、祭祀の間だけで十分だ」
彼女はタケヒコに向き直り、威厳ある声で命じた。
「タケヒコ、直ちに布令を出せ。朔の下に、見込みのある若者たちを集めるのだ」
「職人を育てるのですね?」
「そうだ。この衣は、ただ快適なだけではない。交易において強力な武器になる。大陸の絹にも劣らぬこの布があれば、我らは他国に対し優位に立てる。……とにもかくにも、まずは私の着替えをあと十着、色違いで作らせよ」
「じゅ、十着ですか……」
タケヒコは苦笑したが、その目もまた、この新技術がもたらす未来の繁栄を見据えて輝いていた。
「朔よ、頼んだぞ。そなたの作るものが、この国を豊かに変えていくのを楽しみにしている」
卑弥呼は白く輝く袖を振ってみせた。
その姿は、新しい時代の到来を告げる女神そのものだった。
朔は深く一礼し、確かな手応えと共に、蝉時雨の響く回廊を後にしたのだった。




