急げ!バター醤油ごはん! 後編
ジュッ……という、微かな音がした。
バターは、米の熱で瞬く間に溶け、黄金色の脂となって、白い米粒の隙間へと、染み込んでいく。
「………!」
その湯気にのってふわりと香ったバターの香りに、卑弥呼がはっとする。
そして朔は、最後に、彼が熟成させていた「醤」――もはや十分な時を経て、醤油と呼ぶにふさわしい、黒く、澄んだ液体――を、その上から、円を描くように、静かに、回しかけた。
瞬間。
卑弥呼とタケヒコの鼻腔を、とてつもなく官能的な香りが、直撃した。
炊きたての米の、甘い香り。
溶けたバターの、濃厚で、芳醇な香り。
そして醤が、熱い米に触れて力強さを増した、うま味の香り。
「……な……、なんだ、この、香りは……」
あれほど怒りに震えていた卑弥呼が、思わず、ゴクリと、喉を鳴らした。
「おまたせしました。匙で混ぜてどうぞ。さ、お熱いうちに」
朔は、その究極にして最も素朴な一膳を、卑弥呼の前に差し出した。
「………」
卑弥呼はもはや、怒りも迷いもなかった。
ただ、その香りの虜だった。
彼女は、匙を掴むと、軽く混ぜ、そのバターと醤が染み込んだご飯を、すくい上げ、じっと見た後、口へと運んだ。
……もぐもぐ。
……もぐ……もぐ……。
「―――!?」
卑弥呼の目が、見開かれる。
なんということ。
熱いご飯の中で、完璧に溶け出した、黄金色のバター。
その、濃厚で、クリーミーで、芳醇な脂の「コク」。
そしてそのコクを、醤のキリリとした「塩味」と、深い「うま味」が、追いかけ、包み込んでくる。
さらに、その二つの強烈な味を、弥生白米のふっくらとした、圧倒的な「甘み」が、母のように優しく抱き止める。
熱い。塩味。甘い。脂のコク。香ばしい。
その全てが、口の中で一体となって、溶け合っていく。
それは、彼女がこれまでの人生で、一度も経験したことのない、最も背徳的な美味さだった。
「はぁぁ……♡」
彼女の唇から、か細いうめきが漏れた。
顔を上げ、朔を見る。
「……なんだ、これは……ただの米と、脂と、塩味が、なぜこれほどまでに……!」
「おいしいでしょう」
朔は、いつものように穏やかに微笑む。
「うますぎる!」
卑弥呼は、我を忘れた。
彼女は、もはや女王ではなかった。
ただ、腹を空かせ、最高のご馳走に出会った、一人の女だった。
彼女は、匙を再び椀に突き立てると、一口、また一口と、夢中でそのご飯をかき込んだ。
「陛下……?」
タケヒコが、そのあまりの変わりように、呆然と声を上げる。
「……ああ……満たされた……!」
あっという間に、大きな椀を平らげた卑弥呼は、恍惚とした表情で、息をついた。
あれほど荒れ狂っていた嵐は、完全に過ぎ去っていた。
「サクよ。見事だ。……まさか、ただの飯が、これほどの力を持つとは……」
彼女が満足げに朔を見つめると、朔はなにやらゴソゴソしていた。
「陛下。その一皿には、まだ続きがあります」
「……続き、だと?」
朔は、とっさに掴んできた緑色の根茎と、彼が以前クラフトしておいた、鮫皮のおろし金を手に取った。
「それは……?」
「はい。『清流の雫』とでも言いましょうか」
朔は、その緑の根茎を、鮫皮の上で円を描くようにすりおろし始めた。
ツーン、と清涼な、しかし鮮烈な香りが、卑弥呼の私室に広がる。
朔は、そのすりおろしたばかりの、緑色のペーストを、ほんの米粒の半分ほどだけ掬い取り、椀の縁に塗る。
そして先程と同じように、彼女の目の前で、湯気の上がるご飯にバターを埋め込み、醤をかける。
「この緑色のものを、ほんの、ほんの僅かだけ、米に混ぜてお味見ください」
「ふむ」
卑弥呼は訝しげに、しかし、期待に目を輝かせながら、言われた通り、米粒ほどの緑を、匙の上の一口に混ぜ込んだ。
「……では味見だけ……」
そして、それを、口に運んだ。
「――むおっ!?」
卑弥呼の目が、驚愕に見開かれた。
バター醤油の、あの濃厚で、まろやかな味わいが口に広がった瞬間。
緑色の、鮮烈な雷が、彼女の鼻腔を突き抜けた!
ツ―――ン!
「からっ!?」
強烈な辛味と香りが、脳天を直撃し、思わず、涙が滲む。
だがその辛味は、舌を焼き続けるものではない。
一瞬で、消え去るのだ。
そして、その嵐が過ぎ去った後。
舌の上に、何が残ったか。
バターの、濃厚な「コク」と、米の「甘み」が、先程とは、比べ物にならないほど、鮮明に、くっきりと、浮かび上がってきたのだ。
「それは『わさび』といいます」
「わ、わさび……」
その鮮烈な刺激は、バターの脂っぽさを、まるで洗い流すかのように、完璧に断ち切っている。
脂のしつこさが消え、うま味と米の甘みだけが、より純粋な形で舌の上に取り残される。
「不思議だ……!」
卑弥呼は、興奮に震えていた。
「辛い! 辛いのに、美味い! いや、辛いからこそ米とあの脂が、さらに、美味くなる! サクよ! これは、どういう理なのだ!」
彼女はわさびを乗せる量を、自分で加減しながら、夢中になって、二杯目の椀を、かき込んだ。
もはや、味見ではなかった。
「ああ、止まらぬ! タケヒコ! そなたも食え! これは、神の食べ物だ!」
朔は、その光景を、穏やかな笑顔で見守っていた。
その時。
「し、失礼いたします……!」
私室の扉が、おそるおそる開き、オシヒトと、あのやらかしてしまったキビが、青ざめた顔でひざまずいていた。
「へ、陛下……。代わりの、御膳が、ようやく、整いまして……」
キビが、緊張で何度も噛みながら、言った。
ふたりとも、到底、卑弥呼の顔など、見れたものではなかった。
当の卑弥呼は、わさびで涙目になったまま、彼らをちらりと見た。
そして、心底満足げに、笑った。
「ああ、オシヒトらか。苦労をかけたな」
彼女は、空になった二杯目の椀を、匙で、こん、と叩いた。
「だが、もう良い」
「……え?」
「もう、良いと申しておる。今宵はこれで、腹一杯だ。これ以上のご馳走があろうか。そなたの料理は、侍女たちの食事にでも回せ」
「……は?」
オシヒトとキビは、何が起こったのか、理解できなかった。
序列第一位の男が、ただの「飯」だけで、女王の、あの雷のような怒りを鎮め、あまつさえ、「腹一杯」にさせてしまった。
その信じられない事実に、二人はただ呆然と、その場にひれ伏すことしか、できなかった。




