清浄な水
朔の工房に、アカネが勝手に弟子入りしてから数日が過ぎた。
「わぁ~! 透き通ってる! すごい! こんなのできちゃうんだ」
アカネが朔の隣で、出来上がったガラス製のグラスを勝手に手に取っている。
彼女の存在は、常に朔の傍らに控えるユズリハにとって、しつこく飛び回る虫のようにうるさいものであったが、アカネの恐れを知らぬ好奇心は、朔にとって、時に新たな発想の源泉ともなっていた。
さて、先々週より科野国との交易が正式に始まり、希少な方鉛鉱が届くようになった。
それは「鉛」であると同時に、「銀」を含んでいる鉱石で、少量だが銀を手元に置くことができるようになった。
朔はその銀を使って、自らが工房に設えておいた、炭と砂を使った水の「濾過装置」の、さらなる改良にも取り掛かっていた。
精製した銀の一部を、彼のクラフト能力で髪の毛のように細い繊維状(銀綿)と、米粒のように細かい砂粒状(銀砂)に加工し、その二つを濾過装置の炭の層のさらに下に、新たな「清浄の層」として組み込んだ。
銀が持つ、目に見えぬ穢れ(細菌)を滅する力を使うのである。
朔はその改良した装置を宮殿の中庭に移動させ、タケヒコに見に来てほしい旨を伝言した。
◇◆◇◆◇◆◇
そして翌日。
中庭には、朔が設置した、奇妙な、何層にも分かれた粘土製の濾過装置が鎮座していた。
「また新しいものを作り出したのか」
朔はやってきた卑弥呼とタケヒコ、そして朔の影として付き従うユズリハと、そのユズリハを真似るように朔の反対隣に寄り添うアカネの前でその装置を説明する。
「陛下。今日は水です」
ユズリハとアカネは、それぞれ奇妙な器を手にしていた。
それは、朔がガラスの試作の際に作り上げた『ガラスの杯(ワイングラスの原型)』だった。
まだ少し気泡が入り、形も不揃いだが、間違いなく向こう側が透けて見える透明な器。
朔はまず、井戸から汲んできた水を大きな土器で見せた。
これは日々、皆が口にしている、同じ井戸の水である。
「先に、いつもの味をみておいてください」
朔の指示で、アカネがその井戸水を二人のガラスの杯に慣れない手つきで注いで回る。
卑弥呼とタケヒコは、その不思議な杯を興味深げに手に取った。
「……ほう。これはきれいだな」
「この器、氷のようでありながら冷たくない。なんと奇妙な……」
卑弥呼とタケヒコが呟きながら、その杯の水を飲む。
土器で飲む時とは違い、水に微かな土の匂いや金属の匂いが混じっているのがはっきりと分かった。
「……うむ。いつもの水だな」と卑弥呼は言い、特に感想もないという顔をしている。
「では、この水を今からこの装置に通します」
次に彼はその井戸水を改良したばかりの浄水装置の一番上へと、ゆっくりと注ぎ込んだ。
水は砂利の層を抜けて清浄な砂の層を通り、「炭」の層を通過していく。
そして最後に、新しく加えられた「銀の層」をゆっくりと、ゆっくりと通過していった。
まもなく装置の最下部にある竹の樋の先から、ぽつりと一滴の水がこぼれ落ちた。
そしてまたぽつりと。
やがてそれは細く、清らかな一条の糸となった。
朔はユズリハに合図し、その流れ落ちる水を新しい清潔なガラスの杯で受け止めさせた。
杯の中の水は、信じられないほどに透き通っていた。
井戸水にあった、微かな濁りが完全に消え失せている。
太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
彼は、その杯をまず卑弥呼の前に差し出した。
「陛下。これが銀を含めた浄化の力が加わった水です。どうぞ」
卑弥呼は、そのあまりに澄み切った水と、それを映す透明な杯の美しさに一瞬ためらった。
だが、目の前の朔への絶対的な信頼が、彼女に杯を取らせた。
彼女はまずその香りを嗅いだ。
「……匂いが、消えている……まるで何もないかのようだ。清浄な、冬の朝の空気のよう……」
そして彼女はその唇を杯にそっとつけた。
「……なんと」
卑弥呼の目が大きく見開かれた。
タケヒコも、ユズリハも、そしてアカネまでもが固唾を飲んで、女王の反応を見守る。
「これが水……? 私が知る水は、常に土の味がしていた。あるいは鉄の味や草の匂いがした。だがこれは……」
彼女はもう一口、口に含んだ。
「味がない。匂いもない。だがこれほどまでに清らかで、体に優しく染み渡る水……まるで天の雨が、地に落ちる前にそのまま口にしたかのよう」
彼女は恍惚とした表情で、続けた。
「清浄すぎて、甘露のように甘美ですらある……!」
タケヒコも、ユズリハも、アカネも次々とその杯を分けてもらい、一口飲んだ。
タケヒコの反応はより現実的だった。
「……いやはや、信じられぬ……これを通すだけで、雑味が消え、これほどの水になるとは……」
(なんと清浄な……)
ユズリハもその清らかな味わいに目を見張る。
厳しい任務をこなす彼女は、日々、目に見えてにごった水を飲まねばならないこともあった。
表には出さずとも、この中で一番感激していたのは、間違いなくユズリハだった。
「サク! すごい! 水がこんなにおいしいなんて」
アカネはツインテールを揺らし、朔の手を握って子供のようにはしゃいだ声を上げた。
朔の反対の手を、卑弥呼が興奮冷めやらぬ様子で握る。
「サクよ! これは……これは塩に匹敵する! いや、塩が『富』であるならば、これは『命』そのものだ! この国の全ての民の、命だ!」
「気に入ってもらえてよかったです」
朔は一礼すると、卑弥呼の興奮が冷めやらぬうちに、以前から温めていた計画を切り出した。
「つきましては陛下。この『清浄な水』を、この王宮全体に行き渡らせる許可を頂きたいのです。現在、王宮内を走る水路を作り直させてはいただけないでしょうか」
「水路を、作り直す……?」
「はい。単に飲み水だけでなく、王宮を巡る水の流れそのものを清めたいのです。それは確実に、王宮内の無駄な病を減らします」
朔の言葉に、卑弥呼は迷わず頷いた。
今の彼女にとって、朔の言葉は神託にも等しい響きを持っていたからだ。
「よかろう。サクよ、お前に王宮の『水脈』を委ねる。思うがままに整えるがよい」
「ありがとうございます」
こうして朔を総指揮官とした、王宮初の大規模な水道インフラ整備計画が始動した。
といっても、朔のクラフト能力があれば、それほど日数はかからないのだが。
◇◆◇◆◇◆◇
工事が完了したのは、それから2週間ほど後のことだった。
生まれ変わった王宮の景色に、住まう人々は我が目を疑った。
これまでの水路といえば、単に土を掘り下げただけの粗末な溝に過ぎなかった。
そのため、ひとたび大雨が降ればたちまち茶色く濁った泥水が溢れ出し、王宮内の足元をぬかるませた。
逆に夏場ともなれば、流れの悪い澱みにボウフラが大量に湧き出し、腐った水独特の鼻をつく嫌な臭いが漂うのが常であった。
濁り、淀むだけではない。
それが飲料水となっていたのである。
だが朔が整備した新しい水路は、それとは次元が異なっていた。
まず、目に触れる水路の縁は、工房で焼き固められた筒状の土管や、整然と埋められたコンクリートによって美しく整えられ、土が崩れることなどあり得ない構造になっていた。
さらに人々を驚かせたのは、その底だ。
水路の底には、川から集められ、きれいに洗われた白い小石が一面に敷き詰められていたのである。
そこを流れる水は王宮水路入口に設置されている強力なろ過装置と沈殿槽を経由しているため、雨が降ろうとも、驚くほど透き通っていた。
白い小石の上を滑るように流れる透明な水のせせらぎは、陽の光を浴びてキラキラと輝き、以前のような泥臭さは微塵もない。
「……なんということだ。これが、同じ水路だというのか」
視察に訪れた卑弥呼が、整備された水路のほとりに立ち尽くす。
サラサラと心地よい水音だけが響き、水面からは涼やかな風さえ感じられた。
「まるで、山の湧き水がそのまま王宮を流れているようですな」
タケヒコも唸る。
そのあまりに劇的な変化は、単なる利便性を超え、卑弥呼の居城を「穢れなき聖域」へと変貌させていたのである。




