異国の花7
翌日。
不弥国を経由する大陸行きの交易船が、数日後に出航するという。
厨房の裏の小部屋で、フヨウは荷物をまとめていた。
荷物といっても、朔が用意してくれた数枚の着替えと小物しかなかった。
彼女の表情は、能面のように感情が抜け落ちていた。
「……今日は厨房を手伝ってくれないのか」
入り口の戸口に背を預けて、逆光になった朔が立っていた。
フヨウは手を止めず、膝を折り、背中を向けたまま答える。
「これ以上、ここには居られません」
恩人に刃を向けた、とてつもない罪悪感。
昨日の衝動は、誰よりも、彼女自身を深く傷つけていた。
そして、未だ消えぬ「倭人」への本能的な恐怖と憎悪。
ここに居て、それらがまた制御できなくなるのが怖かった。
「私、大陸へ帰ります」
「フヨウ。昨日のことなら気にしなくていいんだぞ」
フヨウが唇を噛む。
「………」
「記憶が戻って動転しただけだ。誰だってそういうことはある」
「誰だってではありません」
「ある」
力なく首を振るフヨウに、朔が歩み寄ると、声音を変えて言った。
「フヨウ。倭人に殺されかけたんだぞ。抗戦して当然だろ」
「………」
フヨウは胸が熱くなった。
それを貴方が言うか、と思う。
「フヨウ、そんな小さなことで――」
「……サクさんは優しすぎます」
フヨウは立ち上がり、朔を振り返った。
「私は倭人に憎悪を抱えています。ここにいてはならない」
「それは俺がなんとかする」
朔がフヨウの肩を掴んで言った。
「そばにいる。また、いや、何度だって俺がフヨウの手を止めるから」
フヨウの目が、じわりと潤む。
「……どのみち、命の恩人に手を上げた私など、誰も許してはくれないでしょう」
「フヨウはそんな人じゃない。そばにいた俺が一番わかっている」
朔はまっすぐに、フヨウを見ている。
「俺が力になる。みんなが許してくれるまで、俺が守るから」
フヨウはもう朔を見ていられず、うつむいて、視線を自分の荷物へと移した。
「陛下も居ていいって言ってくれている。誰になんと言われようが、堂々と居ればいいんだ」
「いいのです。もう終わったこと」
「フヨウ」
フヨウは大きく息を吐いた。
「戦場しか知らない私のような女に、こんな陽だまりは眩しすぎた」
彼女は寂しげに笑った。
「……サクさん。お世話になりました。あなたとの時間、一生忘れません」
それは、精一杯の別れの言葉だった。
◇◆◇◆◇◆◇
港は朝霧に包まれていた。
フヨウたちの目の前に停泊しているのは、不弥国方面を経由して帯方郡(朝鮮半島)へ向かう、大きな帆船だ。
フヨウは先日の謁見の間で、卑弥呼とタケヒコに大陸に戻ると伝えていた。
タケヒコはフヨウの痛々しいまでの決意を察し、それ以上何も言わずに船の手配をしてくれた。
フヨウとともに見送りにやってきたのは、アカネとタケヒコ。
他、護衛の数名の兵士である。
アカネはいつものように周囲の不穏な動きで察し、ここまでついてきていた。
そこに朔の姿はなかった。
フヨウがそれとなく目で探しているのに気づき、タケヒコが申し訳なさそうに眉を下げた。
「今朝、那の津の食堂でちょっとトラブルがあってな。サク殿は遅れてこちらに向かうと」
「いえ、いいのです。お二人とも、私のためにわざわざありがとうございます」
フヨウは小さく頷いた。
無意識に探してしまったけれど、王宮から離れた那の津で最後に会えるなど、贅沢過ぎる考えだった。
会えなくて当然のこと。
「あんたねえ、これっきりなんだから! もっとシャキッとしなさいよ!」
アカネが、目を赤く腫らしながら腰に手を当てる。
「別に、寂しくなんかないけどね! あんたがいなくなれば、厨房はまた私の天下なんだから!」
「ふふ、そうですね。アカネさん、お世話になりました」
「……元気でやりなさいよね」
本当に大陸へ戻ると思っているアカネが、顔を背け、小さく鼻をすすった。
タケヒコが一歩進み出る。
「フヨウ殿。……姉上がいないので私からで済まないが、此度の不弥国からの仕打ち、倭人を代表して詫びておきたい」
タケヒコは深々と頭を下げた。
「タケヒコ様、頭を上げてください。私は邪馬台国の皆様に命を救われました。もはや倭人への恨みなど消えるほどに」
フヨウはその言葉の通り、清々しい顔をしていた。
タケヒコは感謝する、と笑みを浮かべ、懐をごそごそとする。
「せめて帰りの旅路は、不自由なきよう手配させていただいた」
タケヒコは砂金が入った袋を渡し、そして、もう一つ。
丁寧に風呂敷で包まれた、重みのある包みを差し出した。
感謝の言葉を述べて、まず砂金を受け取る。
この金は自分を再び戦士と変え、冥土への道に花を添えてくれよう。
「こちらはサク殿からだ。『船旅は腹が減る』とな」
「……サクさんが?」
受け取ると、ほのかに温かかった。
その温もりが、冷え切っていたフヨウの心臓を鷲掴みにする。
「………」
フヨウは包みを仕舞いながら、涙を堪えるために天を仰いだ。
最後の最後まで、あの人は私に「料理」を持たせてくれた。
人を幸せにするための温かい料理を。
「くれぐれも丁重にな。彼女は高貴な身分だ」
タケヒコが船長に念を押している。
銅鑼が鳴った。出航の合図だ。
フヨウは桟橋を渡る前、一度だけ王宮の方角を振り返った。
山々に重なって目に浮かぶのは、ずっと過ごしてきた厨房の風景。
――あそこでこれからも、彼は包丁を振るい続ける。
誰かのために、命を繋ぐ料理を作り続ける。
さようなら、私の陽だまり。
彼女は踵を返し、船へと乗り込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇
船が岸を離れた。
重い帆が風を孕み、船体がゆっくりと沖へと進み始める。
フヨウは甲板の船尾に立ち、遠ざかる島影を見つめていた。
彼女の胸には、朔からの弁当が抱えられている。
まだ温かい。
この温もりが冷める頃には、私はもう、戻れないところにいる。
(……いい。構わない)
平和な世界で、いつも笑顔で暮らすなど、夢のまた夢だった。
血塗られた人間には、相応の血塗られた人生がふさわしいのだ。
不弥国に行き、秘められた憎悪のままに剣をふるい、多くの血に染まって死に果てればいい。
「………」
涙が、頬を伝って落ちた。
……本当に、それでいいのだろうか。
今までなら、なんとも思わなかった。
誰に必要とされているわけでもない。
死地からたまたま生き延び、この倭国にたどり着いただけの命。
いつ失くそうとも、悔いはないと思っていた。
だが。
だが今は、僅かなりとも邪馬台国での温もりに満ちた日々のせいで、迷いが生じていた。
記憶をなくした私が過ごした、他人のような人生。
いつもの私なら、知るはずのない世界。
こんなにも温かく、自分を迎え入れてくれる場所が、この世界に……。
その時だった。
「――ウ!」
風の音に混じって、何かが聞こえた気がした。
フヨウは、はっとして顔を上げた。
遠ざかる岸辺。
そこに、一つの人影が走ってくるのが見えた。
全力疾走で、砂浜を蹴立てて走ってくる男。
白い調理着をなびかせ、息を切らして。
「……サク、さん?」
フヨウは瞬きを忘れ、目を凝らす。
間違いない。朔だ。
彼は足元の海をザブザブ掻きながら、大きく手を振り、何かを叫んでいる。
「―――!」
波の音にかき消され、何を言っているのかは聞こえない。
だが、目に見えるその姿は必死だった。
フヨウは船縁まで駆け、前のめりになって耳を澄ます。
「―――!! ―――!」
聞こえないはずの声が、フヨウの心に直接響いてくるようだった。
ドクン、とフヨウの心臓が跳ねた。
船は無情にも進んでいく。
朔の姿が、遠くなっていく。
「サクさん……!」
視界がじわりと涙で滲んだ。
このままなら、もう二度と会えない。
あの温かい手にも、優しい声にも、二度と触れられない。
サクさん……!
フヨウの右足が、船縁にかかる。
「………!」
そこで、自分が何をしようとしたか、気づく。
(だめ)
まだわかっていない。
自分は、危険と知りながらも助けてくれた命の恩人に、あろうことか武器を向け、傷つけてしまったのだ。
「………」
フヨウは船縁を痛いほどに握りしめながら、足を下ろす。
じわり、と涙が浮かぶ。
自分は誰がどうみても、最低のことをしてしまったのだ。
理解しなければ。
あの日にはもう戻れない。
(だめ。見てはダメ)
フヨウは朔に背中を向けた。
お弁当を胸に抱え、じっとこらえる。
大丈夫。
すぐ見えなくなる。
そうすれば、この想いもきっと枯れ果てて――。
「………」
じっと、唇を噛んで、耐える。
一秒、また過ぎる一秒が、心を引き裂くほどに痛い。
きっともう、見えなくなっている。
暴れ出し、抗おうとする感情を無理やり抑え込んでいるせいで、腕が震え出す。
震える腕から、抱えていたものがすり抜けて落ちた。
ガシャン、という、なにかが割れる音とともに、料理と缶詰が散乱する。
フヨウは、目を見開いた。
足元には二人で一日中作った、あの「饅頭」が転がっていた。
そして、こぼれた琥珀色の煮汁からは、あの懐かしい香りが広がっていた。
味が染みて飴色になった卵と、ほろほろの豚肉。
『煮卵と豚の角煮』だった。
――フヨウの手は、温かいな。
――文句なしだ。優しい味がする。お前の性格が出てるよ。
その笑顔も声も、昨日のことのように思い出された。
そして、門前町で食べた、あの棒付きの麦飴も、朔は何本も持たせてくれていた。
少しでも長く、自分を支えるかのように。
「……サク……さん……!」
息が詰まる。
心の奥底に抑え込んでいた想いが、堰を切ったように溢れ出していた。
耐えられず、フヨウが振り返る。
目で必死に探す。
だが、彼の姿は、もう見えなくなっていた。
「馬鹿だ……私……!」
フヨウは崩れ落ち、両手で顔を押さえ、声を上げて泣いた。
「うぅぅ……あぁぁ……!」
否定しても、否定しきれない。
失って初めて、そのたいせつさに気づいた。
もう二度と逢えない。
「サクさ……ん……!」
とめどなく、あふれる涙。
どうして、あんなに大切な人を、自分から失くして――。
「……いやだ……やっぱり嫌ぁぁ……!」
もう、ひとりは嫌。
あなたがいる幸せを、私の心は知ってしまっている。
昔になんて、戻れない。
(サクさん…………)
会いたい。会いたい。会いたい……!
あの人のそばに、戻りたい。
でも、いまさら間に合わない。
もう遅い。
もう……。
想いに応えるように、フヨウの閉じたまぶたの裏には、朔の顔が浮かんでいる。
できた料理を見てもらって、味を見てくれている、真摯な横顔。
門前町で手を繋いで自分を引っ張ってくれた、頼もしい顔。
お店の最後の一席を駆け寄って座って、二人だけの幸せを子供のように笑い合った、あの時の笑顔。
「……嫌……」
無意識に、フヨウの口から言葉が漏れた。
フヨウの目に、失われていた輝きが戻ってくる。
――諦めるの?
違う。
まだ、本当の終わりじゃない。
ちょっと距離が離れたというだけのこと。
なのに。
今生の別れでもないのに、私はこのまま、あの人を諦めるの?
諦めて、いいの?
「……嫌……!」
嫌だ。
このまま、あの人とお別れだなんて。
――お別れだなんて!
「いやあぁぁぁぁ―――!」
フヨウは体をくの字にして、絶叫した。
――あのひとを、諦めたくない!
私はまだ、失くしていない!
このまま、別れたくない!
自由の翼を得た想いが、フヨウを束縛していた鎖を全て断ち切った。
「サクさん――!」
フヨウは、もう迷わなかった。
ただまっすぐに、瞬きもせずに、朔がいた方角を見つめる。
そして、船縁に足をかけた。
「お、おい、女! 何をする気だ!?」
船員がぎょっとして声を上げる。
(大切なものに、やっと気づいた)
あれは、失くしてはいけないものなのだ。
たとえ天地が逆さまになったとしても。
彼女は大きく息を吸い込み、甲板を蹴った。
躊躇なく、冬の海へと身を躍らせる。
「ば、ばかな!? 冬だぞ!」
――ザパァンッ!!
冷たい水が全身を打つ。
すぐさま、海流が身体を引きずり込もうとする。
(サクさん……!)
だが、彼女は泳いだ。
父譲りの膂力と、朔への想いだけを推力にして。
波を切り裂き、 愛しい男が待つ、あの陽だまりの浜辺へと。
――どうか、どうか私に、もう一度手にさせて。
一度失くした、たいせつな、あなたを。
◇◆◇◆◇◆◇
浜辺では、朔が立ち尽くしていた。
何かが見えたわけではない。
ただ、気のせいか、ここから離れてはいけない気がしていた。
それを裏付けるように、やがて波間にごくごく小さな、一つの影が見えるようになる。
それは近づいてくる。
力強いストロークで、一直線にこちらへ向かってくる。
「ちょっと待て……」
朔は青い顔になって、港へと駆け出した。
「ちょっと貸してくれ!」
「えっ!? 賢者様、これから出港ですぜ」
「一大事なんだ! このまま北に走る!」
停泊していたパドルスチーマーに乗り込み、勝手に操舵して発進する。
もうその頃には、その影は明らかなものとして見えていた。
――ドシュッ、ドシュッ、ドシュッ!
船は煙を上げ、勇ましく進む。
ザブザブと海を漕いで進み、その影をまっすぐに迎えにいく。
ざぱぁっ!
波を割って、フヨウが顔を上げた。
「――サクさん!」
ずぶ濡れの黒髪。張り付いた服。
肩で息をする彼女の瞳は、燃えるように熱かった。
「フヨウ……! バカ! 死ぬぞ!」
「サクさん!」
朔が船を止め、船首からはしごを下ろし、半身を海に浸かりながら、やってくる女性に手を伸ばす。
フヨウは水しぶきを上げながら、朔の手を掴む。
「上がるぞ!」
はしごを上り、安全な船の上に下り立つや、フヨウは海水を滴らせたまま、朔に力いっぱい抱きついた。
勢いのまま、朔は彼女を受け止め、二人してドタドタと倒れ込む。
船乗りたちが、唖然とする。
フヨウが朔の首に腕を回し直し、顔を寄せる。
誰が見ていようと、もはや関係なかった。
「サク……さん……んっ」
朝の日差しの中、熱く重なったくちびる。
「ごめんなさい、わたし、私……!」
唇を離したフヨウは、全身を密着させるように朔に抱きついた。
「……おかえり、フヨウ」
朔は彼女の背中に手を回し、強く抱き締め返した。
「待っていたよ」
「……私、あなたを失くしてから、やっと気づいて……!」
それは不器用な彼女なりの、精一杯の愛の告白だった。
朔はそうか、と、穏やかな笑みで頷いた。
彼女は顔を上げ、至近距離で朔を見つめた。
水滴の滴るまつ毛。震える唇。
「サクさん……私、やっぱりそばにいたいんです……!」
「あぁ。そうしてくれ」
「……サクさん……!」
フヨウは泣き笑いのような顔で、もう一度朔の胸に顔を埋めた。
帰ってきた船から降りた、毛布をかぶった二人を見て、港にいたタケヒコとアカネと、先ほどやってきたユズリハが呆れたように、しかし安堵の表情で見下ろしていた。
アカネが「まったく、世話が焼けるわね!」と叫び、タケヒコが「やれやれ」とにんまりしている。
ユズリハは、まあ今だけは許してあげる、と優しい目を向けながらも、まだ距離の近い二人に、どうしても口は小さく尖ってしまっていた。
だがフヨウには、もう他のなにも届いていなかった。
朔の温かさだけが、彼女の心に確かに響いていた。
第六部終了




