異国の花6
その日の午後も、厨房にはいつものように料理の香りが満ちていた。
朔は手に入ったばかりの木の実と、乾燥させた海藻を使って、新しい和え物を試作していた。
フヨウは、すっかり厨房の一員として馴染み、竈の火加減を見ていた。
「火が若干強いかな」
「はい、薪を減らしますね。サクさん、これくらいですか?」
「そうだ。いい手際だ」
フヨウは阿吽の呼吸で応じてみせ、嬉しそうに口元を綻ばせる。
その横顔は、戦火を知らぬ村娘のように穏やかだった。
平和そのものの光景。
しかし、それを切り裂くように、重い足音が近づいてきた。
「サク殿はおられるか」
入ってきたのは宰相のタケヒコだった。
背後には数名の兵士が控え、布に包まれた「何か」を抱えている。
タケヒコの表情は険しく、実務的な緊張感を纏っていた。
「タケヒコ様。どうしました、そんなに兵を引き連れて」
朔が手を拭きながら歩み寄る。
タケヒコは作業台の端に場所を求めると、兵に合図した。
「東の国境近くで、不弥国らしき一団と小競り合いがあった。奴らが遺していった武器の『質』が気になってな。……これを見てくれ」
布が解かれる。
そこにあったのは、泥にまみれた数本の鉄の鏃と、中ほどからへし折れた一本の剣だった。
「この鏃と剣、ただの鉄ではない気がしてな。驚くほど硬く、鋭い。サク殿、そなたの知識で、これがどんな金属か鑑定できぬか」
タケヒコは朔を「賢者」として頼りに来た。
だが、その折れた剣が台の上に置かれた瞬間、厨房の空気が凍りついた。
フヨウの動きが止まった。
彼女の瞳が、一点に釘付けになる。
薪を持つ手が小刻みに震え始め、呼吸が荒くなる。
――ヒュッ、ヒュッ。
耳の奥で、何かが弾ける音がした。
それは、封印されていた記憶の扉が、暴力的にこじ開けられる音だった。
――逃げろ!
集落の長老の声。
――火だ! 火を放て!
耳障りな倭の言葉。
嘲笑うような兵士たちの顔。
燃え落ちる家々。泣き叫ぶ子供たち。
それを容赦なく斬り捨てる、不弥国の兵士たちの歪んだ笑み。
血の海。泥濘。
形見だった剣が折れ、彼女は海へと飛び込んだ。
冷たい水。降り注ぐ矢の雨。
折れた剣も、タケヒコの背後にいる兵士たちの鎧も、細部は違えど、記憶を呼び覚ますには十分だった。
「……あ……ああ……ッ!」
フヨウが喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げた。
彼女は頭を抱え、後ずさる。
視界が歪む。
「……フヨウ!? 大丈夫か」
声に驚いて、朔が振り向いた。
朔の目を見開いた顔が、炎の中で笑う兵士の顔と重なっていく。
――敵だ。こいつらはみんな敵だ。
――私たちの集落を、友を、焼き殺した奴らの同類。
「フヨウ!」
朔が駆け寄ろうと手を伸ばした瞬間、フヨウの身体がバネのように弾けた。
彼女は近くにあった果物ナイフを掴み取り、獣のような速さで朔の懐に飛び込んだのだ。
「――サク!」
ユズリハが悲鳴を上げ、剣に手をかけ、飛んだ。
だが、ユズリハですら、遅い。
ドンッ!
フヨウは朔を壁に押し付け、その喉元に切っ先を突きつけた。
喉の皮一枚のところで、冷たい刃が震えている。
「あなたたちも……奴らの仲間なのですね……!」
フヨウの瞳孔は開ききり、そこには狂気と絶望が渦巻いていた。
彼女はもう、朔を見ていない。
彼女が見ているのは、憎悪すべき「倭人」という記号だった。
「私も……殺す気なのですか! 我らを皆殺しにして、まだ飽き足りないのですか!」
「フヨウ、落ち着け。俺だ、朔だ」
朔は抵抗しなかった。
ただ、真っ直ぐに彼女の狂乱した瞳を見つめ返した。
「俺たちはお前を傷つけない。お前の敵じゃない」
「嘘です! 倭人は皆、嘘つきです! 笑いながら裏切り、私たちから奪い尽くす!」
刃が食い込み、朔の首筋に赤い線が走る。
血の玉が滲み、流れ落ちる。
「許しません……この呂芙が、最後の一人まで地獄へ突き落とす!」
「――やめろ、大陸の者!」
ユズリハが剣を抜き、フヨウの横から相対する。
「離れろ! いいか、その人を傷つけたら、八つ裂きにしてやる!」
ユズリハの目は、かつてないほどに鋭い。
そして、その声は震えていた。
タケヒコもさっと片手を上げ、兵たちに構えを命じる。
厨房は一瞬にして処刑場のような緊張に包まれた。
「フヨウ」
だが、朔だけが静かだった。
彼はゆっくりと手を上げ、フヨウの震える手に、自分の手を重ねた。
温かい料理人の手が、硬いタコと無数の傷痕がある手に重なる。
「……思い出せ。この手が為してきたことを」
朔が囁く。
「ずっと見ていただろ? 俺の手は、人を殺すためのものではなかったはずだ」
フヨウの動きが止まった。
ナイフを握る手に、朔の掌の熱が伝わる。
――あたたかい。
その熱は、燃え盛る集落の炎の熱さではない。
彼女が目覚めてから毎日、粥を運び、傷を拭き、頭を撫でてくれた手の温もり。
饅頭の作り方を教えてくれた、優しい手。
そして、門前町で握って引っぱってくれた、力強い手。
「………」
記憶が混濁する。
目の前にいるのは、憎むべき倭人。
けれど彼は自分を助け、ずっと、ずっと暖かく接してくれた。
殺したいほどの憎しみと、縋り付きたいほどの愛着が、彼女の中で激しく衝突する。
「う、うぅ……あぁぁぁ……」
フヨウの手から力が抜けた。
カラン、と乾いた音を立てて、ナイフが床に落ちる。
「ごめんなさい……!」
彼女はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
さらりとした黒髪が、肩から流れ落ちる。
「いい。気にするな」
朔は彼女を抱き留め、震える背中をただ撫で続けた。
「私は……いったい、どうすれば……!」
その光景を見ながら、タケヒコは静かに兵を下がらせ、ユズリハは痛ましげに目を伏せた。
記憶が戻ってしまった。
それは、この穏やかな日々の終わりを意味していた。
◇◆◇◆◇◆◇
記憶の奔流が去った翌朝、王宮の謁見の間には、張り詰めたような冷たい空気が流れていた。
一段高い場所から見下ろすのは、邪馬台国の女王・卑弥呼。
その傍らには、沈痛な面持ちのタケヒコが控えている。
その前で、フヨウが片膝をつき、畏まっていた。
今の彼女を支配しているのは、底知れぬ自己嫌悪であった。
「フヨウよ、面を上げよ。……そなたがサクに刃を向けたこと、本来ならば到底看過はできぬ」
卑弥呼の厳かな声が、静まり返った間に響く。
「申し訳、ございません……」
フヨウが震える声で答えた。
彼女の脳裏には、昨日、果物ナイフの切っ先が朔の喉元を傷つけた瞬間の感触が、今も鮮明にこびりついている。
戦乙女として生きてきた彼女にとって、武器を向ける相手は常に「敵」だった。
だが、自分が最も信じ、愛し、守りたいと願ったはずの男を、己の憎悪と混乱のままに傷つけてしまった。
その事実は、失われたどんな過去よりも重く、彼女の心を粉々に打ち砕いていた。
「……フヨウ殿。そなたを国から追放せよとの声も一部にはある。だがサク殿のたっての願い、そしてそなたの日頃の慎み深い振る舞いを鑑みて、姉上はこのまま邪馬台国で預かると決められた。過ちを悔いるのであれば、これからはその武を持ってこの国を支えるが良い」
タケヒコの言葉は温かかった。
卑弥呼の視線も、威厳に満ちてはいるが、決して尖ってはいなかった。
フヨウは心遣いに感謝を述べた後、しかし、と続けた。
「私には、国に留まる資格はありません」
彼女の瞳からは、光が失われていた。
立ち直れぬほどの衝撃が、彼女の精神を深く削り取っていた。
作者より)
彼女は呂玲綺と呼ばれる女性です。
名はゲーム会社が決めたものですので、本作では変えてあります。




