白き金属の鍵 後編
都を囲む山々の緑は、日増しにその深さを増し、里に吹き抜ける風にも若草の青い香りが混じる季節となっていた。
高い窓から差し込む日差しは、すでに春の柔らかな装いを捨て、肌をじりじりと焦がすような夏の力強さを帯び始めている。
遠くの森からは蝉の声が微かに響き始め、時折、湿り気を帯びた南風が宮殿の御簾を大きく揺らしては、室内に籠もる気だるげな熱気を運び去っていく。
そんな初夏の昼下がり。
卑弥呼は友人ミトからの息災を知らせる手紙を受け、上機嫌で政務をこなしていた。
そこへ朔が、ユズリハと数名の兵士と共に謁見を求めてきた。
その手には、人の背丈ほどもある巨大で平たい何かが、分厚い麻布に厳重に包まれている。
「サク? そなた何をまた大層なものを……」
卑弥呼が、楽しげに問いかける。
タケヒコも、何事かと訝しげにその包みを見つめている。
「陛下」と朔は汗を拭いながら、その巨大な包みを部屋の中央に垂直に立てかけた。
「先日手に入れた鉱石と、もとよりある銅を合わせ、作り上げたものをお持ちしました」
ユズリハが、その麻布を静かに取り払った。
現れたのは、磨き上げられた銀白色の金属板を、精巧な木の枠にはめ込んだ、巨大な『姿見』だった。
それは、部屋の灯火と窓から差し込む僅かな光を、残らず反射し、それ自体が、まるで光の門であるかのように、厳かに輝いていた。
「なんと」
卑弥呼は、息を呑んだ。
彼女は、タケヒコとユズリハに促されるように、玉座から立ち上がり、その、あまりに巨大な鏡の前へと、ゆっくりと歩み寄った。
そして、彼女は、そこに映る「女王」と、初めて対面した。
そこにいたのは、従来の粗悪な銅鏡に映る、ぼんやりとした赤黒いものではなかった。
複雑な文様が描かれた、赤い衣。
幾重にも重ねられた、純白の麻。
首元に輝く、大粒の勾玉。
そしてそれら全てを纏う、威厳に満ちた姿。
「……これが……私なのか」
彼女は生まれて初めて、自分自身を細部まで「客観的」に見た。
神聖な儀式を執り行う、女王としての卑弥呼の姿が、そこにはあった。
「まるで銀のように白く、水面のように澄んでいる……」
卑弥呼は鏡の中の自分に向かって、ふっと、微笑んでみせた。
鏡の中の女王も、確かに、微笑み返した。
「良いぞ、サク! 気に入った! これこそ我が私室にふさわしい!」
朔は、その女王の喜びに、安堵の息をついた。
「これは『白銅』の鏡といいます」
「白銅?」
「はい。通常の銅に、我が国の山で採れる『錫』をたっぷりと混ぜ、さらに湯が隅々まで流れるよう『鉛』を少しだけ加えます。すると、銅は赤を脱ぎ捨て、このように硬く、白銀の輝きを帯びます」
「銅が、白く変わるというのか……。まるで錬金術ではないか」
「そこまででは」と、朔は少し照れたように笑った。
「この鏡の力は、姿を映すだけではございません」
朔は、兵士に目配せをした。
兵士たちがまた違う鏡を抱えて、朔に案内されるまま、玉座の間へと向かう。
玉座の間は、日中であっても、建物の構造上、奥深くにある玉座の周辺は、薄暗く、陰鬱な空気に沈んでいた。
それが、かえって女王の神秘性を高めていると、これまでは考えられていた。
朔は、その薄暗い玉座の間に姿見を運び込ませると、その角度を入念に調整し始めた。
「陛下。恐れ入りますが、いつものように玉座にお座りください」
卑弥呼は、訝しげな顔をしながらも、玉座に腰を下ろした。
「……これで、良いのか?」
「よし、今だ」
朔の合図で、兵士の一人が、鏡の角度を微かに動かした。
次の瞬間。
奇跡が、起こった。
窓から差し込んでいた、ただの一筋の太陽光が、巨大な鏡面に反射し、増幅され、まるで、天から降り注ぐ光の柱のように、玉座に座る卑弥呼の姿を、まっすぐに、照らし出したのだ。
白銅の鋭い反射光を浴び、彼女の純白の衣は、眩いばかりに輝く。
髪に挿した翡翠の髪飾りや、首元の勾玉が、きらきらと光を放つ。
薄暗い広間の中で、玉座の一点だけが、後光が差したかのように、神々しい光に包まれていた。
「……おお……!」
タケヒコが、そのあまりに幻想的で計算され尽くした光景に戦慄き、その場にひざまずいた。
「姉上……! まるで、日の神そのものにございます!」
卑弥呼自身もまた、自らが光に照らされて輝いているのを、信じられないものを見るように見つめていた。
「サク、そなたは光までも操るのか……」
「いえ」と朔は首を振り、付け加えた。
「銀よりも硬く、傷つきにくいこの白銅だからこそ、光を曇らせることなく操れるのです。これで他国と対面時にも、陛下をより強くお見せすることができます」
卑弥呼は、その言葉に心の底から満足した。
「素晴らしい……! これだ!これぞ、我が玉座にふさわしい! サクよ、この仕組み、私の私室にもすぐに設えよ! この暗い部屋が、これほど明るくなるなど……! 他の鏡も使い、部屋の隅々までこの光で満たすのだ!」
その命令は、もはや為政者としてではなく、新しい玩具を手に入れた子供のように、弾んでいた。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の午後、王宮の中庭で休息中のタケヒコを見つけ、朔が声を掛ける。
「おお、サク殿にユズリハも。どうされた」
「伝え忘れていました。鏡には、もうひとつ使い道がありまして」
「鏡に?」
朔はユズリハに、なにやら耳打ちする。
そのユズリハが勢いよく走り去る頃、朔は懐から手のひらサイズの小さな白銅の手鏡を取り出した。
やがて、ユズリハからの合図が来たのを確認し、朔が話し始める。
「私が今から、この鏡で光をあちらの物見やぐらに向けて、点滅させます。もし、やぐらの上から光が返ってきたら、手を上げてください」
朔は、太陽の光をその小さな手鏡で反射させ、遠くの物見やぐらに向かって、一定のリズムで点滅させた。
チカッ、チカ、チカッ。(「応答セヨ」)
数瞬後。
遠くの物見やぐらの上から、同じように、鋭い光が、点滅し返してきた。
チカッ、チカ、チカッ。(「応答スル」)
「………!」
タケヒコの顔から、血の気が引いた。
彼は目を疑うように、何度もやぐらと朔の顔を見比べた。
朔は、さらに、複雑な信号を送る。
チカッ、チカッ。(「敵」)
チカッ。(「見ユ」)
「これは敵が見えた、という意味の合図です」
やぐらからも、光が返る。
チカッ、チカッチカッ。(「リョウカイ」)
「了解という返事が来ました」
「サク殿!」
タケヒコは朔の元へと駆け寄ると、その両肩を、強く掴んだ。
その手は、興奮で震えていた。
「今のはまさか……!」
「『光伝』といいまして」と朔は、静かに答えた。
「光の速さで、言葉を伝える術。狼煙のように、雨や霧に邪魔されることも少なく、敵にその内容を知られることもない。これさえあれば、都と国境の砦が瞬時に繋がります」
タケヒコは、その言葉の意味を宰相として瞬時に理解した。
軍事。防衛。交易。国の全ての神経網が、今、変わる。
敵が国境を越えたその瞬間に、都にいる我らがそれを知ることができる。
船が港に入る数刻前に、その到着を知ることができる。
これは千の兵、万の兵に匹敵する、絶対的な「情報力」だ。
「……サク殿!」
タケヒコは朔の手を、固く握りしめた。
「頼む、サク殿! その『光伝』の鏡を国の全ての物見やぐらに、全ての砦に設置できるよう力を貸してくれ! 今すぐ!」
「もちろんです。ただ、今日は陛下の夕餉当番でして、今すぐは……」
「そんなもの、どうでもよい!」
「いや、さすがにそれは」
朔は苦笑し、困り果ててしまう。
◇◆◇◆◇◆◇
その日の夕刻。
調理中の朔が、呼び出される。
卑弥呼の私室には、興奮冷めやらぬ、二人の姿があった。
ユズリハはいつものように朔の斜め後ろに控え、顔を伏せてかしこまっている。
「サクよ、素晴らしいぞ!」と卑弥呼は、無邪気に喜んでいた。
「あの『リフレクター』とやら、気に入った! 私の私室をあの玉座の間よりも明るくしてくれ! それこそ鏡を十枚でも二十枚でも使ってな!」
「姉上、落ち着かれよ」とタケヒコが、真剣な顔でそれを制した。
「サク殿の『光伝』は、国の防衛の根幹となるもの。まずは国境の砦と物見やぐらへの設置が最優先。サク殿、すぐにでも鏡を百枚、いや二百枚作っていただきたい」
二人の熱のこもった、しかし相反する要求。
その板挟みになりながら、朔は尋ねた。
「……陛下。タケヒコ様。材料となる錫は、幸いにも国内の山から十分に採掘できます。銅も鉛も不足はありません。問題は、私の体がひとつしかないことくらいです」
「おお、ならば!」と卑弥呼が身を乗り出す。
「では、まずは私の宮殿用の五十枚を最優先で作るのだな? 来月の祭祀までに、部屋を光で埋め尽くしたいのだ!」
「いやいや。姉上」
タケヒコが、慌てて割って入る。
「祭祀など、後回しで結構。今は隣国との緊張が高まっている時期。まずは国境の砦に配備する二百枚が先決です。サク殿、まずは軍用を全て仕上げてくれ」
「何を言うかタケヒコ! 女王の威光を示すことこそ、国の守りであろうが! 民は私の輝く姿を見て安堵するのだぞ!」
「実質的な防衛力がなければ、威光など吹き飛びます! 敵が攻めてきてからでは遅いのです!」
「姉の頼みが聞けぬと言うのか!」
「国政を預かる宰相として、譲れぬものは譲れません!」
ギャーギャー、ワーワー。
二人の顔は真っ赤になり、互いに一歩も引かない。
「あの……陛下、タケヒコ様……」
「サク! どちらが大事か、そなたならわかるであろう!」
「サク殿! 国の命運がかかっているのだぞ!」
二人は同時に朔に詰め寄った。
「えーと」
朔は僅かに後ずさると、ちらりと視線を向けて、そばにいる女性に助けを求める。
(どうする)
(聞かないで)
(いや、頼むって)
(くすくす……)
終わりの見えない姉弟喧嘩を前に、二人は忍び笑いを漏らすのだった。




