透明な石の技
夜半に降った雨は夜明け前に止んだが、空気はまだ、たっぷりと水を含んでいた。
翌朝。工房の重い木の扉を開けると、湿った土の匂いと、青々とした若草の匂いが、ひやりとした工房の空気と混じり合った。
空はまだ白く、鈍い光が東の空を染め始めている。
隣接する鶏舎からは、夜明けを告げる鶏の甲高い声が聞こえてきた。
朔は、まず、工房の中央に据えられた主竈へと向かった。
まだ熱が残る灰を、鉄の火掻き棒で丁寧に掻き分けると、奥深くに埋められた火種が、赤く、息づいている。
朔は、工房に満ち始めた火の匂い、鉄の匂い、そして麹の甘酸っぱい香りを深く吸い込むと、満足げに微笑んだ。
「さぁ、続けよう」
◇◆◇◆◇◆◇
今日は朔が科野国から帰って、五日になる。
卑弥呼は国の安寧を祈るための、三日間にわたる、神聖な斎戒の儀式を終え、疲れ切った体で、自らの私室へと戻ってきた。
彼女は、タケヒコやユズリハ、そして序列第一位の料理人として、最後の儀式の供物を司っていた朔に労いの言葉をかけながら、重い私室の扉を開けた。
「……さて、休むとしようか。サク、後で、何か温かい汁物でも……」
彼女が、そう言いかけた、その時だった。
卑弥呼は、自らが発した言葉を途中で忘れ、その場に立ち尽くした。
「………?」
部屋の様子が、いつもと違う。
いや、調度品の位置も、敷物も何も変わってはいない。
だが、何かが決定的に違う。
(……明るい……?)
今はもう陽が傾きかけた薄暗い時間のはず。
いつもなら、この部屋は外の分厚い木製の蔀戸を閉ざし、灯火を灯さねば薄暗闇に沈んでいるはずだった。
だが、今の部屋は違う。
西の壁にあるあの大きな窓から、確かな「光」が差し込んでいる。
(……蔀戸は閉しているはずだ。風の音も聞こえぬ。なのに、なぜこれほどまでに明るい……?)
彼女は、何かに引き寄せられるように、その窓へと歩み寄った。
卑弥呼は窓に近づき、手を伸ばした。
指先に触れたのはいつもの、冷たい風を通す、竹製の御簾。
卑弥呼が、御簾を巻き上げる。
「………えっ?」
そして卑弥呼は、その信じられない光景を、目の当たりにした。
御簾の向こう。
本来そこにあるはずの、外の景色を遮る分厚い木の板戸(蔀戸)がない。
その代わりに、そこには見たこともない、精巧な木の格子(窓枠)がはめ込まれていた。
そして、その格子に、まるで真冬にできる薄氷のような、透明な「板」が張られていたのだ。
その板は、無色透明だった。
向こう側の景色は、水面のように、わずかにゆらゆらと歪んではいるが、庭の木々の葉の一枚一枚まで、はっきりと見分けることができる。
その板は、西の空を染める夕焼けの赤く美しい光を、そのまま部屋の中へと導き入れていた。
「……石……?」
卑弥呼は震える指を伸ばし、その冷たく硬い不思議な板の表面に、そっと触れた。
「…石なのに、向こうが……見える……?」
「陛下」
その時、背後で、ずっと控えていた朔が、静かに進み出た。
「恐れながら、私が陛下が儀式でお留守の間に、タケヒコ様のお許しを得て作りました。陛下のための新しい『壁』です」
「サク……? これが、前に言っていた……?」
「はい。お見せすると約束していたもので、『ガラス』といいます。砂と灰と、科野国より賜った『方鉛鉱』を私の炉で溶かし、練り上げて石の姿に戻したものになります」
「……ガラス……」
卑弥呼は、その初めて聞く響きを口の中で繰り返した。
「こんなこともできます」
朔は窓枠の隅に取り付けられた、小さな黒い鉄の掛け金を、カチリ、と外した。
そして木の取っ手を引き、その窓枠を内側へと、ゆっくりと開いてみせた。
キィ……という、鉄の蝶番の、微かな音。
直後、それまでガラスによって遮られていた生きた風が、一気に部屋の中へと駆け込んできた。
「………!」
風は卑弥呼の頬を優しく撫で、彼女の長い黒髪を、ふわりと揺らした。そして庭園で咲き始めた、橘の花の、あの甘く清らかな香りを、部屋いっぱいに運んできた。
「……あ……」
これが卑弥呼にとって、決定的な一撃だった。
彼女は、その場に、立ち尽くした。
信じられない。
これまでの窓は、ただの「穴」だった。
雨風を防ぐために、重い板戸を閉ざせば、光も風も失われる。
光と風を得るために、板戸を開け放てば、寒さも虫も入り込んでくる。
だが、これは違う。
これは、光と風と暖かさを「選ぶ」ことができる、魔法の壁だ。
卑弥呼はその事実に打ち震えた。
「光だ……! 風も、寒さも防ぎながら、光だけを部屋に招き入れる! このような奇跡が……!」
彼女は子供のように、開いた窓から、身を乗り出すようにして、外の景色を眺めた。
雨の日も寒い冬の日も、重い板戸を閉ざした薄暗い部屋の中で、灯火だけを頼りに、孤独に過ごさなくてはならない。
それが、女王としての宿命だと思っていた。
だが、この「ガラス」があれば。
冬の日でも、雨の日でも、外の世界の光を感じながら、温かい部屋で、過ごすことができる。
そして春になれば、こうして窓を開け放ち、花の香りを、風の声を、直接この肌で感じることができる。
「……サク。サクよ!」
卑弥呼は振り返った。
その瞳は、彼がこれまでに見たどの瞬間よりも強く、そして純粋な喜びに輝いていた。
もはやそこには、神の巫女の姿も、孤高の女王の威厳もなかった。
「私の部屋が……息をしている!」
彼女は朔の元へと駆け寄ると、次の瞬間、その勢いのまま、何の躊いもなく彼の胸へと飛び込んだ。
「そなたは……!」
彼女は朔の衣を、強く、強く握りしめた。
「そなたは、私に、いくつ与えてくれれば……!」
朔はまたしても、腕の中に、この国の神聖なる支配者を抱きしめるという、ありえない状況に、石のように硬直していた。
しかも今回は人目も憚らず、である。
だがその抱擁は、科野国で感じた、恐怖に震えるか細いものではなかった。
それは心の底から、新しい世界を手に入れた喜びに打ち震える、温かい抱擁だった。
ユズリハはその美しい唇を噛み締めながら、二人の姿から目を逸らす。
「陛下……あの……」
朔がどう反応していいか分からず、両腕を宙に浮かせたまま、狼狽えている。
実は朔は今回、弥生土器からアップグレードした陶器類も量産できるようになったので、卑弥呼に見せる予定だった。
陶器は今まで、大陸から送られたものしかなく、神事でしか用いられていなかった。
丈夫で高温でも割れづらく、土器のように、水に溶け出す不純物もなく、内容が染み込んで雑菌の温床になることもない。
朔の計画では、今後は完全に置換していくつもりだった。
……のだが、こうなるともう、見せるに見せられない。
(タケヒコ様……それを)
朔は、タケヒコに、「後で見せておいてください」と目だけで必死に伝える。
「わかった……ぷ」
頷いたタケヒコが、真顔をかすかに歪めながら、笑うのを必死でこらえていた。




