生ハム柿と海鮮塩ラーメン 後編
彼らは昨夜あれほど食べたにもかかわらず、脂質ゼロ食だっただけに、すでに消化されつくし、血糖値が下がっているのだ。
しかも、突然の|大量に糖質が補充された日の翌日、身体はどうなるか。
安心した身体は低下していた基礎代謝を呼び覚まし、熱産生を抑制するのをやめ、活性を大きく上げるのである。
つまり、渇きの裏で、彼らはとんでもない空腹に陥っていたのだ。
甘さと塩気の黄金比によって、胃が完全に覚醒した。
隠れていた猛烈な「空腹感」が牙を剥き始めている。
朔はそんな彼らを丁寧に観察した。
彼らの目は、もはや死人のそれではない。
獲物を求める獣のようにギラついている。
(……皆完食したか。嘔吐感もなく、食欲がきちんと刺激されている)
彼らの二日酔いは軽症だ。
予想通り、不弥国の振る舞った酒のアルコール度数は相当に低かったということ。
ならば。
「少し待ってから、作戦2で行く」
朔は確信を持って宣言した。
「りょうかい~♡」
アカネたちが鍋に湯を沸かし始める。
「このまま、少しお待ち下さい」
焦らず、与えられた時間を有効に使う。
朔は水が排出され、タンニンを含めた栄養、ミネラルが彼らの身体を癒す時間をつくる。
体が整い、しきりにトイレに立つようになる、対馬の者たち。
そして、じっと待つこと一時間超。
皆の顔色が、はっきりと回復してきた、残り四半刻(30分)。
「そろそろいいですね。本番です。今の皆様の体が求めているものは、こちらです」
朔がパチンと指を鳴らすと、ユズリハやアカネ、侍女たちが湯気の立つ陶器の器を二十人分、手際よく並べた。
その瞬間、浜辺に「海」の香りが立ち込めた。
しかし、それは昨日の安芸のような生臭い磯の匂いではない。
幾重にも重なり、凝縮され、洗練された、黄金色の海の香りだ。
「なんと、これは噂に聞いた……メンとやらか?」
イサリビが目を瞠る。
透き通った黄金色のスープの中に、細く縮れた麺が泳いでいる。
その上には、アサリ、ハマグリ、そして大量のシジミが殻ごと乗せられ、彩りに桜色の小エビと、刻んだ浅葱が散らされていた。
「はい。『特製・海鮮塩ラーメン』です。冬の海でも取れる海産だけを使いました」
朔が力強く説明する。
「酒を大量に飲んだ翌朝は、体内で大事な栄養が空っぽになっていて、その一つが塩なんです。今、皆様が水を飲んでも満たされなかったのは、体が『塩』を叫び求めていたからです」
朔は陶器の器を指し示した。
「このスープには塩のほか、内臓の働きを劇的に助ける栄養も入れてあります。きっと美味しく感じると思います。さあ、まずはスープを一口」
イサリビは、本能に従うようにレンゲでスープをすくった。
黄金色の液体が、朝日を受けてキラキラと輝く。
一口、すする。
「――むおッ!!?」
衝撃が走った。
全身の血管を、熱い電流が駆け巡るような感覚。
貝特有の強烈な旨味と、キリッと効いた塩分が、乾ききった細胞の一つ一つに染み渡っていく。
シジミは「肝臓の薬」として古くから知られているが、その主役はオルニチンというアミノ酸である。
アルコールを飲むと、体内でアンモニアなどの有害物質が発生し、肝臓が疲弊する。
オルニチンは、肝臓内の「オルニチンサイクル」という解毒回路を活性化させ、アンモニアの分解を劇的に助けるのだ。
また、シジミに多く含まれるアラニンは、血中のアセトアルデヒドの分解を促進し、アルコールの代謝を有意に早める。
アサリ・ハマグリは、シジミとは違う角度から肝臓を助ける。
タウリンが胆汁酸の分泌を促し、肝臓の働きを強め、肝細胞の再生を助け、コハク酸は二日酔いで弱った胃を刺激し、胃酸の分泌を適度に促して食欲を復活させる。
さらにビタミンB12が肝機能の回復、倦怠感を軽減するのだ。
「くぅぅっ……! これだ……間違いない! わしが欲しかったのは、これだ!」
真水では決して得られなかった「潤い」が、ここにある。
イサリビは夢中で箸を動かした。
ズズズッ、ズズズッ!
かん水を使った中華麺のツルツルとした喉越し。
ズルズルとすする快感が、空っぽの胃袋を刺激し、脳内に快楽物質を溢れさせる。
「う、美味い……! なんだこれは、止まらん!」
「あぁ……塩気が……救われていく感じがする」
「シジミが……この小さな貝が、こんなに良い出汁を出すのか!」
「麺だ! 米ではなく、このツルツルした麺が、スープをさらに味わわせてくれている! 最高のご馳走だ!」
昨夜の不弥国の酒宴で失われた塩分、そして代謝で消費されたエネルギーが、これ以上ない形で補給されていく。
二十人の男女たちは、無言で丼にかじりつき、最後の一滴までスープを飲み干した。
「ぷはぁっ……! ラーメンとやら、最高だ……!」
イサリビが器を置くと、その額には玉のような汗が浮かび、顔色には精気が満ち溢れていた。
水っ腹の不快感は消え、心地よい満腹感と、芯から温まった充実感だけが残った。
空になった器を見つめ、恍惚の表情を浮かべるイサリビに、朔は静かに語りかけた。
「対馬の王よ。いかがでしたか?」
「ああ。最高だ。昨夜の酒も米も、この一杯のためにあったようなもの。今のわしの体は、この味を一生忘れないだろう」
朔は頷き、懐から一枚の図面を取り出した。
それは、港の桟橋に建てられた、美しい建物の設計図だった。
「では、この料理を出す『料亭』を、対馬の港に作らせていただけませんか」
「料亭……? 店を出すというのか?」
朔は力強く頷いた。
「はい。対馬の港には、大陸との往来で疲弊した船乗りや、宴会続きで二日酔いの商人たちが、毎日大勢立ち寄ります。彼らは皆、今の貴方達と同じように胃が疲れ、強烈な塩気と温かさを求めることでしょう。そこに」
朔は、イサリビの目を真っ直ぐに見据えた。
「この『癒やしのラーメン』を含めた、様々な料理を準備してお待ちします。今日は出せませんでしたが、美味しいお酒もご用意できますので、なんならそこで飲んで、そのままシメのラーメンまで可能です。……間違いなく、行列ができると思いませんか」
「……おお……」
イサリビの脳裏に、港に行列ができる光景が浮かんだ。
ただ船を停めるだけの殺風景な港ではない。
人々が「あの対馬ラーメンを食いたい」と言って集まってくる、活気あふれる黄金の港。
船がこれでもかと集まる。チャリーン。
人が料亭で飲み食いする。チャリーン。
イサリビの頭の中では、デフォルメ化された船と人がぐるぐると動き回り、金を落としていく絵がありありと浮かんでいた。
「我々邪馬台国に港の管理を任せていただければ、私が責任を持って料亭を建設し、この味を提供します。もちろん、『利益の5%』をお支払いする契約は、港の関税だけでなく料亭にも有効です。それも対馬国にお支払いします」
イサリビは息を呑んだ。
5%。
それは、単なる通行税のシェアではない。
この「悪魔的に美味いラーメン」を目当てに集まる客が落とす金、その5%だ。
(このラーメンがあれば、港は繁盛する……いや、爆発的に、対馬に人が来る。人口も増える……黙っていても、わしの国に莫大な富が転がり込んでくる……!)
安芸の魚は、冬になれば獲れなくなる不安定なもの。
不弥国の米や酒は、食えばなくなる一時的な施し。
だが、この「店」と「5%の権利」は、季節を問わず、孫の代まで国を潤し続ける「金のなる木」。
「イサリビ様、このメンがあれば……対馬国も住人が増えるのでは!」
民の一人が、目を輝かせて王に進言する。
イサリビは立ち上がり、頷くと、卑弥呼と朔の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「我が対馬の港の管理権、すべて邪馬台国にお任せする! すぐに料亭を作ってくれ!」
交渉成立に、「よっしゃあ!」とタケヒコが誰よりも早くガッツポーズを決めた。
そして、いつものように、卑弥呼とハイタッチを交わす。
「おのれ……!」
遠くで見ていた安芸の王が、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「くそっ、また邪馬台国にやられた! おのれ、おのれ、おのれぇぇぇ!」
「で、ではさっそくだが」
イサリビは、まだ口に残る貝出汁の余韻を惜しむように唇を舐め、慌てて付け加えた。
「……わし専用の席も、一番いい場所につくってくれ! 毎日食いにいく!」
タケヒコは嬉しい悲鳴を上げながら対応に追われ、アカネは「大繁盛間違いなしね! 忙しくなるわよ!」と不敵に笑い、ユズリハは静かに空の器を片付け始めた。
卑弥呼は扇の陰で、静かに、しかし満足げに微笑んでいる。
(サク……実に見事よ)
完全なアウェイ、最悪の時間帯、酒の禁止。
それら全ての悪条件を、「相手の生理的欲求(塩分と空腹)」を完璧に満たす一杯で、朔は見事にひっくり返したのだ。
安芸の海は穏やかに凪ぎ、新たな同盟の誕生を祝福するように、朝日が水面を黄金色に染めていた。




