お祭り練り歩き 後編
「サク! あれ! あれはパンだよね! あのフワフワの!」
アカネの次なる声に、一行はパンを焼く、「さく」印の粘土窯へと向かった。
そこでは朔の弟子の一人が、彼の「弥生エリート酵母β」と「女王の粉」で焼いた白いパンを売っていた。
「いらっしゃい! 宮廷料理人一位・サク様の特別な教えで作った、『塩バターパン』だよ!」
焼き上がった小さな丸いパンの表面には、彼が作った純白の塩が結晶のまま振りかけられている。
「おいしい! なにこれ!」
先んじて頬張るアカネに続き、卑弥呼がそれを一口かぶりついた。
サクッ、という軽やかな表面の歯ごたえ。
次の瞬間、じゅわっと。
パンの中に染み込ませてあった溶けたバターが、口の中に溢れ出した。
「やられた……」
卑弥呼がうっとりとする。
パンのふわりとした甘み。
バターの芳醇で背徳的な「コク」。
そして、表面の塩の鮮烈な塩味。
「……タケヒコ」
卑弥呼は目を閉じたまま言った。
「……私は、なぜこんなにバターが好きなのだろう」
「姉上。それは単にサク殿の料理がうまいからですよ」
タケヒコは自分の言葉の正しさを証明するかのように、両手に塩バターパンを持っていた。
「これはだめだ」
卑弥呼は相当気に入ったのか、数個お持ち帰り用に買っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
一行はその後も食べ歩いた。
今まで見た中で一番行列ができていたのは、猪の腸に肉と氷を詰めて「乳化」させた、あの『腸詰め』の炭火焼きであった。
一口かぶりつけば、パリッと張った薄い皮が心地よい音を立てて弾け、 次の瞬間、熱い肉汁が口いっぱいにジュワリと溢れ出す。
味だけではない。
人気の理由は、民に味を知ってもらうために格安にしてあること、さらに持ち帰り用の塩とソーセージを無料で渡していることである。
民が集まってくることを想定し、屋台はかなり大きいものを設置されており、配置されている侍女も多かった。
「よく洗った手で、あればきれいな雪を少し混ぜて、冷たくして練るんです」
数人の侍女が、その腸詰めの作り方をひとりひとり丁寧に教えている。
塩がない生活を長らく送っていたせいか、訪れている民の多くは腸詰め自体を知らなかった。
「これで少しは広まってくれるといいな」
朔が独り言のように呟く。
「まったくだな」
ユズリハから返事が来ると思いきや、応じたのは卑弥呼だった。
朔が生み出した「知恵」が朔の手を離れ、民の手によって新たな「食文化」として花開いている光景は、朔にとってはもちろんだが、卑弥呼にとっても感動的なものだった。
夕闇が迫り、空が茜色と群青色の混ざり合う幻想的な色合いに染まる頃。
門前町には次々と篝火が灯され、祭りの熱気はいよいよ最高潮へと向かっていた。
ドンドンドン、と腹に響く太鼓のリズム。
それに呼応するように、ピーヒャラと軽やかな笛の音が夜空へと舞い上がる。
広場の中央では、誰彼ともなく踊りの輪ができ始め、民たちは食べ物を片手に、笑い合いながら体を揺らしていた。
かつてのような、明日への不安に怯える顔はどこにもない。
一行は熱気に満ちた人混みを避け、少し小高い場所にある神社の石段に腰を下ろした。
ここからは、眼下で揺れる無数の篝火と、笛太鼓に合わせて踊り楽しむ人々の姿が一望できた。
「……良い眺めだ」
卑弥呼が、ふぅ、と息をついた。
その手には、先ほどサクが最後に買ってくれた棒菓子が握られている。
「はい。皆さん、喜んでくれていましたね」
朔が指示され、卑弥呼の隣に座り、同じ景色を見つめる。
そばに座るアカネは、買いまくったお菓子を食べるのに夢中。
タケヒコは少し離れた場所で、ハヤトとともに警護にあたっていた。
ユズリハもまた、彼らの背後の木陰に身を潜めるようにして立っていた。
「……サクよ」
卑弥呼が、静かに口を開いた。
「私は、ずっと怖かったのだ」
「……え?」
「王として、民を導かねばならぬ。だが神託とは名ばかりの、不確かな予言に頼るしかなかった。いつか民を飢えさせ、国を滅ぼすのではないかと……夜も眠れぬことがあった」
卑弥呼は自らの弱さを吐露するように、ポツリポツリと語る。
それは女王としてではなく、一人の少女としての素顔だった。
「だがそなたが現れてから、すべてが変わった。塩も、鉄も、そしてこの美味しい料理も。そなたは私の迷いを晴らし、この国に確かな『光』をもたらしてくれた」
卑弥呼はサクの方を向き、篝火に照らされた瞳で彼を真っ直ぐに見つめた。
「礼を言うぞ、サク。そなたがいてくれて、私はまるで素晴らしい統治者のようだ」
その笑顔は今まで見たどの宝物よりも美しく、輝いていた。
朔は穏やかに微笑み返した。
「私が居なくとも陛下は最高の統治者ですよ。それに、陛下が信じてくださったからこそ、私もこうして力を尽くせるのです。この景色は、陛下が作られたものですよ」
二人は互いに見つめ合い、自然と笑い合った。
そこには、王と家臣という関係を超えた、深い信頼と、誰にも踏み込めない温かな空気が流れていた。
タケヒコやお菓子を頬張るアカネもまた、その温かい空気の中に包まれている。
眼下の広場からは、民衆の歌声と手拍子が聞こえてくる。
その幸せな喧騒が、彼らを祝福しているかのようだった。
木陰で、ユズリハは言葉を発さずに立っている。
彼女の位置からは、卑弥呼のその美しい横顔がよく見えた。
輝くようなその笑顔と、それを優しく受け止めるサクの眼差し。
そしてその周りには、家族のように安らぐ仲間たちの姿。
それは、まるで一枚の絵画のように完璧で、美しかった。
(……ああ、そうか)
ユズリハの胸に、冷たく、けれど澄み切った感情が落ちてきた。
自分は、ずっと朔のことが気になっていた。
彼の作る料理に心を洗われ、彼の人を思いやる生き方に惹かれていた。
もしかしたら、いつか自分もその隣に並べるのではないかと――そんな淡い夢を、心のどこかで抱いていたのかもしれない。
だが今、目の前の光景が、残酷なまでの真実を突きつけていた。
(あの方の隣に立つのにふさわしいのは、私ではない)
ユズリハは、自らの手を見つめた。
日々武器を握り続け、硬くなった掌。
そこには数え切れないほどの戦いの記憶と、誰かを傷つけた感触が染み付いている。
私の手は、人を斬るための手だ。
けれど、サクの手は……。
彼女はサクの手元を見た。
その手は、美味しい料理を作り、人を生かし、卑弥呼を、そして国中の民を笑顔にしている。
(光をもたらす者の隣には、光を受け止める者がふさわしい。……影に生きる私が、望んでいい場所では――)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
それは失恋と呼ぶにはあまりに静かで、けれど確かな「諦め」だった。
「……ユズリハ?」
ふいに、朔が振り返った。
「そこにいるのか? ユズリハも、こっちで一緒に座らないか」
その屈託のない優しい笑顔が、今はひどく眩しく、そして遠い。
ユズリハは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐにいつもの冷徹な仮面を被った。
影から一歩も踏み出さず、彼女は短く答える。
「……いや。私は、ここでいい」
「おいでよ。美味いぞ」
「いい。……それに」
ユズリハはほんの少しだけ、その瞳を細めた。
哀しみを含んだ、けれど慈愛に満ちた眼差しで、卑弥呼と朔を見つめる。
……その場所は、貴方たちによく似合っている。
その声は祭囃子にかき消され、誰にも聞こえなかったが、彼女にとっては自分自身への誓いの言葉でもあった。
「ユズリハ? どうかしたのか」
朔は不思議そうな顔をし、立ち上がろうとしたが、卑弥呼に話しかけられ、再び前を向いた。
二人の笑い声が、夜空に吸い込まれていく。
ユズリハは、剣の柄を強く握りしめた。
この痛みだけが、自分に残されたものだと言い聞かせるように。
私は影でいい。
この美しい光が、いつまでも曇らぬように。
誰よりも鋭い剣となって、彼らの幸せを守り抜こう。
祭りの灯りが揺れる中、ユズリハはその想いを夜の闇へと溶かしていった。




