九、夜桜
ぷかり。
ぷかり。
もくもく、と煙を唇から吐き出しながら、男はすっと目を細めた。
夜を溶かしこんだような黒髪と燃えるように赤い眼が、月を睨みつける。
「冷えますよ」
凛とした声に、男はそちらを振り返った。
見れば、淡い水色の髪を下ろした男の妻が、険しい顔で男を見ていた。
「どうした?」
「どうした、ではありません。また夜輝殿が膳をひっくり返したんですよ? 今月に入って三度目です。まったく、下女を宥めるのも大変なんですから……」
疲れたように溜め息を吐き出した妻に、男は咥えていた煙管を置いた。
煙が上っていく様を暫く眺めて、困ったように顎へ手を添える。
「アレがああなってから、もう十年か。早いものだな」
「ええ」
「そう言えば、倅の姿が見えんが、またどこぞの妓楼に引き籠っているのか?」
「それが、お梅のところで世話になっているようで。白雨の方から便りが届きました」
「ほう。あの坊がお梅の旅館で働いているのか」
「そのようです」
夫婦は互いの眼をじっと見つめ合うと、どちらからともなくドッと噴き出した。
「面白い。どのような働きぶりか、見に行ってやろう」
「あら。貴方だけ狡いですよ。私も参ります」
妻がゆるり、と微笑む。
男は色白い妻の掌にそっと己のそれを重ねると、互いの体温をゆっくりと分け合った。
繁忙期を控えた和笑亭は一週間ほど休館する。
理由は半年に一度行う温泉と厨房の大掃除のためだ。
勿論、毎日の掃除も欠かしてはいない。
だが、繁忙期になれば掃除もままならない日がある。
その前に、粗方の汚れを落としてしまおうと言うのである。
「ほな、皆よろしいな? 自分の持ち場を徹底的に掃除してや! ちょっとでも埃が残ってたら晩飯抜きにするで!」
梅の号令に一同(ほとんどは柊の式神である)が手に手に掃除道具を持って、持ち場へと駆け出す。
柚月に割り振られたのは中庭と大広間だ。
不知火と一緒に雑巾と桶、箒を持ってそちらへ向かおうとした彼女の細腕を、夜雨が捕まえる。
「俺もそっちがいい」
「湯の花磨くのに力要るから露天頼むで、ってばあちゃんに言われてたやろ」
「……」
「それに大広間の方が、畳の乾拭きあるからしんどいで?」
びっしりと敷き詰められた約三十枚ほどの畳を思い出して、夜雨は柚月の腕を離した。
「チッ」
「ほな、また後でな」
精々気張りや、と夜雨の背中を叩く。
紅の眼に睨まれるより先に柚月は先に駆け出した不知火の後を追った。
「ゆづき! しらぬい、そとおそうじする!」
「はいはい。気ぃつけて、持ちや」
「うん!」
身の丈以上の箒を手に不知火が、中庭を汚す落ち葉を退治に掛かる。
その様子を微笑ましく見つめながら、柚月も自分の仕事に取り掛かった。
「ああ~! 気持ちええ~!!」
ぐい、と両腕をめいっぱい伸ばした柚月は、夏の香りを纏う夜風にほう、と溜め息を吐き出す。
夜雨が丹念に掃除をした露天風呂は、掃除を終えた従業員がすぐに汚れを落とせるように、と梅の計らいで湯が張られていた。
生憎、柚月は一番乗りではなかったが、先に風呂に浸っていた柊と共に談笑しながら、掃除の疲れを癒した。
「それにしても、ピカピカやね」
「夜雨が頑張ったみたいやで。何か知らんけど、途中から楽しなってきたらしくてな。男風呂の方も手伝いに来たって有明が言うてたわ」
「え、有明兄ちゃんも来とったん?」
「午後からやけどな。白雨と二人で手伝いに来てくれたんよ」
「白雨さんも?」
柚月は意外な名前を聞いて目を丸くした。
芸妓の仕事が忙しいだろうに、と思ったことをそのまま口にすれば、柊の顔がにやりと人の悪いそれに変わる。
「それがなぁ。有明と祝言上げるから、見世にはもう出えへんのやと」
「え、ええ!?」
「びっくりするやろ? 詳しいことは聞いてへんから分からんのやけど、この前来た時になんかあったみたいやわ」
ふふ、と弟の祝言を喜ぶ彼女に釣られて柚月も笑みを浮かべる。
「あんなに仲悪そうやったのに、意外やわぁ。何があるか分からへんもんやね」
「せやねぇ。空き部屋出来た言うても誰かさんの部屋から動けへん猫も居るし……」
「……」
一気に冷めた表情になった柚月の変わり身の早さに、今度は柊が笑う番であった。
カラカラ、と笑い声を上げる彼女を恨めしそうに睨めば、湯気を含んでしっとりと重みを含んだ髪を柔く撫でられる。
「あの子も昔から難しいさかいなぁ。堪忍したってや」
ピン、と弾かれた額を抑えて、柚月は腰を上げた。
そろそろ上がらないと湯あたりを起こしてしまいそうだったのだ。
薄っすらと湯の温もりで赤みを帯びた頬を手団扇で仰ぎながら、脱衣所の方へと向かう。
扉に手を掛けたところで、向こう側に人影が見えた。
今宵は従業員しかいないため、食事や配膳のことを気にしなくていい。
皆、張られたばかりの真新しい湯船に浸かりたいのだろう。
ひっきりなしに出入りが繰り返されていたのを思い出して、そっと脇に身体を逸らす。
「あ?」
扉から現れたのは、珍しく髪を一つに結った黒猫だった。
「!?」
悲鳴を上げそうになった柚月の口を夜雨が片手で塞ぐ。
もう一方の手は腰に巻いた手拭いを抑えていて、視線だけが岩陰に隠れろ、と焦ったように動いていた。
「な、何してんよ! ここ女湯やで!」
「暖簾は男湯だった!」
「脱衣所に誰も居らへんかったん?」
「ああ。運良く誰も居なかった」
暖簾を入れ替える者など、柚月には一人しか心当たりがなかった。
「有明兄ちゃんの仕業や」
「何!?」
「前にうちもされたことあんねん。従業員しか入れへん時間にな。そん時は誰も入ってなかったから何も騒ぎにはなれへんかったけど……」
だが、現状は違う。
露天風呂には柊の他に、彼女の式神である狐の娘たちが数名浸っていたはずだ。
短気が売りと言ってもいい柊に知られでもしたら大変なことになる。
「とりあえず、前かがみになって胸から下、手拭いで隠しよ。うちが先に行って、誰も入って来てへんか見てきたるから」
「正気か、お前! こんな物騒なところに俺を置いていくと言うのか!」
「そんなん言うてもしゃあないやろ! アンタが変化できる言うんやったら話は別やけど!!」
あくまで小声での応酬である。
声にはならない叫び声を上げると夜雨は不本意だと表情で雄弁に語った後、その姿を子猫へと変えた。
「今の妖力ではこれが限界だ。誰かに見られる前に、早く連れて行け」
低く唸りながら、夜雨は柚月を睨んだ。
柚月はと言えば、白い石が敷き詰められた床の上にちょこんと鎮座する黒猫に、思わず黄色い声が上がりそうになるのを必死に堪えていた。
「どうした? 早く抱き上げろ」
「へあ?」
「何を腑抜けた顔をしている。自分で言うのも何だが、こんな子猫が館内を歩いていたら不審に思われるだろうが」
「な、なるほど」
確かに柚月が迷いこんできた風を装って猫を抱きかかえている方が自然である。
こういう悪知恵を働かせると右に出る者は居ないな、と柚月は苦笑しながら彼を抱き上げた。
そっと、出来るだけ物音を立てずに、脱衣所の中へ滑り込む。
幸い脱衣所には誰も居なかった。
ほっと、安堵の溜め息を吐こうとした柚月の耳に、無情にも扉の開く音が届いた。
「あら、柚月さん。こんにちは」
廊下から脱衣所に続く扉から現れたのは夜雨の妹である白雨だ。
「こ、こんにちはぁ。今日は手伝ってもらったみたいで、おおきに」
努めて、笑顔に振舞うが、腕の中に居る夜雨の身体が僅かばかりに強張るのが分かった。
「どうかしたんですか?」
「あ、いや。そこで濡れてる猫を見つけてな。多分、通りから入って来たんやと思うんやけど……。今、皆入っているし、玄関から外に出したろうかなと思って」
「あら、そうでしたか。すみません。呼び止めてしまって」
「ううん。ゆっくり入って、疲れ取ってなぁ」
そっと夜雨の視線を辿り、彼の着物が入った籠の近くへ自分の着物を置いた。
夜雨に見えないように細心の注意を払いながら、素早く着替えを始める。
白雨はそれ以上、柚月と会話を交わすことはなかった。
手拭いを一枚持って、柚月に一瞥を寄越すと、露天風呂の方へ歩いていく。
今度こそ、安堵の溜め息を吐き出した柚月は、再び誰かに遭遇する前に、と慌てて脱衣所を出るのであった。
「あ、危なかった……!」
脱衣所から離れ、空き部屋に駆け込むと柚月は夜雨の着替えを渡して、その場にへたり込んでしまった。
「まったく……。あの狐には毎度、手を焼かされる」
珍しく疲れた様子で溜息を零したように柚月は苦笑した。
「何や、珍しい。アンタやったら、『女人の裸、見れる』言うて喜ぶ思ったんに」
「どういう意味だ」
「そのまんまの意味ですけど?」
襟を整えた夜雨の眉間に皺が寄った。
彼の着替えが終わるまでずっと背中を向けていた柚月は、夜雨が近付いてきていることにも気が付かなった。
ひたり。
項に触れた骨張った指先に、柚月の喉がひゅっと鳴る。
「な、なに?」
柚月の項には、夜雨が、そして数多の妖怪が求める『楠』が封じられている。
夜雨の首を戒めている鈴がちりん、と可愛らしい音を奏でた。
「柚月」
低い、男の声が柚月の耳朶を打つ。
「だ、から、何って言うて……」
するり、と合わせから差し入れられた手に、柚月は悲鳴を上げた。
「ぎゃ!?」
「……色気のない声を出すな。萎える」
「い、いろけ!? ちょ、待っ! な、何しようとしてるねん!!」
悲鳴も、制止も、何のその。
夜雨は彼女の肌に触れる手を止めることはなかった。
薄い襦袢越しに伝わってくるぬるい体温に、三日月の形になった眼を少女に向けた。
「いやか?」
「え……?」
「いやか、と聞いている」
炎のように真っ赤に燃える瞳に、柚月は抵抗することも忘れて見惚れた。
その内、ゆっくりと近付いてきた夜雨に気付かず、唇を塞がれる。
甘い、果実の味が咥内を満たした。
「ん、ふ……っ」
「逃げるな。口を開けろ」
「ま、って」
抗議のために開いた口を幸いと、夜雨の舌が割入ってくる。
「あ、んっ」
甘ったるい声が耳に響く。
それは紛れもない自分の声で、柚月は羞恥で頬が熱くなるのが嫌でも分かった。
舌を絡めとられている所為で息が上手くできない。
ドン、と胸板を叩くと、漸く夜雨の身体が離れていった。
だが、その瞳は「物足りない」と言わんばかりに、ぎらぎらと光っていて、背筋をぞわりとした何かが駆け抜けていく。
「な、んで、いきなりっ! こんな!?」
ぜえぜえ、と息も絶え絶えに言う柚月に、夜雨はスッと目を細めた。
「腹が立った」
「はあ!? 何に!?」
「俺は、お前のことしか見ていないのに。お前はまったく俺のことを見ようとしない」
「なに、言うて」
「逃げるなよ、柚月。もう随分前から気が付いているんだろう? 俺が女子遊びを止めて、お前を見ていることに」
「!」
赤い眼は、柚月をその場に縫い付ける。
ぴしり、と固まった眼前の少女に、夜雨は喉を逸らして笑った。
「さっきの接吻もそうだ。嫌なら避けるなり、平手を打つなり出来ただろう? だが、お前はそれをしなかった。何故だ?」
「そ、れは」
「それは?」
「~~っ!!」
にやにやと笑いながら近付いてくる夜雨の顔に、柚月は全身がカッと熱くなった気がした。
何か弁解をしなくてはいけないはずなのに、今すぐこの部屋から逃げたしたくなる。
逃げ出してしまおうと、襖に伸ばした手に、夜雨の大きな掌が重なる。
後ろから抱きすくめられているのだ、と思うと、もう駄目だった。
夜雨がくつくつと笑う声が頭のすぐ上で響く。
「まあ、良しとしてやる」
「なにが」
ちゅっ、と可愛らしい音が旋毛に落ちる。
「ごめんください」
救世主だと言わんばかりに、柚月は夜雨の身体から身を捩って抜け出した。
這う這うの体で己から逃れた彼女を見て、夜雨がまたからからと笑い声を上げる。
普段なら廊下を走るようなことはしないのだが(客の手前、梅に物凄く怒られるのである)、今日は休館日なので気にすることはない。
ドタドタ、とほとんど大股で玄関まで走り、息も絶え絶えに扉を開けた柚月は目を剥いた。
黒い紋付の袴を着た、夜を思わせる短い黒髪と赤い目の男がそこに立っていたからだ。
先ほどまで自分をその腕に抱いていた夜雨と瓜二つの顔が、柚月を真っ直ぐに見つめている。
「桜?」
男の口から放たれた名前に、柚月の顔からサッと色が失せる。
ゆっくりと彼女の後を追ってきた夜雨は、玄関に立つ男と柚月の表情を見て、唇を尖らせた。
「何をした、親父殿」
「いや、知り合いの娘によく似ていたのでな。声を掛けたら固まってしまった」
珍しくしおらしい様子の父親を他所に、夜雨は柚月の肩をそっと揺すった。
「大事ないか?」
「……っ!」
声にならない声で泣く柚月に、夜雨は息を呑む。
この少女がそんな風に泣いているところを見たのは初めてだった。
どうしたら良いのか分からず、父親から彼女を隠すように腕の中へしまい込む。
ぎゅっと掴まれた襟元に、素直に喜ぶことは出来なかった。




