イワシの和風ペペロンチーノ
入道雲が、青の深淵へと突き抜けるように立ち上っていた。
視界の端が揺らぐほどの猛暑である。
じりじりと肌を焼く陽光は容赦なく地上を照らしつけ、木々からは耳をつんざくような蝉時雨が降り注いでいる。
真夏日の正午、誰もが木陰で息を潜める時間帯である。
「――出かけるぞ!」
静寂に包まれていた王宮の広間に、太陽そのもののような声が響き渡った。
卑弥呼である。彼女は鮮やかな衣の袖をまくり上げ、額にうっすらと汗の珠を浮かべながら、板間に仁王立ちしていた。
その姿からは、暑さをものともしない、燃え盛る炎のような覇気が立ち上っている。
「あ、姉上……。こんな炎天下に、また急な……」
タケヒコが、暑さにぐったりと項垂れながら問いかける。
団扇を動かす手も重く、すでに気力の大半を暑さに奪われている様子だ。
だが、卑弥呼の瞳は爛々《らんらん》と輝き、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い光を放っていた。
「海だ! 先ほど漁師たちから『かつてないほど巨大な鯛が跳ねている』との報告があった。まさに海の主とも言うべきその姿、この目で確かめずして何の女王か! 私が直々に海へもむき、豊漁の祈祷を捧げる!」
卑弥呼は行動の人だ。
思い立ったら吉日、いや、思い立った瞬間こそが天命の刻なのである。
彼女にとって、外気温の高さなど些末な障害に過ぎない。
「サクよ! 侍医の料理が間に合わぬのだ。腹が減っては祈祷もできぬ。手早く旨いものは作れぬか! 食べてすぐに出る!」
たまたまタケヒコに報告に来ていた料理人の朔が、卑弥呼の目に入ってしまった。
「わかりました。なにかお作りします」
朔は畏まると、すぐに踵を返して厨房へと走る。
その傍らで、侍女のユズリハが小声で告げた。
「サク。なにもないぞ」
「わかってる。予想外だった。全く準備していなかった」
炊いた米がない。
今から炊くとなると、とても間に合わない。
主食がないというのは、この時代の食事において致命的だ。
しかし朔は焦ることなく、素早く厨房内の食材を確認した。
手元にあるのは、先ほど港から届いたばかりの、銀色に輝く新鮮な真鰯が数尾。
「ニンニクがある。たまねぎ、唐辛子もある。……よし、パスタだな」
朔の脳裏に、記憶にある一皿が鮮明に浮かび上がる。
鰯の旨味をオイルに移しきることで、シンプルな材料からは想像もつかない奥深さを生み出す、和風ペペロンチーノだ。
熱伝達の早い銅鍋でたっぷりの湯を沸かしつつ、イワシの下処理にかかる。
開きにして手早く中骨を取り除き、包丁の刃先を使って叩くように細かく刻んでいく。
本来のレシピでは香味野菜をふんだんに使うことで複雑さを出すが、今はあるもので鰯の持つ力強さを活かすことに特化する。
新鮮な鰯の身は弾力があり、叩くたびに微かな粘り気を帯びていく。
たまねぎとニンニクは香りが立ちやすいよう丁寧にみじん切りにし、唐辛子は種をきれいに抜いて輪切りにする。
「サク、何してるの?」
厨房から漂い始めた香りに釣られ、アカネがふらりと覗きに来た。
「陛下に鰯の辛味和えパスタを作っている。汗もかくから、しっかり塩味のきいたものがいいかなと思ってさ」
「へぇぇ、イワシのパスタ! パスタ勉強したい!」
アカネが覗き込む中、熱した厚手の鉄鍋に、たっぷりの油を注ぐ。
まだ油が温まりきらないうちにニンニクを入れ、弱火でじっくりと熱を加える。焦がさぬよう、油にニンニクの精油成分を移していく作業だ。
やがて、厨房全体に食欲を刺激する芳醇な香りが満ち始めた頃、朔は火力を強め、刻んだ鰯とたまねぎ、唐辛子を一気に投入した。
ジュワワワワッ!!
激しい音と共に、油が踊り、香ばしい匂いが爆発するように弾ける。
「うわぁ、なんていい匂い……! 魚特有の生臭さが消し飛んでいくみたい」
アカネが驚きの声を上げた。
朔は手を休めず、さらに炒め続ける。
鰯の身が熱で崩れ、繊維がほどけ、油の中で溶けていく。
カリカリになる手前、身そのものが濃厚な「魚のソース」へと変貌する瞬間を見極めるのだ。
(ここだな)
朔は麺の茹で汁をおたま一杯分加え、鍋を激しく前後に揺すった。
油と水分が混ざり合い、白濁してとろみが生まれる。乳化だ。
これが麺によく絡む、黄金色のソースとなる。
隠し味に、この国で作らせた魚醤を数滴垂らすと、香りに深みが増した。
そこへアルデンテで茹で上げた熱々の麺を投入し、手早く箸で煽って全体を絡める。
仕上げに、刻んだばかりの瑞々しい浅葱を散らせば完成だ。
それを持って、急ぎ卑弥呼の私室へと駆ける。
「お待たせいたしました、陛下」
目の前に置かれたのは、鰯の身を纏い、艶やかに光る麺料理。
漂うニンニクのパンチの効いた香りと、唐辛子の刺激的な匂いが、暑さで減退しかけていた食欲の扉を強引にこじ開ける。
「ほう! これはまた、強烈に唆る香りだな! そして、麺か!」
卑弥呼は迷わず箸を取り、豪快に麺をひとすくいし、口へと運んだ。
ズルッ、チュルッ。
その瞬間、卑弥呼の動きがぴたりと止まる。
そして、目を見開いた。
「――っ! 旨い!!」
弾むような声が上がった。
「鰯か! その旨味だけが凝縮されて、麺の一本一本にまで濃厚に絡みついている!」
ジュルルッ、ジュチュルッ。
「うむ! 辛さが後を引かず、次の一口を欲させるのは見事というほかない。イワシとニンニクがつくるこの油のコク……止まらなくなるな」
朔はいつものように微笑む。
「鰯の脂とニンニクで、夏の疲れを吹き飛ばし、スタミナもつくでしょう」
「侍医の料理より良いかもしれぬな。ならサクに毎日作ってもらうか」
卑弥呼は、夢中で箸を動かしながら、冗談ともつかぬことを言う。
「よし、力が湧いてきたぞ」
唐辛子のカプサイシンが体を内側から熱くし、新陳代謝を高める。
鰯の栄養が即座に力へと変わり、体の芯から活力が湧き上がってくるのを彼女は感じていた。
「ふぅ……満たされた!」
あっという間に皿を空にすると、卑弥呼は杯の水を一気に干し、高らかに笑った。その笑顔は、真夏の太陽よりも眩しい。
「よし、行くぞタケヒコ! この活力があれば、どんな大鯛も素手で捕らえられる気がするわ! 神事も一息に終わらせてくれよう!」
嵐のような勢いで、卑弥呼は夏の光が満ちる外へと飛び出していった。その足取りは軽く、暑さなど微塵も感じさせない。
「姉上! 輿、輿に乗ってください!」
あとに残されたのは、綺麗に平らげられた空っぽの皿と、厨房に漂う、ニンニクと潮騒を感じさせる香ばしい匂いだけ。
朔は苦笑しながら、まだ興奮冷めやらぬユズリハと顔を見合わせた。
「さて、俺たちも食べるか。鰯はまだあるからな。この暑さを乗り切るには、俺たちにも栄養が必要だ」
「私にも同じの、作ってくれるのか」
ユズリハが珍しく、嬉しそうな顔をしている。
もしかして、ああいうパスタ好きなのかな。
「……食べる?」
「いつもは気にならないのだが、見ていたら食べたくなった」
きっと香りに誘われたのだ、とユズリハが目を細めた。
「じゃあ3人分つくるか。アカネにとられるだろうから」
うん、とユズリハが愛らしく頷く。
厨房の窓から見える空は、どこまでも青く、高く広がる。
入道雲の白さが、先ほどよりも一層鮮やかに目に映った。
今回描いたものより大変手の込んだ、本物の『イワシを用いたペペロンチーノ』(=絶望のパスタ)がイタリアンレストラン『ピエトロ』様で味わえます。
ぜひご賞味ください。




