異国の花2
「妙な夢見でな。赤い龍が、庭先で泣いている夢だ。起きてみると、どうしてか厨房の方に行かねばならぬ思いがしてな。なるほど、こういうわけであったか」
卑弥呼は楽しげに口元を緩め、朔の背後で苦しげに息をする、女の顔を覗き込んだ。
「……ほう。死相の濃い顔だ」
その瞳が、何か目に見えぬものを探るように細められる。
「全身に死の影がまとわりついておる。だがその奥でまだ、真紅の龍が暴れている」
「龍、ですか?」
タケヒコが訊ねる。
「傷ついた龍が天に昇ることもできず、地を這うこともできず、迷い込んで来たというわけか」
卑弥呼が意識のない女をまじまじと見ると、タケヒコに向き直る。
「……この者、トキハに並ぶ武の持ち主であろう。大陸では相当に名のしれた者の血を継いでいる」
「なんと」
タケヒコが、すらすらと語られる女の素性に、驚く。
「追い払えば、その怨嗟がこの国に災いを成す。この者を助けよ」
「あ、姉上。しかしこの者を匿うことは、他国との関係に……」
「タケヒコ。この龍を見殺しにする方が、それ以上の災厄が降りかかる」
予言してみせる卑弥呼は、なんと朔と同じことを言っていた。
「この女にすぐに掛け物を持て。加えて、ここに居住できるよう整えるのだ」
卑弥呼は後ろを振り返り、ついてきた5人の侍女に命じると、侍女たちは畏まり、すぐに散っていった。
「サクよ」
卑弥呼は信頼する料理人の名を呼んだ。
「そなたの力で、この荒ぶる龍を慣らせるか」
朔は片膝をついて畏まる。
「わかりません。ですが、なんとしても命は繋ぎ止めます」
「よかろう。これより私の賓客同様に扱え。ただし」
卑弥呼は鋭い視線を、朔の隣に立つユズリハに向けた。
「この国にとって、吉となるか凶となるかは、放してみないと分からぬ。ユズリハ、そなたが目付役となれ。そして、もし万が一……」
卑弥呼が一度言葉を切ってから、続けた。
「牙を剥けば、その時はやむをえぬ」
「御意」
ユズリハは短く答え、寝台の女を見やった。
こうして、謎の女は正式に王宮での滞在を許されることになった。
タケヒコと卑弥呼が去った後、部屋には重苦しい空気が残ったが、朔はすぐに切り替えてユズリハに向き直った。
「さあ、ユズリハ。今度こそ湯を持ってきてくれ」
ちょうどその時、寝台の上で、女がうわ言のように何かを呟いた。
「…………」
聞き取れない異国の言葉。
だが、その響きは慟哭のように、朔の胸を打った。
それは助けを求める声にも、喪失の嘆きにも聞こえた。
◇◆◇◆◇◆◇
深い闇の中を漂っていた。
熱い。身体中が焼けるように熱い。
誰かが叫んでいる。怒号。悲鳴。馬のいななき。そして、全てを焼き尽くす紅蓮の炎の音。
――逃げろ! どこでもよい! さあ、生き延びるのだ!
愛する家族の声が聞こえた気がしたが、振り返るとそこには誰もいなかった。
父の背中は遠ざかり、母の笑顔は煙にかき消された。
ただ、果てしない海が広がっているだけ。
冷たい波が私を打ち据える。
私は、誰?
私は、何を失った?
大事なものを守れなかった、無力感だけが鉛のように心臓に張り付いている。
不意に、良い香りが鼻先を掠めた。
焦げ臭い戦場の匂いではない。鉄錆の匂いでもない。
もっと優しく、懐かしく、根源的な……好ましい匂いだ。
女はゆっくりと重い瞼を開けた。
目に入ってきたのは、煤けた木の天井と、小さな明かり取りの窓から差し込む柔らかな陽光だった。
埃が光の中で踊っている。
「……気がついたか」
男の声がした。
女は弾かれたように身を起こそうとしたが、激痛に顔を歪めて呻いた。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、傷口が裂けるような痛みが走る。
「無理をするな。まだ傷が塞がっていない。三日三晩、高熱にうなされていたんだ」
視線を向けると、寝台の脇に一人の男が座っていた。
簡素な衣を纏い、手には湯気の立つ木椀を持っている。
敵意は感じられない。
むしろ、その眼差しは春の陽だまりのように温かく、警戒心を解きほぐすような色をしていた。
「…………ZℎèSℎìN?」
女は掠れた声で問うた。
喉が焼けるように渇き、声が出ない。
「………」
男は、首を傾げた顔をしている。
ああ、そうだ。ここは倭国か。
「ここは、どこですか」
その言葉に、男は今度はすんなり理解したようだった。
「邪馬台国の王宮の、厨房の裏だ。あんたは浜に打ち上げられていた」
ヤマタイコク。聞いたことのない名だった。
「私は……なぜ、ここに……」
自分の発した問いに答えようとして、女は愕然とした。
思い出せないのだ。
自分が何者で、どこから来て、なぜこんな深い傷を負っているのか。
記憶の書庫が、そこだけ黒く塗りつぶされたように欠落している。
名前も、目的も、自分が何のために戦っていたのかさえも。
「……分からなくなってる……」
女は震える手で自分の顔を覆った。
指の隙間から、絶望が滲み出る。
「自分が誰なのか、思い出せない。ただ、何かとても大切なものを失ったという、痛みだけが……」
部屋の入り口で、柱に寄りかかっていた人影が、わずかに動いた。
剣を抱いた女、ユズリハだ。
彼女は探るような鋭い目で女を見つめ始める。
その時、ユズリハの横から、ひょいと顔を覗かせた小柄な影があった。
橙の髪をツインテールにし、少し不機嫌そうな顔をした少女。
厨房に勝手に住み着いている自称・朔の弟子、アカネだ。
アカネも、ユズリハと同じことを感じ取っていた。
「記憶喪失? ずいぶん都合のいい話ね。刺客が正体を隠す常套手段じゃない」
アカネは腰に手を当て、あからさまに疑いの眼差しを向ける。
「アカネ、やめろ」
朔がたしなめる。
「とても演技には見えない。脈も呼吸も乱れてるだろ。……あんた、名前も分からないか?」
女は首を横に振った。
名前を探そうとすると、激しい頭痛がした。
「……そうか。まあ、焦ることはない」
この中で、男だけが優しい視線と声を向けてくる。
「治療を続けよう。さ、水分補給だ。吐き気がなければこれを自分で飲んでほしい」
朔が差し出したのは、美しいガラスの工芸品だった。
平たい急須から細長い管が伸びたような、見慣れぬ形をしている。
女はその中身に目を奪われた。
陽の光を透かして輝く、高貴な葡萄色。まるで宝石を溶かしたような紫の液体が、ちゃぷりと音を立てる。
「飲んでくれ。身体に染み渡るから」
女は、この男を信じることにした。
この男が自分を助けてくれたから、今、自分は生きているのだろう。
いずれにしろ、重傷を負い、記憶もなくなっている今の自分には、初めて会ったこの男くらいしか頼れるものがなかった。
女は長く伸びた口を唇に添えた。
寝ながらでも飲めるような形をしていることから、この男が、自分が意識がない間も看病をしていてくれたことが窺い知れた。
紫色の水は、渇ききった身体へ吸い込まれるように、驚くほどスムーズに流れ込んできた。
(甘い……いや、これは)
甘くて、酸っぱくて、ほんのりしょっぱい。
不思議な味だった。
しかし、一口飲んだ瞬間、女は目を見開いた。
――生き返る。
頭の中で、そんな声が響いた。
乾ききった砂漠に雨が降るように、その液体は胃から全身へ瞬く間に駆け巡る。
足りないものが的確に補充されていく感覚。
萎びていた細胞の一つ一つが潤いを取り戻し、悶々とした、燃えるような熱が引いていく。
痺れていた指先の感覚が戻り、霞んでいた視界が鮮明になる。
(ああ、私は生きている)
たった一杯のこの水が、命を力付くで繋ぎ止めてくれた感じがする。
彼女は一気に飲み干し、ふうっと深く息を吐いた。
「よし、吐き気は出てないか」
こくり、と女は頷いた。
先ほどと違い、女の目からは、わずかに垣間見えた朔への疑いの色が消え去っていた。
「なら、次はこれだ」
朔は満足げに頷くと、今度は湯気の立つ椀を手に取った。
「消化にいい流動食だ。これを口にできると、ぐっと良くなるはずだ」
差し出された匙を見て、女は戸惑った。
それは、粥だった。
朔は、「白米」を使い、とろとろになるまで炊き上げていた。
そこに合わせたのは味を染み込ませた「豚肉」だ。
豚肉は生姜と共に煮込んで臭みを消し、繊維が解けるまで叩いてある。
仕上げに「溶き卵」を回し入れ、栄養価と口当たりを高めていた。
大陸との交易で手に入れた貴重な「花椒」もほんの少し、隠し味として加えてある。
見た目は、洗練された宮廷料理だ。
漂ってくる香りも、彼女の本能を揺さぶった。
女はおずおずと口を開け、粥を含んだ。
瞬間、目が見開かれた。
とろりと煮込まれた白米の甘み。
ふわふわの卵が包み込む、凝縮された豚肉の旨味。
これが……米?
私の知っている米は、もっと赤黒くて、ボソボソとしていた。
なぜこんなに白く、甘いの……?
そして。
(これは……)
鼻に抜ける爽やかな『花椒』の香り。
――ああ、知っている。
見た目は全然違う。
なのに、舌が、身体が、この『花椒』に染まった粥の味を覚えていた。
遠い昔。雪の降る夜。
父の大きな膝の上。
毛皮の匂い。
天幕の中で燃える火の暖かさと、外を吹き荒れる風の音。
『食え、食わねば強くはなれんぞ』
低い、けれど頼もしい父の声が蘇る。
大きくて、温かくて、誰よりも強かった父の手。
豚肉を羊肉に見立て、スパイスで記憶の味を再構築した「望郷の粥」。
それは彼女の魂に直接語りかけていた。
「……う……」
女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
頬を伝い、椀の中に落ちて波紋を作る。
自分でも訳が分からず、ただ涙が止まらない。寂しさと、懐かしさと、安堵が一緒くたになって押し寄せてくる。




