赤き果実とツタの植物 後編
(……うわ)
そこに漂うのは、土臭く、青臭い匂いだけ。
彼が求めていた、あの独特の、苦味を伴う、華やかな香りは、微塵も感じられない。
彼の手が、その蔓の断面を確かめる。
これは、ツル科ですらない、ただの低木だ。
「……サク殿? 如何かな? これぞ、まさしく……!」
「…すみません。せっかくなのですが」
朔は、落胆を隠しきれず、力なく首を振った。
「ナガサ殿。これは、俺が探していたものではないようです」
「な、なんと!?」
ナガサは、愕然とした。
「ようやく見つけ出したというのに……!」
「ですが!」と朔は、慌てて付け加えた。
「この三つ……トマトと唐辛子、そして、あの球根(玉ねぎ)を手に入れてくださった。これだけでも、とてつもない収穫です。おかげで、料理の幅がとんでもなく広がりました。この御恩は決して忘れません。陛下にも褒美を増やしていただくよう伝えておきます。本当にありがとうございました」
朔の心からの感謝の言葉に、ナガサも、いくぶん気を良くしたようだった。
「……ふむ。まあ、赤い方と、土のものが本命であったのなら、良しとするか。……よし、者ども! 箱を片付けよ!」
ナガサの部下たちが、空になった木の小箱を、無造作に片付け始めた。
トマトが包まれていた苔や、唐辛子の麻袋、そして、あの「ハズレ」の植物が、雑多に箱に戻されていく。
朔も、まだ立ち直りきれない落胆を引きずりながら、そんな彼らを手伝おうとした、その時だった。
彼が、トマトが入っていた一番大きな小箱の底から、中敷きとして使われていた乾燥した植物を、掴み出した、その瞬間。
フワリ、と。
あの忘れもしない、懐かしい香りが、彼の鼻腔を微かに、しかし確かにくすぐったのだ。
「いや、ちょっと待て」
朔は、息を呑んだ。
彼は、掴み出したその植物の束を、慌てて、顔へと近づけた。
「まさか」
この香り。
甘く、華やかでありながら、どこか樹脂を思わせるような、爽やかで、そして、鼻腔の奥を心地よく刺激する、独特の苦味を伴った香り。
「まさか……!」
彼は、震える手で、その草の束を、解きほぐした。
それは、茶色く乾燥した、長い蔓だった。
そして、その蔓に無数に、あの小さな松かさのような形をした、緑がかった茶色い毬花がくっついていた。
「な……ナガサ殿! ちょっと待ったぁ!」
朔の、ただならぬ剣幕の声に、立ち去ろうとしていたナガサが、驚いて振り返った。
「サク殿? いかがされた……」
「これだ! 俺が探していたのは、これだ!」
朔は、その乾燥したホップの蔓を、まるで王笏のように、高く掲げた。
「……は? いや、しかしサク殿、それは……」
ナガサは、心底、訳が分からないという顔をした。
「それは、ただの緩衝材ですぞ。唐柿とかいう貴重な果実が船旅で傷まぬよう、大陸の商人が箱の底に敷き詰めていただけの、ただの『草』だ。……いや、草というより、あれは……」
彼は、記憶を手繰り寄せた。
「そうだ。あれは、大陸の北方では、木に巻き付いて、木を枯らしてしまう『害草』だと、皆が嫌って刈り取っていた。だから、緩衝材としていくらでも使ってくださいと……」
害草。緩衝材。
その言葉に、朔は、天を仰いだ。
なんと、皮肉なことか。
大陸では、その価値を誰にも知られず、ただの厄介者として、捨てられていたのだ。
それが奇跡のように、この箱の底で海を渡り、自分の元へとやってきた。
朔は、その乾燥した毬花を、そっと揉んでみた。
カサカサと、乾いた音がする。
その拍子に、中から、芥子粒よりもさらに小さい、黒褐色の硬い粒が数粒、彼の掌の上にこぼれ落ちた。
種子だ。
この乾燥しきった毬花の中に、まだ、命が残っている。
朔の手が震えた。
(……信じられない……)
朔はその小さな種子を、まるで世界で最も貴重な宝石であるかのように、掌で、そっと包み込んだ。
心臓が、破裂しそうなほど、激しく打っていた。
「――ユズリハ!」
朔は、顔を上げた。その目は、少年のように輝いていた。
「すぐに兵を。木材を集めてくれ!『太陽の家』を、新しく建てたい」
朔は、もはや、一刻の猶予も待てなかった。
トマトも、唐辛子も、ホップも、そして、あの小さな玉ねぎも、この邪馬台国の気候で育つという保証は、どこにもない。
だからこそ急ぎ、専用の温室をつくり、できる限りのことをするのだ。
唐辛子とホップはまだいいが、トマトと玉ねぎは、次に手に入れられるかどうかわからないほどの品かもしれない。
数日後。
朔の工房の脇には、大小様々な形の、しかし全てがガラスと鉄でできた、きらめく温室が、五つも連なって建っていた。
大きなものは、ホップの蔓を天高く伸ばすための、背の高い構造。
小さなものは、トマトや唐辛子が、太陽の光を独占できるような、低い、広々としたもの。
玉ねぎのための温室は、地中の温度管理を重視した、特別な構造になっていた。
それぞれの温室は、外の世界とは隔絶された、独自の世界を形成していた。
ガラスを通して差し込む太陽光は、内部の土や植物の上に、きらきらと光の模様を描く。
内部の空気は、外の蒸し暑さとは無縁の、常に清浄で、植物にとって最適な温度と湿度に保たれていた。
卑弥呼やタケヒコが、その光景を初めて目にした時、彼らは言葉を失った。
「これは……これは、一体……」
卑弥呼は思わず、ガラスの壁にそっと指先で触れた。
ガラス越しに伝わる、内部の暖かさ。
そして壁の向こうで、青々と茂る植物の姿が鮮明に見える。
まるで冬の最中に、春の野原を閉じ込めたかのような、神秘的な光景だった。
朔は満足げに、その「水晶宮」の連なりを眺めていた。
「陛下。これこそ、この国の食の未来を育む場です」
彼の言葉通り、それぞれの温室の中では、トマトの蔓には、既に小さな緑色の実がつき始め、唐辛子の苗には、鋭い葉が茂り、玉ねぎの球根は、土の中で確実に肥大化しつつあった。
そしてホップの蔓は、ガラスの屋根の高さまで伸び、小さな毬花をつけ始めていた。
これで満足している朔は、まだ知らない。
このガラスと鉄でできた「祝福された水晶宮」では、作物の成長速度が300%になっていることを。




