天下四分の大計
早春の柔らかな陽光が、隆中の山々に降り注いでいた。
凍てついた大地が緩み、梅の花が凛とした香りを漂わせ、百花が競うように芽吹きの準備を始めている。
董卓が洛陽を焼き払い、その暴政によって天子の威光が地に堕ちてから早や十年余り。
大陸はもはや一つの国としての形を失い、群雄が割拠する凄惨な修羅の庭と化していた。
北の果てでは公孫瓚が滅び、西の涼州では荒ぶる馬騰らが辺境を騒がせ、南の江東では夭折した小覇王・孫策の遺志を継いだ孫権が虎視眈々と勢力を広げている。
そして中原では、袁紹が大軍を南下させ、曹操がそれを迎え撃たんとする「官渡」の決戦が間近と言われ始めている。
こうして天下の命運が大きく揺れ動こうとしている、春。
荊州、隆中のとある庵の軒先では、早春の余寒を凌ぐための小さな炭火が熾され、串に刺さった数匹の川魚がじりじりと焼かれていた。
爆ぜる炭の音と共に、香ばしい匂いを孕んだ白い煙が、春の夜気の中をゆるやかに登っている。
一人の若者がその煙を見つめながら、傍らに置いた白羽扇を手に取った。
雪のように白い鳥の羽を綴り合わせたそれは、彼が思考を巡らせる際の欠かせぬ伴侶である。
名を諸葛亮。字は孔明という。
その端正な顔立ちには、若さに似合わぬ深い静寂と、万物を見通そうとする鋭い知性が同居している。
彼は優雅な手つきで羽扇を仰ぎ、立ち上る煙を払うように微かな風を送った。
「間もなく、官渡にて火蓋が切られる……袁紹は名門の権威に溺れ、曹孟徳は実を重んじて天子を擁す。此度は数に勝る袁紹と言えど、機微を捉える曹操に軍配が上がるであろう。なれば、のちの北の覇者は血筋ではなく理を解する曹操……」
低い、だが透き通るような声が静寂に落ちる。
その時、まるで彼の言葉を裏付けるかのように、北の夜空を一条の鋭い光が切り裂いた。
尾を引くように流れたその星は、中原の空で静かに、だが確かな重みを持って消えていった。
「……やはり、袁本初の星が落つ、か。古き権威に縋る者は、天の理からも見放される定めにあるよう。これで理は決した」
孔明は焼けた魚に視線を戻すこともなく、再び羽扇をゆっくりと動かした。その視線は、別の星域――流浪を続ける一人の男の宿星へと向けられた。
「それにしても、劉備。あの星の輝き方……やはり。今はまだ不遇の身なれど、大いなる天命を背負っておられると見てまず間違いはない。その高潔な志がいつか、確実にこの大地に根付くことになるか」
孔明の瞳には、地上を駆ける軍勢の土埃ではなく、天空の星々が描く運命の軌跡が、緻密な盤面のように映し出されていた。
「北に曹操、江南の険しき山河に拠る孫氏。そしてなるほど……袁紹ではなく、未だその身を窶している劉備か……ならば、あの方が峻険なる益州を安住の地とする……と」
孔明は羽団扇で夜空を指し示した。
「この三者が大陸を分かち、互いを牽制し合うからこそ、奇妙な均衡が生まれる。それは時を経て鼎の足のように安定し、民に安らかな休息を与えん。我が『天下三分の大計』にいっさいの誤りなし」
羽扇が優雅に空を切り、思考の澱を振り払っていく。
春の夜特有の、どこか浮き足立つような空気すら、彼の冷静な思索を乱すことはない。
『天下三分の理』は以前より孔明の頭にあった。
問題は、誰がその三角を成すのかということだった。
曹操、孫氏はおのずとその一角を形成しよう。
残る一つが誰か不明であったが、やっと確信に至った。
この星の形なれば、り……。
しかし、その動きはふと止まった。
「……む?」
孔明の眉が、鋭く跳ね上がる。
彼の視線は、大陸の東、遥か海を越えた先――「日出ずる方角」の星域に固定されていた。
本来ならば虚無であるはずの場所に、今までになかった「力強い光」が灯っていたのだ。
「どういうことだ……星が変わった?」
東の海にこれほどまで強く、明確な意志を持った輝きを放つ星は無かった。
「これは……」
孔明は真顔になり、羽扇を止めた。
現れた星は奇妙なほどに力強かった。
それは、古来よりの呪術や伝統、あるいは血脈に縛られた旧来の国家像をあざ笑うかのような、新しい時代の「理」の光。
「この位置は……」
星が示しているのは、東の海の只中にある国。
かつて漢の武帝が金印を授けたとされる、霧の彼方の地。
「……馬鹿な。倭国ですか」
孔明の頬を、汗が流れ落ちた。
彼の知る史書や地図の知識では、そこは豊かな自然に恵まれつつも、いまだ部族が乱立し、呪術的な王権が支配する未開の地であるはずだった。
我らの中原とは異なる、遅れた時の流れの中にいる低俗な国。
そんな国が……?
「これは……形が不吉すぎる」
孔明は目を細めた。
自分が描いた、針の穴を通すような緻密な未来図。
それを木っ端微塵にかき乱す「巨大な不確定要素」が、今まさに産声を上げていた。
孔明はすぐさま、その星を含めた星天が示す未来を占い直した。
目を閉じ、星々が繋ぐ複雑な理を紐解き、読み取る。
そして。
「なんと……いうこと……」
何度読み直しても、同じ結論。
新たに繋がった星の形では、己の描いていた『天下三分の大計』は、愚者の理と変わっていた。
代わりに、新たな星天は雄弁に語っていた。
『第四の胎動』を。
羽団扇を持つ手が震えた。
星天に現れしは、『天下四分の大計』。
それだけではない。
信じがたい、この星の形は……。
「まさか……倭が……すべてを呑み込む……?」
その仮説に辿り着いた瞬間、背筋が凍りつく。
夜風が冷たく彼の頬を撫でていた。




