急げ!バター醤油ごはん! 前編
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陽が長くなり、日中の暑さが、人々の体力と忍耐力を容赦なく奪っていく。
王宮・大膳職の厨房は、夕餉の準備が始まり、竈の熱気と、外からの湿った熱風が混じり合い、息が詰まるようだった。
その日の夕餉当番は、オシヒトの二番弟子、序列第十二位の男、キビ。
彼は、今朝取れたスズキのあらでとっただし汁と、その身の塩焼きをメインに据えるつもりだった。
他の料理人たちがそれとなく観察している中で、キビは額に玉のような汗を浮かべながら、調理を続けていた。
その緊迫しつつも、順調に進んでいたはずの調理が、一瞬にして、悪夢に変わった。
「――うわあっ!」
キビの足元が、もつれた。
床にこぼれていた、自分の洗い桶の水がぬめり、足を取られたのだ。
出来立ての料理全てが載った、大きな盆が宙を舞った。
ガシャアアアアアアンッッ!!
甲高い、器の割れる音と、熱い汁物が、床に叩きつけられる、無残な音。
厨房の、全ての音が止まった。
床には、原型を留めない魚の残骸と、アラ汁が無惨にこぼれ、広がっていた。
「……あ……、ああ…………」
キビは、放心状態になり、その場に力なく座り込む。
彼の顔からは、血の気が完全に引いていた。
朔も、事態の深刻さに、眉をひそめた。
……まずいな。
今日の陛下は、昼間の神事で昼餉もろくに召し上がってなかったような……。
◇◆◇◆◇◆◇
その報せは、嵐のように女王の私室を駆け抜けた。
「……何だと? ……今、何と申した……?」
卑弥呼は、湯浴みを終え、空腹と疲労の限界に達していた。
報せに来た侍女は震え上がり、もう一度消え入るような声で言上した。
「も、申し訳、ございませぬ……! 担当の料理人キビが手を滑らせ、御膳を、全て……! 今、指導役のオシヒト殿とともに、急ぎ作り直させておりますゆえ、どうか今しばし……」
「……今しばし、だと?」
卑弥呼の声は、氷のように、冷たかった。
彼女はゆっくりと、立ち上がった。
その瞳の奥には、神託の時とは全く異なる、飢えと、疲労と、怒りが渦巻いていた。
「私がこれほど、腹を空かせていると知りながら、待てと申すか! えぇい! 作り直すまでに、今すぐ何か持て!」
女王の、雷のような怒声が、響き渡った。
「今すぐ持たぬと、許さぬぞ!!」
侍女は悲鳴を上げ、転がるように私室を、飛び出していった。
その恐るべき勅命は、厨房を絶望の底に、叩き落とした。
「ひいぃ……!」
キビは、腰を抜かし、オシヒトは、顔面蒼白になって、震えている。
「今すぐ、何か、だと……? 無茶を仰せられる……! 生の野菜でも、お出ししろというのか!?」
「だ、誰か! 何かないのか! 即座にできるものを!」
侍女が真っ青な顔のまま、叫んだ。
これ以上、機嫌を損ねる報告をすれば、自分の身すら危うい。
厨房は、蜂の巣をついたような、大パニックに陥った。
だが、皆、動き回るだけで、何も手に付かない。
そんな、混沌の中。
ただ一人、朔だけが冷静だった。
(すぐ、か)
彼は状況を瞬時に判断した。
今、朔の手元には、炊き上がった米しかない。
それでも、迷わなかった。
米があれば十分だ。
「俺が行ってくる」
朔はそう言うと、空の椀と盆、手元にあったものはなんでも掴んで懐に入れ、厚手の布で鉄の羽釜を両手で持ち、走り出す。
「ユズリハ! 一番右の『醤』と、そこの赤の陶器を」
「わかった」
ユズリハが厨房の隅にある朔の醤の瓶を掴み、陶器を小脇に抱える。
「――よし、行くぞ!」
朔はユズリハとともに、女王の私室へと、駆け出した。
◇◆◇◆◇◆◇
「――遅い! 私の夕餉は!」
朔が部屋に飛び込むと同時に、飢えと怒りで、我を忘れかけた卑弥呼の、甲高い声が、彼を襲った。
「……サク?」
しかし彼女は、やってきたのが朔だと知り、その目つきをわずかに緩める。
「サク殿……よくぞ!」
手を付けられない卑弥呼に困り果てていたタケヒコが、安堵した表情を浮かべる。
「陛下。申し訳ありません。今、すぐに」
朔は卑弥呼のテーブルの前に正座すると、息を整えながら、盆と椀を卑弥呼の前に、置いた。
「……米だけ、だと?」
卑弥呼は、朔が持ってきたものを見て、眉をひそめた。
朔は羽釜しか持ってきておらず、用意された盆の上には、空の椀がひとつしかない。
「サク! そなた、この私を愚弄するつもりか!」
いったん落ち着きかけた彼女の顔が、屈辱に歪む。
「いいえ、陛下」
朔は、冷静だった。
「今ここで、仕上げます」
朔は、卑弥呼と、その隣で固唾を飲むタケヒコの二人の目の前で、その一膳を、作り始める。
まず、空の椀に、羽釜から力強い湯気の立つ熱い「弥生白米」を、ふっくらとよそった。
そしてユズリハが持ってきた、陶器の蓋を開ける。
中には、彼が牛の乳から作り上げ、工房の地下室で熟成させておいた、黄金色の塊――『バター』――が入っていた。
彼は、そのバターを小刀で惜しげもなく大きく切り分けると、熱い熱い白米のど真ん中に、深く埋め込んだ。
ジュッ……という、微かな音がした。
バターは、米の熱で瞬く間に溶け、黄金色の脂となって、白い米粒の隙間へと、染み込んでいく。
「………!」
その湯気にのってふわりと香ったバターの香りに、卑弥呼がはっとする。




