010「記憶に眠る道標」
それから数日の時が流れる。
心地よい潮風を帆に受けながら、船は穏やかな航海を続けていた。
白波を裂いて進む船の甲板には、思い思いの時間を過ごすクルーたちの姿がある。
マストの網を縦横無尽に器用に登って遊んでいるのはソエルだ。
彼女の無邪気な笑い声が、カモメの鳴き声に混じって青空へと吸い込まれていく。
船首の方では、エイダリアが相変わらず静かに海を眺めている。
ノアは船縁に寄りかかり、そんな彼らの様子を少し離れた場所から見つめていた。
「差し当たってとっつぁん、密輸船とかの情報はないか?」
舵輪の傍らで海図を広げていたラリーの問いかけに、後部甲板で煙草を咥えながら工具を丁寧に磨いていたウォルフが顔を上げた。
「儂の方では聞かんなぁ。筋モノ共も最近はナリを潜めているようでな。リア殿の方ではどうだね?」
紫煙をくゆらせながらウォルフが視線を向けると、真鍮製の航海計器の手入れをしていたリアが、手元の作業を止めて顔を上げた。
「いいえ、わたくしのほうでもこれといった情報はありませんわね」
密輸船。筋モノ。
一般の人間であれば耳にするだけで震え上がるような物騒な単語が、まるで『今日の昼飯は何にしようか』とでも言うようなごくありふれた日常の軽い調子で飛び交う会話。
それにノアは思わず耳を疑い、おずおずと口を挟んだ。
「あの」
「ん、どした」
ラリーが振り返る。
腰に下げた二本繋ぎの無骨な鈍器が、彼の動きに合わせてカチャリと鳴った。
「密輸船がいると、どうなのです?」
「ああ、獲物だよ」
「……獲物?」
意味が分からず、そのまま聞き返してしまうノア。
「俺たちゃ海賊だからな」
ラリーはニカッと、なんの悪びれる様子もなく真っ白な歯を見せて笑った。
その太陽のように屈託のない笑顔と、血生臭い海賊という単語の響きがあまりにも噛み合わず、ノアは思考が追いつかず呆然と立ち尽くす。
そんなノアの反応に呼応するように、頭上のマストからソエルが元気な声を降らせた。
「かいぞくー!」
「海賊……ですか?」
海賊。
それは一般的な常識で言えば、商船を襲い、略奪と暴力を好む海の荒くれ者たちのことだ。
ノアが僅かに身を強張らせたのを察したのか、リアがすかさず歩み寄り、諭すように訂正を入れた。
「無辜の方を襲っているわけではありませんのよ。禁制品を扱った密輸船や、他国の私掠船といった、裁きを受けて当然の者たちに罰を与えることも兼ねているのです」
「そーそー。船長は、悪い奴を懲らしめてるのだ」
スルスルとマストの網から降りてきたソエルが、ノアの前に立ってえっへんと胸を張る。
「大義名分なんぞどうでもいいんだがな。人の道に外れるようなことだけはしてないつもりだ」
ラリーは肩をすくめ、照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
彼らの言葉には嘘がないと、ノアにも分かった。
無法者ではあるが、彼らなりの確固たる信念と誇りを持ってこの船を動かしているのだ。
「本当は、こんなことしなくて済めば良いんだけれどね」
船首の方で海風を浴びていたエイダリアが、振り返らずにぽつりとこぼした。
その透き通るような声を聞いた瞬間、リアの表情が、先程までのクールなものから一転して悲痛なものへと変わった。
「ええ、ええ……義賊とでも思わなければ……。こんな下賎なことに、お嬢様を関わらせるなど本来もってのほかなのです!」
リアは両手で顔を覆い、大袈裟な身振りで嘆き悲しみ始める。
しかし、エイダリアはそんな侍女の様子に苦笑しながら、静かに首を振った。
「でもね、リア。私たちだってお腹は空くのよ」
「そうでしょうとも! ああ、私さえもっとしっかりしていればお嬢様にこんな思いを……よよよよ」
本気で泣き崩れんばかりの勢いでハンカチを噛むリア。
そのひどく芝居がかった泣き声に、ラリーはあからさまな溜息をついて天を仰いだ。
「まーた始まったぜ」
「そもそもあなたがですわよ!」
ピタッと泣き真似を止めたリアが、鋭い視線と指先をラリーの鼻先に突きつける。
甲板はたちまち、いつもの騒がしい口論の場と化した。
そんな彼らの様子を眺めながら、ノアの胸の奥で一つの思いが形を成していく。
自分を助けてくれた、この温かくて少し風変わりな人たち。
彼らが日々の糧を得るために、義賊とはいえ危険な海賊業に身をやつしているのだとしたら。
「はあ、なるほど。ということは……私、お力になれるかも知れません」
ノアの静かな、しかし芯のある声が響いた時、甲板の空気がふっと落ち着いた。
「力?」
ラリーが口論を止め、怪訝そうに首を傾げる。
「海賊などせずにご飯を食べていけるような、収入があれば良いのでしょう?」
「ほう……話してみてくれるか?」
ラリーの眼差しが、真剣な船長のそれへと変わる。
ウォルフの手がレンチを磨くのを止め、リアも眼鏡の奥の瞳を光らせてノアに注目した。
「はい……」
ノアは膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、一つ深呼吸をした。
「あの仮面の人たちに攫われそうになった理由、なのかも知れませんが……頭の奥にこびりついて離れない景色があるんです」
「景色……それはどんな場所なんだ?」
ラリーが急かすことなく、静かに先を促す。
「誰も知らない、太古の遺跡です。そこに、私にとってかけがえのないものが眠っているんです。ただ……それが何なのかは、はっきりと分かりません」
ノアは言葉を探すように伏し目がちになり、自身の胸元をそっと押さえた。
「でも記憶の中にあるその場所は、ただの古い廃墟じゃないんです。
今の世界には存在しないような、神聖で途方もない力が満ちていて……
神々がいた時代、それこそ黄金期の遺産としか呼べないようなものが、間違いなくあそこに存在している。
どうして自分がそんなことを知っているのかも分からないんですが……
何故かその記憶だけは、絶対の真実として焼き付いていて」
時折言葉に詰まり、途切れ途切れになりながらも紡がれた彼女の話を最後まで静かに聞き終えたラリーは、口元に手を当てて深く考え込んだ。
「ふーむ。黄金期の遺跡、ねぇ」
「本物であれば遺品の一つでも値千金だのう」
ウォルフが髭を撫でながら、重々しい声で同意する。
「太古の遺跡に金銀財宝……ちょっと、出来すぎとも思いますけれど」
リアは冷静に分析しながらも、その声には隠しきれない好奇心が混じっていた。
「でも、面白そうじゃない?」
エイダリアが珍しく楽しげに微笑む。
その彼女の一言が、この船の進路を決める決定打となった。
「よし決まりだ。ノア、案内を頼むぜ」
ラリーが拳を掌に勢いよく打ち据え、快活に笑う。
ノアの提案は、見事に彼らの冒険心をくすぐったらしい。
だが、今すぐにでも向かわんばかりに逸るラリーをウォルフが冷静にたしなめた。
「待て待て、焦ったところで始まらん。しつこく狙っている輩がいることから見ても、この情報はノアしか知らんことと見ていい。腰を据えてかかっても良かろう」
「……確かに、一旦食料も改めて補充し直したほうがいい頃合ですわ」
リアの現実的な意見に、ソエルがばんざいをして飛び跳ねる。
「ご飯は大切だよー」
のんびりとしたソエルの声に、ラリーは軽く肩をすくめた。
未知なる冒険へ急ぎたい気持ちは山々だが、この無邪気な家族の笑顔を見せられては一旦お預けにするしかない。
熱くなっていた頭を冷まし、ラリーは船長としての頼もしい顔を取り戻した。
「しゃあねぇな、手近な港で調達するか。とっつぁん、航路を割り出してくれ」
「うむ。海図を見てくれ。現在の座標から、目的の島があると思われる海域までの最短航路を出すと、セント・アイヴスに立ち寄るのが……」
ウォルフが甲板の樽の上に広げた海図を指差す。
ラリーやリアたちがその周りに集まり、次なる目的地への算段を始めた。
彼らの輪の真ん中で、ノアは自分がただ守られるだけの存在ではなく、この船の航路を指し示す仲間の一人になれたような気がして、ふわりと自然な笑みをこぼしたのだった。




