異国の花3
「……美味しい……です」
「よかった。口にあったみたいだな」
朔は微笑み、小さく頷く。
「よし。もっと食え。体力をつけなきゃな」
そのぶっきらぼうだが温かい言葉を聞いた時、女の中で何かが解けた。
張り詰めていた糸が切れ、この男は敵ではないと本能が告げた。
この合理的な優しさは、信じていいものだと。
入り口のユズリハは、涙を流しながら粥を啜る女の姿を見て、ふいと顔を背けた。
朔は、食べやすいように、わざわざ彼女の故郷の味に似せたのだと知る。
その思いやりと優しさに胸を打たれる反面、どこか悔しさに似た感情が湧き上がっていた。
◇◆◇◆◇◆◇
それから、邪馬台国での同居生活が始まった。
朔たちにとって良かったのは、記憶のない彼女には、倭人に対する敵意も一切なかったことである。
それゆえ、トキハの時のように滞ると思っていた治療が、極めてスムーズに行われた。
女の回復力は驚異的だった。
朔の計算した高栄養食と、彼女自身の持つ基礎体力の高さ。
そこに朔の料理特有の『祝福』が加わり、開いていた傷は閉じ、顔色はどんどん良くなっていった。
立ち、歩き、湯浴みもできるようになると、血や泥が落ちて、彼女の持つ白磁のように滑らかで美しい肌が姿を現した。
朔が用意した絹麻交織の衣に袖を通すと、別人のように見違えた。
彼女は、濡羽色の艶やかな黒髪を背に流し、凛とした瞳で立つ、一人の美しい女性になっていた。
朔に寄り添う、見慣れぬ黒髪の麗人の姿に、通りすがる男たちが幾度も名を訊ねていくほどであった。
名前がないのは不便なので、朔は彼女を「フヨウ」と呼ぶことにした。
それは単に、様子を見にやってきた卑弥呼が、芙蓉の花のように美しい女だと例えたからである。
「サクさん、これは何というものですか」
「カブだよ。皮を厚く剥いて、煮込みに使うんだ」
「手伝います。こうして、じっとしているのは苦手なのです」
フヨウは厨房に入り浸るようになった。
最初はユズリハが「刃物を奪うかもしれない」と警戒したが、卑弥呼が「フヨウならきっと大丈夫であろう。なにかさせた方が記憶の回復にもいいはず」と、朔の判断を後押しした。
フヨウは一度見た仕事はきちんと覚え、テキパキと朔の助手を務めた。
アカネのように、いちいちぶつくさ言わず、涼しい顔でなんでもこなす。
フヨウはもともと穏やかな性格のようで、通りすがりの者が自身に後ろ指を指すのを感じ取っても、黙し、ただ目の前の仕事を淡々とこなしていた。
「フヨウ、その手を見て思ったんだが、あんた、剣を使ってたのか?」
朔が何気なく尋ねると、彼女はきょとんとして自分の手を見た。
それは女性には似つかわしくない、無数の傷とタコのある武人の手だった。
「……分かりません。ですが、柄を握ると心が落ち着くのはあります。……何かを守れるような気がします」
「何を守るんだ?」
「……大切なものを。でも、それが何だったのか……思い出せないのです」
彼女は朔を見て、はにかむように笑った。
◇◆◇◆◇◆◇
ある日の午後、厨房には粉の舞う匂いが満ちていた。
朔は卑弥呼の強い要望により、儀式に使う饅頭を作ろうとしていた。
小麦を挽き、現代知識で作った天然酵母を混ぜて発酵させた生地だ。
朔は手本を見せるように、生地をちぎり、手のひらで丸めていく。
「こうやって、空気を抱き込ませるように優しく丸めるんだ。中には甘く煮た小豆の餡を入れる」
アカネとフヨウは、おずおずと生地を手に取り、言われた通りやってみる。
「もうできたけど、こんな感じ?」
「おお、うまいな、アカネ」
朔は驚いたようにアカネを見る。
アカネの手の上には、初めて作ったとは思えない、よくできた鰻頭があった。
「ふっふーん♡ あたしの実力、やっとわかった? こういうの、得意なんだ!」
アカネが腰に手を当て、ここぞとばかりに鼻を高くした。
それに比べ、フヨウはうまくいかない。
彼女の手は、剣を握り、敵を断つために鍛え上げられたものだった。
無意識のうちに力が入ってしまい、柔らかい生地をだめにしてしまう。
「……できない……」
二度、三度、と繰り返しても、うまくいかない。
彼女はとうとう、生地を握ったまま、両手をまな板に叩きつけた。
「……手が言うことをきいてくれません」
彼女は悔しそうに眉を寄せ、無惨な形になった生地をじっと見ている。
その目が、じわりと潤んだ。
「私は……もしかしたら、壊すことしかできないのかもしれません。この手はきっと、血に塗れ過ぎていて……」
「違うさ。単に肩に力が入りすぎだ。剣の柄を握るんじゃないんだ」
そう言って、フヨウの手を朔が横からそっと包み込んだ。
朔の手は温かく、そして大きかった。
「ほら、力を抜いて。赤ん坊のほっぺたを触るみたいにな」
朔は彼女の指を開かせ、ひらひらと振ると、手のひらのくぼみを使うように導いた。
「……あっ……」
「そう、こうして……そうそう。包み込むように」
ユズリハとアカネの目が鋭く尖っていたが、フヨウはそれどころではなかった。
朔の手の使い方は、自分のとはまるで違った。
「フヨウの手は、温かいな」
朔が何気なく言った。
「え……?」
「体温が高い。それはパン作りには最高の才能なんだ。酵母……ああいや、生地を膨らませる『小さないのち』が元気になるんだ。冷たい手じゃ、いい生地は作れない」
「さ、才能……?」
「そう。フヨウの才能」
朔は彼女の目を見て、にっと笑った。
「フヨウのその手は、何かを殺すためじゃなく、美味いものを育てられる手さ。料理長の俺が保証する」
(育てるための手……)
その言葉が、彼女の胸にじんわりと染み渡った。
自分が「武」に精通していることは、記憶を失えど、知っている。
でも、それ以外の何かで認められるなんて、思ったこともなかった。
朔に支えられながら、彼女はもう一度、生地を丸めた。
今度は潰さず、ふっくらとした綺麗な丸形になった。
「……できました」
「おう、なんだよ、上手いじゃないか! 俺より才能あるかもな」
「ふふっ……わざと派手に褒めてくれてます」
笑った拍子に、フヨウの目から雫がこぼれた。
「あ、わかった?」
「うふふ。でも嬉しいです」
フヨウは自分の手を見つめ、心底嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は戦士の顔ではなく、ただの一人の少女のそれだった。
そうやって、二人は並んで、粉まみれになりながら、朝から晩まで饅頭を作り続けた。
そんな日々が続いた頃。
「私、ここで、サクさんのような料理人になりたいです」
フヨウはそう言って、少し照れたような顔で微笑んだ。
◇◆◇◆◇◆◇
それからのフヨウの成長は、目を見張るものがあった。
彼女の特筆すべき才能は、武芸で培われたであろう驚異的な「観察眼」と「身体操作」にあった。
食材の繊維を見極め、最小限の力で断つ技術は、すぐに朔を驚かせるレベルに達した。
「いいか、食材には繊維がある。無理に断ち切ろうとせず、その目に沿って刃を入れるんだ」
「……繊維、ですか」
朔が作った特製の木製包丁――万が一の事故を防ぐための、刃を潰した練習用のもの――を握り、彼女は野菜と対峙する。
本来なら切れるはずのない鈍らな道具。だが。
スッ、と彼女が手を動かす。
力任せに叩き切るのではない。
最小限の力で、野菜の組織が解ける隙間に刃を滑り込ませる。
パカッ。
硬いカブが、まるで自ら開いたかのように二つに割れた。
「お、おいおい……」
「……すごい」
横で見ていた朔とアカネが、唸る。
「あんた、本当に初心者? なんでそんな木の包丁で綺麗に切れるわけ?」
「分かりません……」
アカネの言葉に、フヨウがはにかむ。




