012【回想録〜エイダリア〜】1
時は少しばかり遡る。
それは、ノアという不思議な少女がメダリアの路地裏でラリーに拾い上げられるより幾分前。
どこまでも広がる青い海を渡り、グングニル号がある港町へと錨を下ろした日の午後。
当時のグングニル号のクルーは、船長である銀髪の青年ラリーと、機関長を務める老練な職人ウォルフのたった二人きりであった。
数人がかりで動かすのが本来の規模であるこの船を、たった二人で操る航海は過酷を極める。しかし、ウォルフの施した緻密な機関の自動化と、ラリーの常軌を逸した体力と操船技術によって、彼らは自由気ままな海賊稼業を続けていた。
「じゃあ、ちょっと買い出しに行ってくる」
甲板でロープの結び目を確認していたウォルフが、腰のレザーポーチを叩きながら野太い声でそう告げた。
しかし彼のそんな仕事ぶりに対し、ラリーの反応はひどく薄いものだった。
「買い出し? まだ水も食料も十分足りてるだろうが。他に何がいるってんだ?」
ラリーは船縁の木箱にどっかりと腰を下ろし、退屈そうに足をぶらぶらと揺らしながら不満げに口を尖らせた。
彼らの船倉には、この街に到着してすぐに市場を回り買い込んだ大量の干し肉や果実、そして真水が入った樽が積み込まれている。
これ以上何を買い込む必要があるのか、ラリーにはいまいち理解できなかった。
「水と食料だけあれば何とかなる、というものでも無いだろう」
ウォルフは豊かな白い顎髭を撫でながら、大雑把すぎる船長に向けて深くため息をついた。
「いいかラリー。船というものは生き物だ。常に手入れをしてやらねば、いざという時に牙を剥く。掃除道具や、帆を補修するための裁縫道具、細かい予備の金具など、色々と必要なものがあるのだ」
「わーったよ、ったく。じゃあとっとと済ませて次の街行こうぜ」
理詰めで説教を始めようとする老機関長の言葉を、ラリーは両手を振って乱暴に遮った。
「うむ、では行ってくるぞ。あまり船を離れるなよ」
「はいはい」
ウォルフの念押しに気のない返事を返し、ラリーはタラップを降りていく分厚い背中を見送った。
グングニル号が停泊しているこの港町は、これまでに彼らが立ち寄ってきたどの街とも少し毛色が異なっていた。
荒くれ者の船乗りたちが酒場に入り浸るような喧騒は少なく、行き交う人々の身なりはどこか小綺麗で、街全体に清廉で厳かな空気が漂っている。
しかし、そんな静かで美しい景色も、彼にとってはひどく退屈なものでしかなかった。
「ふぁあ……」
大きく口を開け、ラリーは船の上でこれ以上ないほどの間の抜けたあくびをこぼした。
「暇になっちまったな。とっつぁんの買い物なんて、どうせネジの長さがどうだとか言って何時間も帰ってこねぇんだろうしな」
独り言をつぶやきながら、ラリーは立ち上がり、船縁から街の中心部へと視線を巡らせた。
赤煉瓦や白い漆喰の壁が続く街並みは整然としているが、その中でも、彼の視線はある一つの特異な建造物に釘付けになった。
街の中央、小高い丘の上に、周囲のどんな豪奢な建物をも圧倒する規模で、天を衝くようにそびえ立つ白亜の建造物があったのだ。
太陽の光を反射して輝く青いステンドグラスと、幾重にも重なる巨大なドーム状の屋根。鋭く天を指す尖塔。
それは明らかに信仰の対象となる神殿や教会の類であったが、それにしても規模が常軌を逸している。街のどこからでも見上げることができるその威容は、まるでこの街そのものを支配する巨大な権力の象徴のようにも見えた。
「教会、にしちゃあデカすぎるよな。城って言われたほうがまだしっくりくるぜ」
ラリーは額のゴーグルを無意識に指先で弾きながら、興味深げに目を細めた。
「ま、どうせすぐに帰ってこないんだろうから、ちょっくら行ってくっか。あのデカさは一見の価値くらいはあるだろ」
思い立ったら吉日。退屈しのぎの目的を見つけたラリーは、愛用の鈍器が腰にあることを確認すると、ひょいと身軽な動作で船を飛び降り、静かな石畳の街並みをその巨大な建造物へ向かって歩き出した。
§
港から続く緩やかな坂道を登り切り、目的の建物の前までやってきたラリーは、首を仰け反らせてその威容を見上げた。
「おぉ……近くで見るとますますでっけぇな。大聖堂ってやつかこりゃ? にしてもここまでデカいのは初めて見たぜ」
遠目からでも巨大だったその建築物は、直下から見上げるとまるで空そのものを塞ぐ白い壁のように感じられた。
精緻なフレスコ画や神々の彫刻が外壁の至る所に施され、静寂に満ちた神聖な空気が、下界の喧騒を完全に遮断している。近づくにつれて乳香の甘く重い香りが漂い、ここがただの教会ではなく、特別な権威を持つ場所であることを無言のうちに主張していた。
彼は白亜のファサードの正面に回り込み、見上げるほどに高い、重厚なオーク材で作られた正門の前に立った。
「どれ、鍵は……掛かってないみたいだな、不用心なこって」
巨大な金属の装飾が施された扉には、外側から掛けられるような錠前やかんぬきの類は見当たらなかった。誰でも歓迎するという宗教施設らしい造りだと勝手に納得し、ラリーは無造作にその巨大な扉の取っ手に手をかけた。
そして、軽く力を入れて押し開けようとした、その時だった。
「……お? ぬ、うぉぉ! 何だこれ、おっ、も……ぐぬぬぬ!」
ラリーの喉から、信じられないというようなうめき声が漏れた。
微動だにしない。いや、数ミリ程度は動いたのかもしれないが、その扉はまるで壁そのものを押し退けようとしているかのような、理不尽なまでの絶望的な重量を持っていたのだ。
並の男であれば、ビクともしない扉を前に諦めて引き返していただろう。だが、数多の修羅場を力任せにねじ伏せてきたラリーの腕力は、決して常人のそれではない。
「ぜぇ、ぜぇ……。なる、ほど。これが鍵ってわけね……ふんぬっ!」
ラリーはブーツの底を石畳に深く食い込ませ、全身の筋肉をはち切れんばかりに隆起させた。額に青筋を浮かべ、歯を食いしばりながら、海賊船長としての意地と規格外の膂力をすべて両腕に込めて強引に押し込む。
魔法的な封印が施されているわけではない。純粋に、あまりにも大きく、あまりにも重すぎるのだ。
――ギギギギギギッ……!
古い蝶番が悲鳴を上げ、凄まじい摩擦音と共に、重厚な扉がようやくミリ単位で動き始めた。
数分間の死闘の末、ラリーは息も絶え絶えになりながら、人間が一人どうにか横歩きですり抜けられるだけの隙間をこじ開けることに成功した。
彼は滑り込むようにして大聖堂の内側へと身を翻し、外からの視線を遮るために、再び全身の力を使って扉を押し戻し、音を立てないようにそっと閉めた。
「はぁ、はぁ……うわぉ、広いってもんじゃねえな。声が響くぅー!」
息を整えるのもそこそこに顔を上げたラリーは、眼前に広がる光景に思わず素っ頓狂な声を上げた。
足を踏み入れた聖堂の内側は、外観から想像していた以上に途方もなく広大な空間だった。
ステンドグラスから差し込む光が、高いドーム状の天井から床に敷き詰められた大理石を美しく照らし出し、幾本もの巨大な大黒柱が等間隔に並んで聖なる空間を支えている。
ラリーが面白半分に発したその声は、広大な空間の壁や天井に幾重にも反響し、水滴が水面に落ちたように神聖な静寂の中へと遠く吸い込まれていった。
彼は大理石の床を鳴らしながら、きょろきょろとあたりを見回して進んでいく。
「一体いくら金かければこんなんが出来るんかね。そういやこういう場所には特別な人間が崇められたりするんだよな。例えば、強力な力を持った司教様、みたいな」
金銀財宝が野ざらしになっているわけではないが、ここにあるものすべてが途方もない価値を持っていることは分かる。独り言をつぶやきながらさらに奥へと歩みを進めていたその時。
――コツ、コツ、コツ。
静寂に包まれていた大聖堂の外から、正門へ向かって歩いてくる足音と、切羽詰まったような話し声が聞こえてきた。
「おっと」
ラリーは反射的に身を低くし、すぐ近くにあった、人ひとりが完全に身を隠せるほどの巨大な石柱の影へと音もなく滑り込んだ。
息を殺し、冷たい大理石に背中を預けながら、分厚い扉の向こう側から近づいてくる声の主へと全神経を集中させる。
「……リア、またその話」
分厚い木と鉄の扉越しに響いてきたのは、大聖堂の荘厳な空気に似つかわしくない、どこか気だるげで感情の起伏がすっぽりと抜け落ちたような少女の声であった。




