ヌナカワとクワトロピザ 前編
二月の海風はまだ冷たかったが、那の津(博多湾)の空は突き抜けるような青さに包まれていた。
だが、その青空を汚すように――いや、力強く塗り替えるように、海上の彼方から黒い煙が近づいてくる。
ドシュッ、ドシュッ、ドシュッ……。
規則正しい重低音とともに、港で待つ朔たちの前に現れたのは、船体の両脇に巨大な水車をつけた異形の黒船、「第二号蒸気船」であった。
その速度は、港で待ち受ける人々の度肝を抜いた。
水平線に見えたかと思えば、瞬く間にその巨大な姿を現し、白波を蹴立てて岸壁へと迫る。
「……速い。あまりにも速すぎる」
岸壁の最前列で出迎えの指揮を執っていた宰相タケヒコが、信じられないものを見る目で呟いた。
「……まさか本当に、昼餉の前に着くとは」
その隣で、朔は満足げに腕を組んでいた。
「あの船は風にも潮にも縛られないですからね。計算通りの到着ですよ」
やがて、蒸気船が汽笛――これも朔が真鍮で作ったものだ――を「ポーッ!」と鳴らし、ゆっくりと接岸してきた。
タラップが下ろされると、そこには兵士たちに守られるようにして、一人の女性が立っていた。
紫紺の衣を纏い、豊かな黒髪を結い上げた妖艶な美女。
越の国、飯塚を統べる女王、ヌナカワである。
彼女はゆったりとした足取りで降り立つと、出迎えたタケヒコ、そして朔の目の前で足を止めた。
「ようこそおいでくださいました、ヌナカワ様」
タケヒコが恭しく頭を下げる。
ヌナカワは扇で口元を隠し、艶然と微笑んだ。
「お久しぶりです、タケヒコ様。……それにしても、驚きましたわ~」
彼女の視線が、背後の黒い船と、それを作り出した朔へと流れる。
「朝、わたしの国の河岸を出て、まだお昼前……。まるで鳥にでもなって飛んできた気分ですわ。こんなに早く着くなんて、夢を見ているようです」
ヌナカワは朔に歩み寄ると、その距離を不自然なほどに詰めた。
甘い香油の匂いが朔の鼻孔をくすぐる。
「サク様。あなたの作ってくださったこの『翼』、とても気に入りました。早くて、船旅の疲れなど微塵も感じません」
彼女はそっと朔の腕に手を添えた。
その指先が、衣の上からでも分かるほど熱を帯びている。
「……光栄です、ヌナカワ様。石炭の輸送も順調のようで」
「ええ。ですが、石炭よりも……わたしは、今後この船であなたに会いに来られることのほうが嬉しゅうございます♡」
上目遣いで見つめる視線に、朔はたじたじとなる。
背後で、「ふんっ」という鼻息とともに、殺気のようなものが放たれた。
振り返らなくとも分かる。アカネだ。
そしてその横には、無表情を貫きながらも、鋭い視線を放つユズリハの気配がある。
「あー、コホン! ヌナカワ様……女王陛下が王宮でお待ちです。さあ、こちらへ」
タケヒコが慌てて割って入り、一行を誘導した。
◇◆◇◆◇◆◇
その夜。
邪馬台国の王宮、大広間にて歓迎の宴が催された。
松明の明かりが揺らめく中、上座には卑弥呼が、そしてその隣には賓客としてヌナカワが座している。
二人の女王が並ぶ姿は壮観だった。
神聖で冷ややかな美貌を持つ卑弥呼と、成熟した色香を漂わせるヌナカワ。
対照的な二輪の花が、この国の頂点に咲き誇っている。
「よくぞ参った、ヌナカワよ。そなたの国からの『黒い石』のおかげで、この冬、我が国はかつてないほどの温もりに包まれている」
卑弥呼が盃を掲げる。
「もったいないお言葉です、卑弥呼様。わたしのほうこそ、サク様……いえ、邪馬台国の技術のおかげでなんとか冬を乗り切っただけでなく、極楽の湯も見つかり、民も大層喜んでおります」
ヌナカワも優雅に盃を返す。
「ほう、湯が?」
「はい。湯の温かさのおかげで多くの民が冬にも負けずに過ごせました」
「それはそれは。なによりであったな。……さて」
一通りの挨拶が終わると、卑弥呼はパンと手を叩いた。
「さて、今宵はヌナカワ殿を歓迎し、我が国の『食』の真髄を味わってもらおうと思う」
その言葉を合図に、広間の入り口に十五人の男たちがずらりと整列した。
王宮料理人衆である。
その先頭、第一位の札を背負うのは、白い調理服を着た朔であった。
そしてその一歩後ろ、第二位の位置に甘んじているのが、かつての料理長オシヒトである。
オシヒトは、目の前に立つ朔の背中を、焼けるような視線で睨みつけていた。
(……おのれ若造。我がこの位置に立たされるとは……だが今日こそ!)
「ヌナカワよ。そなた、無類の『蜂蜜』好きだと聞いておるぞ」
卑弥呼の言葉に、ヌナカワが目を輝かせた。
「まあ、ご存知でしたの? はい、あの黄金の雫……。甘く、香り高く、舐めるだけで身も心もとろけるようですわ」
「うむ。そこでだ」
卑弥呼は十五人の料理人たちを見渡し、厳かに命じた。
「今宵の題目は『蜂蜜』である。ヌナカワが愛してやまぬ蜂蜜を使い、あるいは蜂蜜に最も合う、至高の料理を献上せよ」
料理人たちの間に緊張が走る。
オシヒトは、卑弥呼の命を聞くと、口の端を歪めて笑った。
(蜂蜜だと? ククク……神風が吹いたわ。あの若造は「科学」とやらで奇てらった料理を作るが、蜂蜜のような甘味の雅を解する心はあるまい。甘味こそは私の独擅場。今日こそ、この順位をひっくり返してやる!)
卑弥呼が続ける。
「なお、今宵も位の低い者から順に献上せよ。第一位のサク、そなたは大トリだ。期待しているぞ」
「はい」
朔が短く答える。
オシヒトは拳を握りしめた。
(最後が貴様か。ならば、その直前に私が至高の甘味を出し、貴様の料理など霞むほどにヌナカワ様の舌を支配してやろう)
「蜂蜜……か」
朔は小さく呟いた。
「あんた、どうすんのよ。蜂蜜なんて、甘いお菓子作るくらいしか能がないじゃない」
隣でアカネが小声で毒づく。
「いや、そうでもないのさ。蜂蜜は『香り』と『コク』の塊だ。使い方次第で、塩味を劇的に引き立てる最強の調味料になる」
朔の脳裏には、すでに一つの「円盤」が描かれていた。
現代知識を持つ彼だからこそ作れる、発酵と熟成の結晶である。
◇◆◇◆◇◆◇
厨房は戦場と化していた。
十五人の料理人たちが、それぞれの知恵を絞り、蜂蜜料理に挑む。
オシヒトは、厨房の最も良い場所を陣取り(そこだけは譲らなかった)、最高級の木の実や果物を集めていた。
(ヌナカワ陛下はかつてより、大の甘党で知られる。……ならば、ただひたすらにその甘さを崇め、高めることこそが正義!)
彼は木の実を砕き、蜂蜜と混ぜ合わせ、さらにそれを蜂蜜で煮詰めるという、甘さの多重奏を作り上げていた。
他の料理人たちも同様だ。
ヌナカワの発言を元に、ある者ははちみつを熱して固め、ある者は木の実や果物を蜂蜜で煮詰め、美しいコンポートを作り上げる。
どれも「蜂蜜=甘味」という常識の中にある。
だが、第一位である朔の作業台だけは異質だった。
彼が捏ねているのは、白い粉の塊――小麦粉の生地だ。
「おい、サク殿は何を作っているのだ? 饅頭か?」
他の料理人たちが、トップの座にいる男の動向を恐る恐る窺う。
「いや、平べったく伸ばしているぞ……」
オシヒトも横目でそれを見た。
(小麦を焼く? そんな無骨なものが、私の極上の菓子に勝てるわけがない)
「アカネ、窯の温度はどうだ?」
「ガンガンに燃やしてるわよ! あのコークスのおかげで、中の温度は地獄みたいになってるわ!」
朔が作らせた石窯は、コークスを燃料にすることで、無煙の摂氏四百度を超える高温を維持していた。
これこそが、朔の切り札の一つだ。
朔は伸ばした生地の上に、オリーブオイルを塗り、その上に「白い塊」を散らしていく。
そして――。
「うっ、なんか臭くない? これ、腐ってんじゃないの?」
アカネが鼻をつまむ。
朔が壺から取り出したのは、青緑色のカビが走る、強烈な刺激臭を放つチーズだった。
オシヒトは、その異臭に思わず調理の手を止めた。
(……正気か? 第一位の座にありながら、あんな腐敗物を出すつもりか!? やはりこやつは料理人ではない。ただの奇術師だ!)
オシヒトの心に、勝利への確信と、神聖な厨房を汚された怒りが渦巻く。
「これは『ブルーチーズ』といってね。数ヶ月かけて育てたんだ」
「うわぁ……信じらんない。サク、それを女王様たちに食べさせる気?」
「そうだよ。これこそが、蜂蜜の最高の恋人だと思っている」
「え~!? ホントのホントに?」
「保証するよ」
朔は四種類のチーズをたっぷりと乗せると、それをパーラー(ピザを乗せるヘラ)に乗せ、灼熱の石窯へと滑り込ませた。




