表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
卑弥呼のシェフ 〜世界大会優勝の料理人、弥生時代で料理無双してたら卑弥呼が私物化しようとしてくる〜  作者: ポルカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/135

急げ!バター醤油ごはん! 後編

 

 ジュッ……という、微かな音がした。


 バターは、米の熱で瞬く間に溶け、黄金色の脂となって、白い米粒の隙間へと、染み込んでいく。


「………!」


 その湯気にのってふわりと香ったバターの香りに、卑弥呼がはっとする。


 そして朔は、最後に、彼が熟成させていた「醤」――もはや十分な時を経て、醤油と呼ぶにふさわしい、黒く、澄んだ液体――を、その上から、円を描くように、静かに、回しかけた。


 瞬間。

 卑弥呼とタケヒコの鼻腔を、とてつもなく官能的な香りが、直撃した。


 炊きたての米の、甘い香り。

 溶けたバターの、濃厚で、芳醇な香り。

 そして醤が、熱い米に触れて力強さを増した、うま味の香り。


「……な……、なんだ、この、香りは……」


 あれほど怒りに震えていた卑弥呼が、思わず、ゴクリと、喉を鳴らした。


「おまたせしました。匙で混ぜてどうぞ。さ、お熱いうちに」


 朔は、その究極にして最も素朴な一膳を、卑弥呼の前に差し出した。


「………」


 卑弥呼はもはや、怒りも迷いもなかった。

 ただ、その香りの虜だった。


 彼女は、匙を掴むと、軽く混ぜ、そのバターと醤が染み込んだご飯を、すくい上げ、じっと見た後、口へと運んだ。


 ……もぐもぐ。

 ……もぐ……もぐ……。


「―――!?」


 卑弥呼の目が、見開かれる。


 なんということ。


 熱いご飯の中で、完璧に溶け出した、黄金色のバター。

 その、濃厚で、クリーミーで、芳醇な脂の「コク」。


 そしてそのコクを、醤のキリリとした「塩味」と、深い「うま味」が、追いかけ、包み込んでくる。


 さらに、その二つの強烈な味を、弥生白米のふっくらとした、圧倒的な「甘み」が、母のように優しく抱き止める。


 熱い。塩味。甘い。脂のコク。香ばしい。


 その全てが、口の中で一体となって、溶け合っていく。

 それは、彼女がこれまでの人生で、一度も経験したことのない、最も背徳的な美味さだった。


「はぁぁ……♡」


 彼女の唇から、か細いうめきが漏れた。

 顔を上げ、朔を見る。


「……なんだ、これは……ただの米と、脂と、塩味が、なぜこれほどまでに……!」


「おいしいでしょう」


 朔は、いつものように穏やかに微笑む。


「うますぎる!」


 卑弥呼は、我を忘れた。


 彼女は、もはや女王ではなかった。

 ただ、腹を空かせ、最高のご馳走に出会った、一人の女だった。


 彼女は、匙を再び椀に突き立てると、一口、また一口と、夢中でそのご飯をかき込んだ。


「陛下……?」


 タケヒコが、そのあまりの変わりように、呆然と声を上げる。


「……ああ……満たされた……!」


 あっという間に、大きな椀を平らげた卑弥呼は、恍惚とした表情で、息をついた。


 あれほど荒れ狂っていた嵐は、完全に過ぎ去っていた。


「サクよ。見事だ。……まさか、ただの飯が、これほどの力を持つとは……」


 彼女が満足げに朔を見つめると、朔はなにやらゴソゴソしていた。


「陛下。その一皿には、まだ続きがあります」


「……続き、だと?」


 朔は、とっさに掴んできた緑色の根茎と、彼が以前クラフトしておいた、鮫皮のおろし金を手に取った。


「それは……?」


「はい。『清流の雫』とでも言いましょうか」


 朔は、その緑の根茎を、鮫皮の上で円を描くようにすりおろし始めた。

 ツーン、と清涼な、しかし鮮烈な香りが、卑弥呼の私室に広がる。


 朔は、そのすりおろしたばかりの、緑色のペーストを、ほんの米粒の半分ほどだけ掬い取り、椀の縁に塗る。


 そして先程と同じように、彼女の目の前で、湯気の上がるご飯にバターを埋め込み、醤をかける。


「この緑色のものを、ほんの、ほんの僅かだけ、米に混ぜてお味見ください」


「ふむ」


 卑弥呼は訝しげに、しかし、期待に目を輝かせながら、言われた通り、米粒ほどの緑を、匙の上の一口に混ぜ込んだ。


「……では味見だけ……」


 そして、それを、口に運んだ。


「――むおっ!?」


 卑弥呼の目が、驚愕に見開かれた。

 バター醤油の、あの濃厚で、まろやかな味わいが口に広がった瞬間。

 緑色の、鮮烈な雷が、彼女の鼻腔を突き抜けた!


 ツ―――ン!


「からっ!?」


 強烈な辛味と香りが、脳天を直撃し、思わず、涙が滲む。

 だがその辛味は、舌を焼き続けるものではない。

 一瞬で、消え去るのだ。


 そして、その嵐が過ぎ去った後。

 舌の上に、何が残ったか。


 バターの、濃厚な「コク」と、米の「甘み」が、先程とは、比べ物にならないほど、鮮明に、くっきりと、浮かび上がってきたのだ。


「それは『わさび』といいます」


「わ、わさび……」


 その鮮烈な刺激は、バターの脂っぽさを、まるで洗い流すかのように、完璧に断ち切っている。


 脂のしつこさが消え、うま味と米の甘みだけが、より純粋な形で舌の上に取り残される。


「不思議だ……!」


 卑弥呼は、興奮に震えていた。


「辛い! 辛いのに、美味い! いや、辛いからこそ米とあの脂が、さらに、美味くなる! サクよ! これは、どういう理なのだ!」


 彼女はわさびを乗せる量を、自分で加減しながら、夢中になって、二杯目の椀を、かき込んだ。


 もはや、味見ではなかった。


「ああ、止まらぬ! タケヒコ! そなたも食え! これは、神の食べ物だ!」


 朔は、その光景を、穏やかな笑顔で見守っていた。


 その時。


「し、失礼いたします……!」


 私室の扉が、おそるおそる開き、オシヒトと、あのやらかしてしまったキビが、青ざめた顔でひざまずいていた。


「へ、陛下……。代わりの、御膳が、ようやく、整いまして……」


 キビが、緊張で何度も噛みながら、言った。

 ふたりとも、到底、卑弥呼の顔など、見れたものではなかった。


 当の卑弥呼は、わさびで涙目になったまま、彼らをちらりと見た。


 そして、心底満足げに、笑った。


「ああ、オシヒトらか。苦労をかけたな」


 彼女は、空になった二杯目の椀を、匙で、こん、と叩いた。


「だが、もう良い」


「……え?」


「もう、良いと申しておる。今宵はこれで、腹一杯だ。これ以上のご馳走があろうか。そなたの料理は、侍女たちの食事にでも回せ」


「……は?」


 オシヒトとキビは、何が起こったのか、理解できなかった。


 序列第一位の男が、ただの「飯」だけで、女王の、あの雷のような怒りを鎮め、あまつさえ、「腹一杯」にさせてしまった。


 その信じられない事実に、二人はただ呆然と、その場にひれ伏すことしか、できなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ