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卑弥呼のシェフ 〜世界大会優勝の料理人、弥生時代で料理無双してたら卑弥呼が私物化しようとしてくる〜  作者: ポルカ


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異国の花5



 その朝、フヨウはいつもよりずっと早くに目を覚ました。


 まだ夜のとばりが落ちきらぬ薄闇の中、彼女は朔から贈られた水色の衣を丁寧に広げた。

 絹の艶やかさと麻の清涼感を併せ持つその布地は、指先で触れるだけで吸い付くように滑らかだ。


 彼女は、朔が自分のためにわざわざ仕立ててくれたこの衣を、壊れ物を扱うように慎重に身に纏った。


 廊下に置かれていた鏡の前で、濡羽色の長い髪を整える。


「……変では、ないでしょうか」


 誰に問うでもなく呟いた彼女の頬は、微かに熱を帯びていた。


 約束の刻限、王宮の裏門で待っていた朔の姿を見つけた時、フヨウの鼓動は剣を握る時よりも激しく跳ねた。


 朔はいつもの機能的な作業着ではなく、門前町を歩くのに適した軽やかな装いをしており、それがまた彼女の目には新鮮で、そして眩しく映った。


「お待たせしました、サクさん」


「いや、俺も今来たところだ。……よく似合ってるな、フヨウ。その色を選んで正解だった」


 朔が何気なく放ったその一言だけで、フヨウの心は春の野原のように一気に温かさに満たされた。

 彼女は恥ずかしさを隠すように、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。……大切に、着させていただきます」


 二人は、朝の柔らかな光が差し込む王宮を抜け、緩やかな坂道を下って門前町へと向かった。


「実は俺もあんましわかってないんだよな」


 朔は並んで歩きながら、苦笑いしていた。


「え? サクさんも?」


 フヨウが長い睫毛を揺らして、瞬きをする。


「ああ。去年、ここの料理人になったばかりでさ。来てからしばらくは厨房にこもりきりでさ」


「そうだったんですか。でも私は二人で歩けるだけで嬉しいので」


「そういってもらえると嬉しいよ。さ、二人で迷子になろうか」


「あはは、そうですね」


 門前町に足を踏み入れた二人は、人だかりの熱に飲み込まれていった。

 そこには暴力とは無縁の、騒がしくも平和な「日常」が爆発していた。


 威勢のいい魚売りの声、立ち上る炭火の煙、色とりどりの布が並ぶ露店。

 大きな陶器の瓶を背負って歩く商人や、笑いながら追いかけっこをする子供たち。


 フヨウは、その一つ一つを目に焼き付けるようにじっと見ていた。


「サクさん、あれは……?」


「あれはここらで有名な貝細工だな。こっちにあるのは香料だ」


 朔は歩調を緩め、彼女の興味に合わせて丁寧に解説を加える。

 フヨウは、朔の知識の深さに改めて感嘆しながら、彼の隣を歩ける喜びを噛み締めていた。


 賑わいは、中央の十字路に差し掛かったところで絶頂に達した。


 その時だった。


 通りの向こう側で「競り」が始まったのか、あるいは珍しい異国の芸人が現れたのか。


 凄まじい人の波が、堰を切ったように二人の方へと押し寄せてきた。


「危ないな……」


 朔が声を上げたが、人波は容赦なく彼らの間を割ろうとする。

 屈強な男たちの肩がフヨウを突き飛ばしそうになり、彼女がたじろいだ。


「サクさ……っ!」


 人混みに呑まれ、フヨウの体が遠ざかる。

 朔は反射的に手を伸ばし、フヨウの細い手首を掴んだ。

 そのまま彼女の体を自分の方へ力強く引き寄せる。


「こっちだ。離れるなよ」


 さらに不運なことに、大きな荷物を積んだ大八車が通りを塞ごうと割り込んできた。

 逃げ場を失った朔は、フヨウを抱き寄せるようにして、路地裏へと続く狭い隙間に飛び込んだ。


「ふぅ」


 背中を壁に預け、ようやく人心地つく。

 あまりの勢いに、二人の心臓の鼓動が重なるほど、身体が重なっていた。


「……すまない、大丈夫か」


 朔が問いかけると、フヨウは真っ赤な顔をして、それでも力強く頷いた。


「はい。……ありがとうございます、サクさん」


 落ち着いて見れば、朔の手は今やフヨウの「手首」ではなく、その「掌」をしっかりと握りしめ、反対の手は腰を引き寄せていた。


 指先同士が絡まり、逃がさないという確かな意志を持って繋がっている。


「ああ、ごめん。やりすぎてる」


 朔は我に返り、パッと手を離そうとした。

 だが今度はフヨウの方が、消え入りそうな力で、しかし拒めない切実さでその手を握り返した。


「……サクさん。その……もう少しだけ」


「え、あ……でも」


「これだけの人混みです。もし離れてしまったら……私一人では……」


 フヨウは俯き、長い睫毛を震わせた。

 

 今の彼女はただの「道に迷うことを恐れる女の子」だった。


「……ああ、わかった」


 朔はもはや気にせず、手を繋いだまま再び歩き出した。

 二人はそのまま、門前町で一番人気の「飴」の露店へと向かった。


「たしか、こっちなんだ」


「はい」


 偶然がもたらしてくれた幸運に感謝しながら、フヨウはそっと、繋いだ手に力を込めた。


 そこは朔からシロップを流してもらって営業している王宮の息のかかった店で、案の定というべきか、人で溢れかえっていた。


 朔は一席だけ空いた席を見つけると、今度こそ「チャンスを逃すまい」という一心で、彼女の手を引いて駆け出した。


「フヨウ、あそこ空いてる」


「あっ、はい!」


 二人はまるで悪戯を成功させた子供のようにその席を確保し、笑いあった。

 

 朔は、露店で買い求めた黄金色に輝く、棒つきの麦芽糖の飴を彼女に差し出した。


「お疲れ様。……この飴でも食べて落ち着こう」


 広場に面した席からは、遠くに邪馬台国の美しい山々が見えた。

 フヨウはおずおずと、差し出された飴を口に含んだ。


 どこか素朴で、心が解けていくような甘い味。


「……美味しいです……」


「俺の故郷でも、お祝い事の時なんかにはよく食べたんだ」


 フヨウは、頬をリスのように膨らませて飴を転がした。

 甘さが喉を通るたびに、胸の奥におりのように溜まっていた不安が、綺麗に洗い流されていく。


「私……今の自分が信じられません」


 彼女は、膝の上で自分の手を見つめながら言った。


「私の手には、消えないタコがあります。思い出せなくても、この手が血に塗れてきたことだけは分かるのです。そんな私が、こうして綺麗な衣を着て……サクさんの大きな手に引かれて歩いているなんて……」


 彼女は一度言葉を切り、空を仰いだ。

 

「フヨウ……」


 雲一つない青天の下、風が彼女の黒髪を優しく撫でていく。


「サクさんが教えてくれたお料理が作れて、今日、こうして高望みだったお願いも叶えてもらえて……。この風も、この飴も、そしてさっきまで繋いでいたサクさんの手の温かさも、私の一生の思い出になります」


 彼女は朔の方を向き、今日一番の笑顔を見せた。

 それは、宮廷で見せる「客分としての顔」でも、厨房で見せる「弟子の顔」でもなかった。


 ただ、大好きな人の隣にいることを許された、恋する一人の少女の笑顔だった。


「こんな……贅沢な幸せを感じられるなんて」


 朔は、その眩しいばかりの笑顔に、思わず息を呑んだ。

 芙蓉の花が満開になったような、凛としていて、それでいて壊れそうなほど繊細な美しさ。


 その後、二人は町外れの展望台まで足を伸ばした。

 そこからは、自分たちが住む王宮が、箱庭のように小さく見えた。


「サクさん。私……」


 夕暮れが近づき、空が紫とオレンジのグラデーションに染まり始めた頃。

 朔の隣に立つフヨウが、髪を風になびかせながら、静かな声で切り出した。


「もし記憶が戻っても……私はサクさんのそばにいたいです。この手で料理を作って、もっとたくさんの人を笑顔にしたい。……ずっとずっと、ここに居たい。私……そう思っていてもいいでしょうか」


 厨房に立つようになってから、心のなかにあり続けていた、唯一の願い。

 そして、今のフヨウを支えている、確固たる想い。

 それだけに、否定されるのが怖かった。


 だが。


「もちろんだ。フヨウはいつだって厨房にいてくれていい」


「………」


 フヨウは一瞬言葉を失うと、すっと流れた涙を指先で拭いながら笑った。


「……はいっ!」


 夕闇が迫る中、家路につく人々の灯りが町に点り始める。


「さあ、帰ろうか」


「サクさん」

 

フヨウは背を向けて歩き出した朔に駆け寄り、腕を組んで歩き出す。

黒髪が朔の頬をふわりと撫でた。


「おいおい」


「アハハ。優しいことを言うからです」


 二人は並んで、王宮への坂道をゆっくりと歩いた。

 夕日がそんな彼らを優しく見守っていた。

 

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