命の料理 後編
陽が中天に差し掛かる頃、朔たちを乗せた馬車は、都を飛び出し、東の科野国へと向かう道を、猛スピードで駆けていた。
速度を優先するため、馬車は貴人を運ぶ優雅なものではなく、兵を輸送するための頑丈で、揺れの激しいものだった。
狭い車内には、卑弥呼とユズリハ、そして朔の三人が身を寄せ合うように座っていた。
ユズリハは二人の護衛役として、常に変わらぬ冷静な表情で、窓の外の警戒を怠らない。
卑弥呼は、激しく揺られながらも、虚空を見つめていた。
やがて、彼女の肩が微かに震え始めた。
最初は嗚咽を堪えるような、小さな震え。
まもなくして、彼女の美しい瞳から大粒の涙が一筋、また一筋と、頬を伝って流れ落ち始めた。
「……ミトは昔から、体が弱くて……」
ぽつり、と彼女は誰に言うでもなく呟いた。
「父王に嫁ぎ、この邪馬台国に来たばかりの時、私が神の子だと言われ、誰からも恐れられていた時も、あの子だけは変わらずに私の傍にいてくれた……。『ヒミコは、神様なんかじゃない。 私の、大事な友達だ』と言って、いつも笑っていた……。 私がこの冷たい宮殿で、心を失わずにいられたのは、あの子がいたからなのだ」
次から次へと、思い出が、涙と共に溢れ出してくる。
それは、朔が今まで見たことのない、女王の仮面を完全に脱ぎ捨てた、ただのヒミコという、弱く、傷つきやすい一人の女の姿だった。
「陛下……」
ユズリハもかける言葉を見つけられず、ただ黙って、主君の隣に寄り添っている。
ふいに、馬車が道の轍で、大きく揺れた。
その反動で、卑弥呼の体がぐらりと朔の方へ傾いだ。
そして彼女は、まるで溺れる者が何かを掴むかのように、無意識のうちに、隣に座っていた朔の手を強く握りしめた。
柔らかく、しかし驚くほど冷たい、女王の手。
その手から伝わってくる、絶望的なまでの恐怖と、悲しみの震え。
(……この人は今、本当に怖いんだ。 友を失うことが……)
振り払うことなど、できるはずもなかった。
それは女王の手ではなく、助けを求める一人の友の手だったからだ。
二人はただ黙って、手を合わせたままだった。
ユズリハはその光景を、女王の安寧を願う安堵と、自らの胸を刺す、名もなき痛みと共に、静かに見つめていた。
◇◆◇◆◇◆◇
陽が西の山に沈み、夜の闇が訪れる頃、一行は、科野国の宮殿へとたどり着いた。
宮殿は、絶望の匂いに満ちていた。
泣き崩れる侍女たち、為すすべもなく立ち尽くす兵士たち。
その間を、卑弥呼は、風のような速さで駆け抜けていった。
王女ミトの寝室は、薬草と、死の香りが混じり合った、重苦しい空気に満たされていた。
寝台に横たわるミトは、朔の想像以上に、衰弱していた。
顔は、血の気を失って、蝋のように真っ青。
呼吸は、か細く、今にも消えてしまいそうだった。
そして、彼女が纏う純白の衣には、鼻や歯茎から滲み出た血が、点々と、赤い染みを作っていた。
今もまだ、静かに出血が続いている。
「ミト!」
卑弥呼は、悲痛な叫びを上げ、友の枕元に崩れ落ちた。
だが、感傷に浸っている時間はない。
彼女は顔を上げると、巫女としての、神々しいまでの威厳を取り戻した。
「――皆、下がれ! これより、私が天の神々に、ミトの命乞いをする!」
侍女たちが慌てて下がり、部屋の中には、祈祷のための厳かな空間が作られていく。
卑弥呼は、祭壇の前に座し、深く息を吸い込むと、独特の節回しで、神々への祈りの言葉を唱え始めた。
その声は広間全体に響き渡り、聞く者の心を震わせる、不思議な力を持っていた。
だが卑弥呼自身は、その心の奥深くで、全く違うことを考えていた。
(……わかっている)
彼女自身が、誰よりもよく分かっていた。
自分の力は、神々の声を聞き、未来を占う力。
国の進むべき道を示す、道標の力だ。
だが病を癒し、死者を蘇らせるような、奇跡の力ではない。
自分の祈祷で、血が止まったことなど、これまで一度もなかったのだ。
(ミト……すまぬ……私は、本当は無力なのだ……!)
祈りの言葉を唱えながら、彼女の瞳からは、止めどなく涙が流れ始めていた。
それは友の死を悼む涙であり、そして、自らの無力さを呪う、絶望の涙だった。
その神聖で、しかし絶望的な儀式の、すぐ傍らで。
もう一つの、静かな治療が、始まっていた。
朔は、卑弥呼の許可を待たずに、ミトの枕元に膝をつくと、懐から、小さな皮袋を取り出した。
それは、濃縮されたビタミンCの塊だった。
橘の果汁を極限まで煮詰め、野ばらの実をすり潰して裏ごししたものを、蜂蜜で練り上げた、ペースト状の「薬」。
自身の健康のためにと作っておいた代物だが、こんな形で使うことになろうとは思いもしなかった。
朔はミトの侍女の手を借り、意識のない彼女の唇を、そっとこじ開けた。
そして、そのペーストを、指先ですくい取ると、彼女の舌の上に、塗り込むようにして含ませた。
これを、何度も何度も、繰り返した。
(間に合ってくれ……)
卑弥呼の、悲痛な祈りの声。
朔の、科学的根拠に基づいた、必死の治療。
二つの全く異なる「祈り」が、一つの寝室で交錯していた。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
卑弥呼の祈りが、最高潮に達した、その時だった。
ミトの容態を見守っていた侍女の一人が、「あ……」と、小さな声を上げた。
「…血が……。鼻血が、止まっております!」
その声に、部屋中の誰もが、息を呑んだ。
それまでだらだらと流れ続けていた鼻血が、まるで嘘のように、ぴたりと止まっていたのだ。
「おお……!」という、驚きの声が、あちこちから起こる。
祈りを捧げていた卑弥呼も、その声にはっと我に返り、ミトの顔を見た。
そして、自分の目を疑った。
本当に、血が止まっている。
彼女は驚愕の表情で、ミトの枕元にいる朔の顔を見た。
朔はただ黙って、ミトの額の汗を拭っている。
(……まさか)
卑弥呼の脳裏を、信じられない考えがよぎった。
私の祈りが、通じたのか…?
いや、違う。
こんなことは、今まで一度もなかった。
朔は周囲の動揺を気にも留めず、冷静に次の行動に移った。
ミトの世話役の侍女長を呼び寄せると、残りのペーストを渡し、はっきりとした口調で指示を与えた。
「まだ油断はできません。この後も、この『滋養食』を、こまめに、少量ずつでも口にさせてください。それから掛け物を増やし、体を絶対に冷さぬように。体温が下がるとまた血が止まらなくなります」
朔は立ち上がると、卑弥呼に向かって、頭を下げた。
「陛下。ミト様の命を繋ぐためには、失われた血を補うために滋養のあるものを与え続けねばなりません。私はこれより、こちらの宮殿の厨房をお借りし、回復のための食事の支度に入ります」
「さ、サク……」
「急ぎますので、今ばかりは失礼を」
そう言うと、朔は呆然とする人々を後に、急ぎ足で部屋を出ていった。
翌朝。
夜通し、友の傍らで付き添っていた卑弥呼は、奇跡のような光景を目の当たりにしていた。
ミトがうっすらと、目を開けたのだ。
その顔はまだ蒼白ではあったが、血の気は僅かに戻っている。
彼女はか細い声で、卑弥呼の名を呼んだ。
「……ヒミコ……。来て、くれたの……」
「ミト! ああ、ミト……!」
卑弥呼は、友の手を握りしめ、涙を流して喜んだ。
「……ヒミコの祈りが、天に通じたのね……ありがとう……」
ミトから向けられた純粋な感謝の眼差しは、今の卑弥呼にはどこか痛いものだった。




