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卑弥呼のシェフ 〜世界大会優勝の料理人、弥生時代で料理無双してたら卑弥呼が私物化しようとしてくる〜  作者: ポルカ


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命の料理 前編

 

 その日、邪馬台国の王宮は、初夏の穏やかな日差しに包まれていた。


 開け放たれた窓からは、新緑の香を含んだ風が吹き込み、薄紅色の御簾を優しく揺らしている。

 遠くで鳥がさえずる声だけが響く、まどろむような午後だった。 


 女王・卑弥呼の私室には珍しく、和やかで、どこか気の緩んだ空気が漂っている。


「……遅いぞ、サク。もう待ちくたびれた」 


 卑弥呼は、窓辺の柔らかな敷物の上に座り、まるで子供のように頬を膨らませていた。 


 先日、サクが披露した『鯛茶漬け』。 


 その深い味わいが忘れられず、彼女は「今日の間食に、必ずあれを作れ」と、朝から朔に厳命していたのだ。


「申し訳ありません、陛下。活きの良い鯛が手に入るのを待っておりまして」 


 朔が盆を捧げ持ち、護衛のユズリハを伴って入室する。 


 盆の上には、出汁の芳醇な香りを立たせる茶漬け。


 白米の上には、特製のタレに漬け込まれ、艶やかな飴色に輝く鯛の切り身が鎮座していた。


「おお……!」 


 卑弥呼の目が、一瞬にして期待に輝く。

 喉を鳴らす音が聞こえてきそうだ。 


 熱い出し湯が、とくとくと回しかけられた。 

 じゅわ、と微かな音を立てて、鯛の表面が白く霜降りになる。


 琥珀色の出汁が白米の間を流れると、胡麻と醤油の香ばしさが一気に立ち上り、鼻腔をくすぐった。 


「さあ、陛下。熱いうちにどうぞ」


「うむ!」 


 卑弥呼は自らさじを手に取ると、嬉しそうに器と向き合った。 


 半生になった鯛の一切れをすくい、ふっくらとした白米と共にその唇へと運ぼうとした、――その瞬間だった。


「――開門! 急報! 急報だ!」 


 宮殿の門を叩き破らんばかりのひづめの音と、兵士の切羽詰まった叫び声が、平和な昼下がりを引き裂いた。 


 部屋の空気が、一瞬で凍りつく。 


 卑弥呼の手が止まった。 

 匙に乗った鯛は行き場を失い、空中で微かに震えている。 


 朔とユズリハは反射的に臨戦態勢を取った。

 ユズリハは、その豊満な胸を覆う衣の下で、既に懐剣の柄に手をかけている。 


 間髪入れず、私室の扉が乱暴に開け放たれた。


「――姉上! 使いが!」 


 弟のタケヒコが、血相を変えて飛び込んでくる。 


「……もう、し上げます! 女王陛下!」 


 タケヒコの後ろから、泥と汗にまみれた使者が転がり込んできた。 

 その体は不眠不休の長旅に耐えきれず、床に崩れ落ちるようにして平伏する。


 肩で息をするたびに、ヒュー、ヒューと乾いた音が喉から漏れていた。


 その男が纏う衣は、翡翠ひすいの産地として知られる同盟国、「科野しなの国」のものだ。


「科野の王女、ミト様が……! ミト様が、ご危篤にございます!」 


 その一言で、場が静まり返った。


「な、なんだと……」 


 カチャン、と乾いた音が響く。 

 卑弥呼の手から滑り落ちた匙が、皿の上で転がっていた。 


 使者は、床に額を擦り付けながら涙声で訴える。


「数日前より、お体の至る所に覚えのない青黒いあざが現れ、歯茎からは血が滲むように……。それが昨晩、突然鼻からの出血が止まらなくなられたのです! 国の呪術師たちが祈祷を捧げ、いかなる薬草を用いても血は一向に止まらず……。もはや意識も朦朧とされ、今宵を越せるかどうか……」 


 ――血が、止まらない。 


 青黒い痣、歯肉からの出血。 


 その症状を聞いた瞬間、朔の脳裏を現代医学の知識が閃光のように駆け抜けた。


(科野国はたしか、山々に囲まれた地域……) 


 朔が口を開くより先に、卑弥呼が立ち上がった。 


 その顔は蒼白を通り越し、激情で歪んでいる。


「――すぐに馬車を用意させよ! 私が、自ら科野へ向かう!」 


 あまりに唐突な決断に、タケヒコが慌てて進み出た。


「姉上! なりませぬ! 科野までは、馬車を飛ばしても半日はかかります! 姉上が今、都を離れるのは危険です! それに、我らが行ったとて、何ができるというのです!」


「――黙れ、タケヒコ!」 


 雷のような一喝が、部屋を震わせた。


「ミトは、私のたった一人の友なのだ! 幼き頃、私が『神の巫女』として誰とも心を交わせずにいた時、ただ一人、恐れずに手を取り、私を『ヒミコ』と呼んで野山を駆けてくれた……そんなかけがえのない友なのだぞ。その友が死にかけているのだ! 私が行かずして誰が行く! 私が……私の持つ全ての霊力で、彼女のために祈ってくる!」 


 それは女王としての命令ではない。

 友を失うことを恐れる、一人の女性の悲痛な叫びだった。 


 タケヒコも、他の近習たちも、押し黙ることしかできない。 


 一方、朔の心臓は早鐘を打っていた。 

 その病は、祈祷や呪術で治るものではない。 


 だが治療法は、驚くほど単純だ。 


 朔は覚悟を決めた。 

 出立の準備をしようとする卑弥呼の前に進み出ると、片膝をつく。


「陛下。自分もお供させていただけませんか」 


 卑弥呼が、涙に濡れた瞳で彼を見る。


「……そなたが来て、何ができるというのだ」


「滋養に満ちた、特別な食事をお作りします。必ずやお役に」 


 単なる料理人の立場としては、あまりに大胆な申し出だった。 

 だが、その目には、ただならぬ確信の光が宿っている。


「なにとぞ」 


 朔が、真っ直ぐに卑弥呼を見つめ返す。 

 タケヒコが、その空気を察して助け舟を出した。


「……姉上。サク殿の申すこと、一理あるやもしれませぬ。彼の知恵は、我らの常識を超えております。今は藁にもすがる思い。連れて行かれても損はありますまい」 


 卑弥呼はしばらくの間、朔の顔をじっと見つめていた。


「……よかろう」 


 友を失うかもしれない絶望の中で、彼女はこの男が何度も見せてきた奇跡のような知恵に、最後の望みを託すことにしたのだ。


「すぐに支度を整えよ」


「はい」 


 朔は弾かれたように立ち上がり、厨房へと駆け出した。 


 卓の上には、一口も食べられることのなかった茶漬けが、湯気を失い、虚しく残されていた。



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