八、笑う狐
「待て!!」
後ろから聞こえてきた怒声を夜雨は無視した。
足を止めようとした白雨を睨んで、歩く速度を上げる。
「待てと言っているだろ!! 夜雨!!」
「そう言われて、誰が待つものか!」
柊の不調もあってか、今宵の和笑亭の客入りは少ない。
普段ならば、あちらこちらの部屋で宴会が催されている時間だが、数室ある宴会場は静かに夜の波に揺られていた。
「こっちだ」
夜雨の手を引かれたまま、白雨は彼の後に付き従った。
そうしなければ、兄は自分を抱えて今にも走り出してしまいそうだったのである。
「……何だか、昔を思い出しますね」
不意に白雨が言った。
ちら、と横目で彼女を見れば、深紅の眼は懐かしい光を孕んで夜雨を見つめた。
「屋敷の中を、逃げ回ったときか?」
「ええ。有明様が楽しみにしていた菓子を知らずに食べてしまって、二人で追い回されたでしょう? 覚えていたのですね」
「まあ、な」
今は考えられないが、子供の頃は白雨とよく一緒になって悪戯をしたものである。
当時のことは今でも鮮明に覚えていた。
昔の思い出に浸りながら、音を殺し、俊敏な動きで廊下を走る猫二匹に、有明は深い溜め息を零した。
流石、夜一の子供である。
力を抑えられているとはいえ、的確な足運びでグングンと自分との間に距離を開いていく。
だが、こちらも負けてはいられない。
大人げないと言われるだろうが、一刻も早く白雨と言葉を交わしたかった。
「……変化!!」
白い煙を辺りにまき散らしながら、有明はその身を本来の姿へと変化させた。
金糸雀色の美しい獣が、少し先で揺れる白髪を捉える。
「大人げないぞ!!」
夜雨から上がった非難の声を、有明は無視した。
こちらを凝視する白雨を目指して、床を蹴る。
その脚は百里を駆け、天を走る。
狐妖怪の中でも一目置かれる種族『九尾狐』、それが有明だった。
九つの尾を揺らし、瞬時に間を詰めた有明に夜雨と白雨は面食らった。
「ガウッ!!」
低い唸り声を上げて、有明は夜雨の手中から白雨を攫った。
彼女を口で軽く咥えると、近くの窓を突き破って外へ飛び出す。
今の夜雨では彼に追いつけない。
空に攫われた妹を呆然と見送りながら、本日何度目になるか分からない溜め息を吐き出すのであった。
暫く空を駆け、開けた場所を見つけると、有明はゆっくりとそこに着地した。
そっと、彼女を地面に下ろせば、何とも言えない表情を浮かべて、こちらを睨んでいる。
「……」
「えっと……」
連れ出したのは良いが、どう切り出せばいいのか分からない。
夜空に浮かぶ月が、有明の榛色の眼を柔く照らした。
「……貴女が俺のことを好いてくれているのは知っています。ですが、俺と貴女では身分も違えば、種族も違う。一緒になることは難しいのです」
一息にそう告げると、白雨は有明から視線を逸らした。
きらり、と光った涙が、眦を伝って地面へ滑り落ちる。
「それは、燕小父様のご子息にも言えることでしょう?」
「燕様には少量ですが猫又の血が流れています。けれど、俺は違う。生粋の狐です。……子を成せる確率は燕様のお家の方が遥かに高いんですよ」
一緒になれば、きっとその先が欲しくなるはずだ、と安易に告げられて、白雨の頬がカッと赤くなった。
誰だって好いた人の子供を産みたいに決まっている。
けれど、違う種族間の間で子を成すことは極めて難しかった。
万に一つ身籠ったとしても、生まれて数日で赤子が命を落とすことも珍しくはない。
「……それに、貴女は勘違いしているだけだ。幼い頃からずっと近くで見てきた男に抱いた『憧れ』を『恋』だと、」
「――違う!!」
白雨は泣きながら叫んだ。
先程から黙って聞いていれば、好き勝手に言葉を紡ぐ男に、我慢は限界だった。
「私の周りには、色んな組員が居たことは貴方が一番よく知っているはずです! それを、言うに事欠いて!! 私が想いを告げたあの日、貴方はきっと私に失望したでしょうね! 何て馬鹿な女なんだと!! そんなこと、私が一番分かっています! でも、血塗れの貴方を見たとき、思ってしまった! この人は戦の中でしか、生きられない人なのだと。そう思ったら、途端に怖くなった! 貴方は何も言わず、ただ父の指示に従って自ら戦禍の中に飛び込んでいく。今、伝えなければ。戻ってこなかったとき、きっと後悔する。だから、私は……っ!!」
美しい顔が見る影もなく、ぐしゃぐしゃになって、崩れ落ちた。
声を殺して泣く白雨に手を伸ばそうと、有明は人型に姿を戻す。
「お嬢」
「……あっちへ行って。その気もないくせに、どうしてそうやって優しくするの!」
鋭い音を立てて、有明の掌は弾かれる。
受付の時よりも強かな痛みを覚えたそれに、有明の眼がスッと細くなった。
「貴女は、夜一様の、俺の命の恩人が何よりも大切にしているお嬢さんです。そんな美しい花に優しくするな、と言うのは無理があります」
努めて優しい声を作りながら、有明は白雨と目線を合わせるためにそっと跪いた。
グッと唇を引き締めて、自分を睨む少女に、肩を竦める。
「貴女は極道の娘にしておくには勿体ないほど、優しく、美しい。だからこそ、誰よりも幸せにならなければいけない」
「……」
「こんな狐のことはどうぞ忘れてください」
パシン、と乾いた音が有明の頬を打った。
「忘れられるのなら、とっくにそうしてます! でも、無理だった! どんな殿方と過ごしても、貴方のことが瞼に浮かんでくる。あの日、迷子みたいに視線を揺らして、私の恋心を殺した貴方が、頭から離れないんですもの!!」
有明は驚きに目を見開いた。
そんな顔をした覚えはなかったのだが、彼の眼前で言葉を受け取った白雨にはそう見えたらしい。
「それは、その、」
「……責任を取ってください」
「え」
「このままだと、私は一生祝言を上げることが出来ません」
「いや、あの、お嬢?」
言っていることがめちゃくちゃである。
酒でも飲んでいるのかと言いたくなるほどに、白雨の気は昂っていた。
「一度くらい、私のお願いを聞いてくれてもいいじゃありませんか」
拗ねたようにそう言った白雨の顔は、幼いそれとそう変わりなくて、思わず微笑みそうになるが寸でのところで堪える。
話している内容が全くもって笑えないのだ。
どうしたものか、と狼狽える有明に、白雨の手が伸びた。
「私に幸せになれと言うのなら、貴方が隣に並んでください」
でなければ、私は幸せになれません。
ぶるり、と全身の毛が震えた。
こんな殺し文句は今まで聞いたことがない。
まいった、と有明は両手を上げて観念した。
観念して、白雨の腕に捕まる。
「……もっと他に良い男が居ただろうに」
「私には貴方以上に良い男を見つけられる自信がありません」
抱きしめた彼女から、淡い梅の香りがした。
ふわり、と優しく匂い立つ香りを堪能しようと、首筋に鼻先を埋める。
「有明様」
「んー?」
「好きです」
柔らかに微笑んだ白雨に、有明は息をすることも忘れ、見惚れた。
「……俺も。好きですよ」
そっと啄んだ桜色の唇は甘く、有明の唇に馴染んだ。
「…………すみません」
地面に額を擦りつける勢いで頭を下げた有明に、燕はくつくつと喉を逸らして笑った。
「やっと、くっついたか」
「へ?」
「馬鹿な男だねぇ。俺の倅はまだ五つだ。嫁を取るには早すぎるだろうが」
「なっ!?」
ばっ、と隣に立つ白雨の方を見れば、彼女はばつが悪そうに苦笑した。
「……最初から親父とグルだったのか」
「ええ、まあ」
「白雨!!」
有明の怒鳴り声に、白雨は思わず燕の背中へ隠れた。
「まあ、そう怒ってやるなよ。多少は強引だったが、ずっと白雨のことを避けていたお前さんにも非はあるぜ?」
それを言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
言葉を詰まらせた有明に、燕は自分の背に隠れている白雨をそっと押しやった。
「小父様?」
「後は若い二人で楽しみな。俺ぁ、梅ちゃんのところで飲み直してから帰るからよ」
「あ、あの」
「じゃあな」
ひらひらと片手を振って、明かりの消えた仄暗い廊下に燕の姿が溶け込んだ。
それを無言で見送ると、白雨はちら、と有明の姿を見遣る。
「……怒ってます?」
「少し、な」
ぐい、と柳腰を捕まえて、有明は白雨の首筋に柔く噛みついた。
「う、え?」
噛まれた場所に触れ、白雨はあわあわと唇を震わせた。
猫が首に噛みつくのは、交尾をしたいとき。または交尾中に相手が逃げないようにするときだけだ。
「だめか?」
榛色の眼に、ゆらりと炎が浮かんだ。
だめか、と優しい声で言っておきながら、拒ませる気などさらさらないくせに。
「相変わらず、狡い人」
逞しい狐の首に手を回すと、彼はくつくつと喉を鳴らした。
「でも、そんな俺が好きなんでしょう?」
今度は白雨が言葉を詰まらせる番であった。




