009「ノアとクルーの日常」
グングニル号がメダリアの港を出帆し、ささやかながらも盛大な歓迎の宴が催された翌日。
――ギシッ、ギシッ。
木造船特有の、波のうねりに合わせて心地よく軋む音で、ノアは静かに目を覚ました。
割り当てられた船室は決して広くはないが、清潔なリネンと潮の香りが微かに漂う、落ち着く空間だった。
小さな丸窓からは、眩しい朝の光が真っ直ぐに差し込み、船室の床に丸い陽だまりを作っている。
ノアは硬い木製のベッドからゆっくりと身を起こし、シーツの上に置いた自身の両手をじっと見つめた。
息を殺し、心臓を早鐘のように打たせながら、得体の知れない追っ手の恐怖に怯えて暗い路地裏を逃げ惑っていた日々。
それが、まるで遠い昔に見た悪い幻だったかのように思える。
波に揺られるこの奇妙な船の上には、今まで彼女が知らなかった底知れない安心感と、どこまでも温かな日常が確かに存在していた。
(……夢じゃ、なかったんだな)
身支度を整え、ノアは小さく息を吐いてから甲板へと続く木製の階段を上った。
分厚い扉を押し開けて甲板に出ると、清々しく冷ややかな朝の海風がノアの金色の髪をふわりと揺らした。
見渡す限りの青い空と、太陽の光を反射してきらきらと輝く海面。
その壮大な景色に一瞬目を奪われていると、後部甲板の方から、コン、コン、と硬い木を叩くような音が規則正しく響いてくるのに気がついた。
音のする方へ向かうと、そこにはすでに起き出していたウォルフの姿があった。
彼は大きなレンチではなく小さな木槌を手に持ち、船体のあちこちを叩いては、耳を澄ませるような仕草を繰り返している。
「あの、ウォルフさん。おはようございます」
「おぅ、おはよう、ノア。よく眠れたか?」
ノアの遠慮がちな声に振り返ったウォルフは、深く刻まれた皺を優しく緩めて快活に笑った。
「はい。ちょっと揺れに慣れるのに時間かかりましたけど」
「はっはっは、船旅は初めてか? じきに嫌でも慣れるさ。波の揺れってのは、慣れちまえばゆりかごみたいなもんさ」
「ウォルフさんは、こんな朝早くから何をされているんですか?」
「うむ、ちょいと船のご機嫌を伺いにな」
ウォルフは愛おしそうに、飴色に輝くオーク材の壁をこんこんとノックした。
「ご機嫌、ですか?」
「ああ。木が腐ってないか、金具が緩んでないかと、他にもいくつかな。こいつが常に万全の状態で動けるよう、毎日音を聞いて確認しておるのさ」
ウォルフのその手つきは、まるで自分の我が子を労るように優しく、それでいて職人としての厳しい眼差しを帯びていた。
「なるほど……すごいですね。あの、何か私にお手伝いできることはありますか?」
「なに、気にするこたぁ無い。それよりもそろそろ朝飯だぞ」
手伝いを申し出るノアに対し、ウォルフはポンと大きな手で彼女の肩を軽く叩き、気遣うように微笑んでみせた。
「のーあー!」
不意に、頭上から明るい声が降ってきた。
「え、どこから……? あっ」
声のした方を見上げたノアは、思わず目を丸くした。
途方もない高さのメインマスト。
そのてっぺんに伸びる横桁の上に、ソエルがダボダボのオレンジ色のアウターを風に靡かせながら、ちょこんと座っていたのだ。
「ソエルさん。そんなところで何してるんですか?」
「時々ここに留まってるカモメごっこー」
ソエルは足をぶらぶらと揺らしながら、無邪気な声で答えた。
「はぁ。それ、楽しいんですか?」
「そうでもないよー」
「そうでもないんですか」
ノアは思わず気の抜けた相槌を打つ。
ソエルの自由すぎる行動理念は、ノアの常識の範疇を軽々と飛び越えていく。
「とうっ」
次の瞬間、ソエルがなんの前触れもなく、その恐ろしい高さから甲板に向かって飛び降りた。
「えええええっ!?」
心臓が止まりそうになったノアが悲鳴を上げる。
しかしソエルは、空中でくるくると身を捻りながら、張り巡らされたロープを器用に手足で掴んでは勢いを殺し、最後は猫のように音もなく甲板へと着地してみせた。
「カモメごっこ飽きちゃった」
「び、びっくりしました……本当に、止まるかと思いましたよ、心臓……」
へたり込みそうになるノアをよそに、ソエルはニコニコと笑いながら近づいてくる。
「ほらノア。そろそろ朝ごはんだよー。リアが作るあっさごっはんー♪」
「えっ、あ、ちょっと待って……」
ノアの手をソエルがぐいっと力強く引っ張る。
そのまま彼女のペースに巻き込まれる形で、ノアは船首の方へと連れ出されていった。
船首甲板までやってくると、そこには朝の澄んだ空気の中で、静かに祈りを捧げるエイダリアの姿があった。
その少し離れた場所では、リアが小さな簡易コンロのような魔導具を使い、手際よく朝食の準備を整え始めている。
香ばしく焼けたパンと、ベーコンの脂が弾ける良い匂いが風に乗って漂ってきた。
「あら、おはようございますノアさん。よく眠れましたか?」
「おはようございます、リアさん。あの、エイダリアさんは何を……?」
ノアは、美しい船首像の前に立ち、胸の前で両手を固く組んで目を閉じているエイダリアの姿を不思議そうに見つめた。
「お嬢様はああやって、我々の航海と、この海の平穏をもたらしてくれている海神様に朝の感謝の祈りを捧げているのです」
「なるほど……」
リアの言葉に、ノアは静かに頷く。
朝の柔らかな日差しを一身に浴びるエイダリアの姿は、海風に長い金髪を優雅に揺らし、まるで一幅の宗教画のように神秘的で、神聖な空気を纏っていた。
「ん、今朝のおつとめ、おしまい。おはよう、ノア」
祈りを終えたエイダリアがゆっくりと目を開け、振り返って穏やかな微笑みを向けてくる。
「おはようございます、エイダリアさん」
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
まじまじと見つめてくるノアに気づき、エイダリアが不思議そうに小首を傾げた。
「いえ、綺麗だなって……」
「? あぁ、朝の海って、きらきらしてるよね」
「そっちの話では無かったのですが……」
天然なのか、それともわざとはぐらかしたのか。
ニコニコと海を見つめるエイダリアの横顔に、ノアは少しだけ頬を緩めて苦笑した。
「ふぁぁ……おはよ、ノア」
その時、甲板への階段から、大きなあくびをしながら現れた影があった。
目元には微かに疲労の色を滲ませたラリーだった。
「ラリーさん。おはようございます。随分と眠そうですけど」
「一応、夜番してたからな。飯食ったら、寝るわ」
ラリーはだるそうに首をポキポキと鳴らしながら近づいてくると、リアがテーブルの上に並べ終えたばかりの、カリッと焼けたベーコンを指先でヒョイと摘み上げ、そのまま口の中へと放り込んだ。
「あむっ……ん、美味い」
「ちょっと船長! つまみ食いはお止めください! お行儀が悪いにも程がありますわよ!」
その行儀の悪い振る舞いを見逃さなかったリアが、眉を吊り上げてすかさずラリーの手の甲をピシャリと叩いた。
「いって! いいだろ別に、減るもんじゃなし! だいたい海の男に細かいマナーなんて似合わねぇんだよ!」
「不潔です! そういう問題ではありません! さあ、あちらの樽の水で手を洗ってきなさい!」
「へいへい、わーかってるっての。リア母さん」
「なっ……! 誰が母ですか! そもそもわたくしはまだ……!」
子供のように文句を言いながらも、リアの剣幕に押されてしぶしぶ手を洗いに行くラリー。
昨晩、ソエルがリアに放った一言を置き土産にして。
顔を真っ赤にして反論するリア。
その後ろで、工具を磨いていたウォルフが煙草を咥えながら豪快に笑い声を上げている。
ソエルはすでに自分の席に座り、両手にパンを持って機嫌よく足を揺らしていた。
その騒がしくも、どこまでも温かく平和なやり取りを眺めていたノアの胸の奥で、張り詰めていた見えない糸がぷつりと切れた。
気がつけば、ノアの口から自然と笑い声が零れ落ちていた。
「あははっ……ふふふっ」
一度漏れ出すと、それはもう止まらなかった。
自分が何者であるかなんて、追われている理由が何であるかなんて、今はどうでもよかった。
この不器用で、優しくて、騒がしい家族のような人たちの輪の中にいられることが、今はただどうしようもなく嬉しかったのだ。
朝のきらきらと輝く海の上。
ノアの心からの笑い声が、穏やかな潮風に乗って、高く澄み渡る青空へと溶けていった。




