011「セント・アイヴス」
ウォルフが海図に示した次なる目的地。
それは、ノアがこれまで目にしたどんな街よりも遥かに巨大で、圧倒的な熱気と豊かさを内包した場所だった。
アスガルド大陸における主要国家の一つ、ミドガルズ帝国。
その広大な領土の中でも最大の規模と経済力を誇る港町が、このセント・アイヴスである。
世界中からあらゆる物品、文化、そして人々が集まり、また世界中へと出港していくこの巨大都市は、そのあまりの絢爛豪華さと溢れんばかりの富から、人々から畏敬と憧れを込めて『帝国の宝石箱』と名高く呼ばれていた。
「はわ、はわわわ……」
グングニル号が港に滑り込んだ時、甲板からその全貌を見下ろしたノアはただただ感嘆の溜息を漏らす事しか出来なかった。
視界の果てまで続く広大な港湾には、巨大な森のように数え切れないほどのマストが林立している。
帝国海軍の威容を示す城郭のようなガレオン船、異国の極彩色の装飾が施された大型貿易船、そして小回りの利く無数の商船や漁船。
海面が見えないほどの過密ぶりでありながら、それらが独自の秩序を持って行き交う様は、港全体が一つの巨大な生命体であるかのようだ。
陸地に目を向ければ、空を突くような白亜の時計塔を中心に、赤煉瓦と堅牢な石造りの重厚な建造物が、なだらかに隆起した丘に沿って幾重にも連なっている。
陽光を反射してきらきらと輝く色とりどりのガラス窓や、裕福な商人たちの邸宅の庭に咲き乱れる鮮やかな花々が、まさに『宝石箱』という二つ名にふさわしい極彩色の輝きを街に添えていた。
街路へと一歩足を踏み入れれば、そこは熱狂のるつぼだった。
石畳のメインストリートを埋め尽くす人々の波は途切れることがなく、大陸中のあらゆる言語が飛び交っている。
潮の香りに混じって、異国から運ばれてきた強烈な香辛料の匂い、屋台で炙られる肉の脂の匂い、そして甘く熟した果実の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
何もかもが圧倒的で、ノアは目を白黒させながらウォルフの大きな背中を慌てて追いかけた。
「すごく、賑やかなところですね……」
ノアが圧倒されたように呟くと、前を歩いていたウォルフが振り返って豊かな白髭を撫でた。
「うむ。お前さんと会ったメダリアも悪くないところだが、ここには敵わんだろう。大概の品が手に入るからな、補給地としては最適だ」
老練な職人の言葉を裏付けるように、道の両脇には見たこともない品々を積んだ露店がどこまでも連なっている。
ノアはそのあまりの種類の多さに目を白黒させながら、ふと小首を傾げた。
「なるほど……。船長さんはお留守番ですが、私たちは何をお求めなのですか?」
「主に食料と、水だな。お宝探しとなれば、しばらく海の上だからな……おう親父、そこの乾燥パンをもらおうか」
ウォルフが山のように積まれた保存食を売る店で硬貨を支払おうとしたその時、少し前を歩いていたソエルが振り返った。
「パンあるよー。おいしいよー」
そう言うとソエルはリュックサックに小さな手を突っ込み、何故そんなものが入っていたのか、焼き立てのようにふっくらとした丸パンをポンッと取り出してみせた。
「壊血病が怖いからな、保存の利くドライフルーツ類も必要だろう」
ウォルフがソエルの不思議な行動を意に介さず買い物を続けようとすると、ソエルは再びリュックをごそごそと漁った。
「ソエルは干し葡萄といちじく、それとカレルが好きだよ。はい、ノアにもあげる」
ソエルの言うカレルとは、アスガルド大陸南部の一部地域で栽培されている果物である。
見た目は洋梨に似ているがそれよりも水分量が少なく、味は洋梨とマンゴーの中間のような濃厚な甘みを持つのが特徴だ。
特に細長く切り分けて乾燥させたドライフルーツは、日持ちの良さと疲労を癒す甘みから、長い航海のお供として船乗りたちの間で大変人気のある品だった。
ノアは手渡された果実の詰まった小袋を受け取り、その見慣れない細長い果肉をそっとつまみ上げながら、何かを思い出すかのように呟いた。
「カレル……」
「うん? どうしたのだ?」
ソエルが下から大きなエメラルド色の瞳でノアを覗き込んできた。
その温かな視線に、ノアは微かな感傷を振り払って微笑む。
「ううん、ありがとう。ソエルさんは何でも持ってるんですね」
ノアは手渡された果実の詰まった小袋を受け取りながら、底知れないリュックに不思議そうな視線を向けた。
「なんでもあるよー。他に何がほしい?」
底なしのリュックを誇らしげに見せるソエルに、ノアは日差しの強さに目を細めながら答えた。
「そうですね、冷たい飲み物でも」
「じゃあ買ってくるー」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、ソエルは元気よく手を挙げて駆け出していく。
「はあ、それは無いんですか……」
てっきりあの不思議な鞄から飛び出してくるのだとばかり思っていたノアは、あっという間に人混みに消えていくオレンジ色の小さな背中を見送りながら、少しだけ拍子抜けしたような声を出した。
「不思議ばかりの子だがな、そのうち慣れる」
ウォルフが苦笑交じりに言う。
「さあ、儂らもさっさと買い出しを済ませて、リア殿たちと合流しよう」
§
ノアたちが物資の買い出しを進めていた頃、別行動を取っていたエイダリアとその従者たるリアは静かに、それでいて確実に歩みを進めていた。
賑やかな大通りから一本路地に入り、ゆるやかな坂道を登り切った先に、その静謐な空間は広がっていた。
海神を祀る大聖堂。
白亜の石造りによる巨大な円蓋が威容を誇り、正面を飾る青いステンドグラスが西日を受けて美しく輝いている。
外の騒がしさが嘘のように、教会の敷地内には神聖な静寂が満ちていた。
「お嬢様、足元にお気をつけ下さい」
リアが周囲への警戒を怠らずに、すぐ後ろを歩く主へと声をかける。
その顔には、見知らぬ巨大都市に対する緊張感が色濃く浮かんでいた。
対するエイダリアの足取りは、どこまでも静かで、波一つ立たない水面のように落ち着き払っている。
重厚な木の扉をゆっくりと押し開け、礼拝堂の中へと足を踏み入れる。
ギィィ……という古い蝶番の軋む音が丸い天井に高く反響し、ひんやりとした冷たい空気と、古書と乳香の混ざり合った独特の香りが二人を包み込んだ。
高い天井には精緻なフレスコ画が描かれ、ステンドグラスから差し込む光が、薄暗い石畳の床に神秘的な幾何学模様を描き出している。
祭壇へと続く長い赤絨毯の上を、エイダリアは一歩、また一歩とゆっくりと進んでいった。
リアは彼女の数歩後ろで、カツンと硬い靴音を響かせて立ち止まる。
あとはただ、波のような衣擦れの音だけを伴って進む、主の静寂に満ちた背中を見守った。
祭壇の前に立ったエイダリアは、ふわりと膝を折り、胸の前で両手を固く組んだ。
静かに目を閉じ、深く呼吸を繰り返す。
彼女の精神は、現実の石造りの大聖堂から離れ、どこまでも深く青い精神の海へと沈んでいく。
——海神様。
いつものように、この海を愛する人々の平穏を祈ろうとした、その時だった。
「……っ」
エイダリアは、微かに肩を揺らした。
それは明確な言葉や、形を持ったお告げなどではない。
ただ、完全に凪いでいた精神の海面に、ぽつりと、ひどく冷たくてどす黒い雫が落ちたような……そんな、静かで不吉な波紋だった。
どこかで、何かが狂い始めている。
見えない深海で生まれた小さな渦が、ゆっくりと、しかし確実にこの世界全体へと広がり、やがて彼女たちの足元すらも飲み込みに来るような。
根拠はない。だが、そのひどく生々しい冷たさが、彼女の胸の奥底を静かに撫でていったのである。
「……」
エイダリアは組んでいた手を静かに解き、自身の胸元にそっと押し当てた。
伏せられた長い睫毛が、微かに震えている。
「……お嬢様?」
ただならぬ主の沈黙に、リアが怪訝そうな、そして微かに不安を帯びた声で呼びかける。
エイダリアはゆっくりと目を開け、祭壇から振り返った。
その表情には大きな動揺はない。ただ、静かな湖面のような瞳の奥に、ほんのわずかな翳りが落ちているのをリアは見逃さなかった。
「……平気よ、リア」
エイダリアは、抑揚の少ない静かな声で短く応える。
「しかし、お顔色が……。まさか、神託が下ったのですか?」
リアが眼鏡の位置を直し、礼拝堂の暗がりを警戒するように鋭い視線を走らせる。
「……違うわ。お告げでは、ないの」
「では、一体……」
エイダリアは、ステンドグラスから差し込む青い光へ視線を移す。
「ただ……少し、冷たい風が吹いた気がして」
言葉の少ない主の意図を汲み取ろうと、リアは険しい顔でその横顔を見つめた。
海神の巫女である彼女が感じる冷たい風というものが、ただの隙間風であるはずがない。それは間違いなく、これから彼女たちの行く手に待ち受ける何らかの災厄の気配だ。
「嵐が、来るのでしょうか」
リアの問いかけに、エイダリアは静かに目を伏せる。
「……分からないわ」
「……」
リアは奥歯を噛み締めた。
これから先、あの常識外れの海賊船で旅を続ける以上、平穏無事な航海など望むべくもない。だが、主の胸をざわつかせるほどの何かが近づいているのだとしたら、護衛としてこれ以上の警戒が必要になる。
「……でも、不思議ね」
ぽつりと、エイダリアの唇から静かな声が零れた。
「不思議、ですか?」
「ええ。……怖くは、ないの」
エイダリアの瞳が、再びリアへと向けられる。
その静かな双眸の奥には、先程までの微かな翳りはなく、代わりに仄かで確かな光が宿っていた。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、あの底抜けに明るく、誰よりも真っ直ぐな銀髪の青年の背中だった。
これからどんな冷たい嵐がやってこようとも、彼らがいれば。
あの騒がしくも温かい場所があれば、きっと何とかなる。
根拠のない予感には、同じく根拠のない確信が打ち勝っていた。
「……あの人たちが、いるもの」
エイダリアの口角が、ほんのわずかに、微かな弧を描く。
それは満面の笑みには程遠い、ほんの些細な表情の変化だったが、長く彼女に付き従ってきたリアには、そこに込められた絶対的な信頼が痛いほどに伝わってきた。
「……なるほど。確かに、あの船長たちが大人しく嵐に飲み込まれる姿など、想像もつきませんわね」
リアは呆れたように、けれどどこかホッとしたように小さく息を吐いた。
どんな不吉な予感よりも、あの規格外の海賊たちの存在感の方が勝っているのだとしたら、リアとしても腹を括るしかない。
「……行きましょう。皆が、待っているわ」
エイダリアは静かに身を翻し、教会の出口へと歩き出す。
その背中はいつも通り静謐で、けれど確かな芯の強さを感じさせた。
重厚な扉の向こう側から、眩しいセント・アイヴスの陽光が差し込む。
活気に満ちた潮風が、静かな巫女とその従者を、騒がしい日常へと優しく引き戻していったのだった。




