013【回想録〜エイダリア〜】2
「ええ。お嬢様が立派に大司教として勤め上げられますよう、わたくしがお仕えしているのですから。お嬢様がその自覚をきちんとお持ちいただくまで、何度でも申し上げます」
それに答えたのは、厳格で、一分の隙もない几帳面さを感じさせる大人の女性の声だった。主君を敬いながらも、決して甘やかすことのない教育係のような厳しい口調。
「立派な大司教になる為に必要な知識は、全てこのわたくしがお教えしておりますゆえ、お嬢様に不可能なことなど何一つございません」
「……本当に、そうなのかな」
少女は、大司教という重責に対する自信のなさや、この閉ざされた生活そのものに対する深い諦観を滲ませて、ぽつりとこぼした。
「……お嬢様?」
主の危うい精神状態を案じるようなリアの怪訝な声が響く。
これ以上この息の詰まる説教を聞きたくなかったのだろう。少女は歩みを止めることなく、感情のない声で告げた。
「ちょっと、祈りを捧げてきます」
「お嬢様、お話はまだ……」
「また後で聞くから」
その言葉と共に、正門のすぐ外側で足音がピタリと止まる気配がした。
そして。
――ギィッ
至って普通の戸を開くような、大した抵抗も感じさせない軽やかな音が響いた。
「なっ……!?」
ラリーは石柱の影からそっと様子を伺い、己の目を疑った。
先ほど、自分が全身の筋肉を限界まで酷使し、滝のような汗を流してようやくこじ開けたあの絶望的に重い大聖堂の正門の扉。
それを、外からやってきた華奢な少女が片手で、まるで薄い布のカーテンでもめくるかのようにいとも容易く押し開け、大聖堂の中へと入ってきたのだ。
「お待ちください、お嬢様、お嬢様!」
外に取り残されたリアの焦燥した声が響くが、少女はそのまま振り返ることなく、音もなく軽やかにその重い扉を閉めてしまった。
バタン、という重厚な音が響き、リアの抗議の声は外の世界へと完全に遮断される。
再び、聖堂内には波一つ立たない完璧な静けさが戻った。
「……マジかよ」
ラリーは唖然としながら、信じられないものを見たという顔で閉ざされた正門を見つめ、それから聖堂の奥へとゆっくりと歩みを進める少女の後ろ姿へと視線を移した。
ステンドグラスから降り注ぐ幾筋もの色とりどりの光が、彼女の純白の儀礼服を照らし出す。彼女は巨大な海神の神像を見上げたまま、小さく、どこか諦めにも似た重い息を吐き出した。
「……ふぅ」
その細い肩の動きを見て、ラリーは無意識のうちに眉をひそめた。
この冷え切った巨大な鳥籠のなかにたった一人で閉じ込められているかのような、圧倒的な孤独と閉塞感の匂いが、彼女の小さな背中から痛いほどに漂っていたからだ。
ラリーは自身の気配を隠すのをやめ、石柱の影から堂々と姿を現した。
「何だか、大変そうだな」
聖堂の静寂を破り、わざとフランクな、海賊らしい気安い調子で声を投げかける。
突然背後から見知らぬ男に話しかけられたにもかかわらず、少女はびくりとも肩を震わせなかった。彼女はただ、ゆっくりと首を巡らせ、凪いだ湖面のように濁りのない瞳をラリーへと向けた。
そこに驚愕や恐怖の色は一切なく、ただ静かな虚無が広がっているだけだった。
「……誰?」
「鍵が掛かってなかったから勝手に入らせてもらったんだが」
「勝手に……不法侵入?」
少女はこてんと首を傾げた。その声にも表情にも、見知らぬ不審者に対する警戒心は一切なく、ただ純粋な疑問の形だけがそこにあった。外の世界の悪意と触れ合ってきた者が持つべき最低限の防衛本能が、彼女にはすっぽりと抜け落ちているかのようだった。
「ぁー、まぁそうなるか」
ラリーは微かに肩をすくめ、おどけてみせた。
「よく開けられたね、ここの扉」
「そりゃこっちのセリフだよ。そんな細い腕して軽々と開けちまうんだもんな」
「慣れてるから」
「……いや、慣れてるとかそういう問題か?」
ラリーは思わず苦笑交じりにツッコミを入れたが、少女はどこ吹く風といった様子で、淡々と自身の境遇を告げる。その浮世離れした、あまりにも感情の欠落した雰囲気に、ラリーはかえって強い興味を惹かれていった。
「用事がないなら、出てって」
「待てって。別に悪さしようとしてるわけじゃ無いんだ。えっと、俺はラリー・ヒューア。あんたの名前は?」
気安い態度を向けられ、少女はわずかに毒気を抜かれたように静かに瞬きをした。
「……エイダリア。エイダリア・ラ・ワース」
「エイダリア。察するに、あんたここで一番偉いわけだよな?」
「そう、だと思う」
彼女の返答には、自分がどのような立場に置かれているのかすら実感できていないような、底知れない危うさが含まれていた。
「じゃあエイダリア、あんたに許しを貰えばここにいてもいいってわけだ」
「許し?」
「そ。不法侵入者がここにいてもいい許し」
悪びれもせず堂々と言い放つラリーを、エイダリアは静かな湖面のような瞳でじっと見つめた。
「……別に、悪いことしないなら」
「おぉ、流石は大司教様」
「でも用がないなら帰って」
「冷たいな。そんな顔してたら人生つまんねえだろ」
「別に……」
エイダリアはここまでのやり取りの間、表情一つ変えず、感情らしいものを一切見せようとしなかった。
ラリーは腕を組み、彼女の虚ろな瞳を真っ直ぐに見据えながらふっと息を吐いた。この堅苦しい石の壁のなかで飼い殺しにされている少女の姿が、かつての自分が嫌悪した退屈な日々や、自由を奪われた者たちの姿と重なって見えたのかもしれない。
「こんな所に籠もってないで、たまには外の空気でも吸ってみたらどうだ? 俺みたいに世界中を旅してたら、色んなことに出会えるぜ」
ラリーのその言葉に、エイダリアの瞳がわずかに揺らいだ。
「旅? あなた、お家は?」
「へ、家? そうだな。船、かな」
思いがけない質問に頭を掻きながら答えると、彼女は少しだけ身を乗り出すようにして問い返してきた。
「船。船で旅をしてるの?」
「あぁ。海賊みたいなもんだからな」
わざと悪ぶったように肩をすくめてみせるラリー。しかし、エイダリアは怯えるどころか、不思議そうに彼をじっと見つめた。
「海賊……そうは見えないけど」
「そうか? まぁ人は見かけで判断できない、ってことで」
「見かけというより、悪い人だとは感じなかったから」
その素直すぎる、嘘偽りのない真っ直ぐな言葉に、ラリーは思わず虚を突かれた。
海賊である自分を前にして、悪い人ではないと断言するこの不思議な少女。
だが、すぐに彼はその不器用な純粋さがたまらなく可笑しくなり、不敵な笑みを浮かべて、からからと声を上げて笑い出した。
「ふっ、く、はっははは」
突然大声で笑い出したラリーに、エイダリアは目を丸くして困惑した。彼女の人生において、理由もなく笑う人間など目の当たりにしたことがなかったのだろう。
「何?」
「悪い悪い。あんた、面白いやつだなって思ってさ」
ラリーは笑い涙を指先で拭いながら、悪びれる様子もなく答えた。
「え?」
思いがけない言葉に、エイダリアはますます分からなくなったように小さく首を傾げる。
「なぁエイダリア。腹抱えるほど笑ったことはあるか?」
「抱え、る?」
その言葉の概念すらピンと来ていない彼女の反応に、ラリーは再び吹き出しそうになるのを堪えながら、身振り手振りを交えて語った。
「おかしくて笑いすぎると腹筋が痛くなってさ。でもおかしくて仕方ねえからまた笑って、嬉しいんだか痛いんだか。それでもまたおかしくって、もっと笑っちまう。止まらなくなっちまうんだ、はははははっ」
ラリーのその太陽のように底抜けに明るい笑い声は、ひんやりとした聖堂の重苦しい空気を心地よく温めていく。
エイダリアは静かに瞬きをし、目の前で無邪気に笑う男の姿をじっと見つめた。胸の奥の、ずっと分厚い氷に閉ざされていた何かが、微かに溶け始めていくような感覚。
「……人って、そんな笑顔も出来るんだ」
ぽつりとこぼれたその言葉は、彼女がこれまでどれほど無機質な世界を生きてきたかを物語っていた。
ひとしきり笑い終えたラリーが、ふと彼女の顔を見てニカッと笑った。
「あんたも今、笑顔じゃん」
言われて、エイダリアが自分の頬にそっと手を触れる。そこには、彼女が生涯で一度も浮かべたことのなかった、柔らかな、人間らしい笑みが確かに浮かんでいた。冷たい石像のようだった少女の顔に、初めて血が通った瞬間だった。
「えっ、そうだった?」
「ああ」
「そう、なんだ」
胸の奥に灯った未知の感情を確かめるように、しばらくの間じっと考える素振りを見せるエイダリア。
彼女の視線は、自分を縛り付けてきた巨大な神像から離れ、目の前に立つ自由な風を纏った銀髪の青年へと移った。
やがて、彼女は決意したように、まっすぐにラリーを見つめた。その瞳の奥には、これまでにない強い、生きた光が宿っていた。
「……私も、旅に出たい」
エイダリアのその言葉は、何百年もの間、変わらぬ静寂を保ち続けてきた大聖堂の冷たい空気の中に、ひどく重く、そして確かな熱を持って落ちた。
それは、周囲の大人たちに言われるがまま、ただ神に祈りを捧げるための人形として生きてきた彼女が、生涯で初めて、自らの意志で選び取った人生の選択だった。
「ぉ、おお……。んじゃ、一緒に来るか?」
ラリーは、予想外の即答に一瞬だけ目を丸くして面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべ、歓迎の意を示すように大きく肩をすくめた。
「うん」
「即答かよ。まいっか。んじゃ早速行くとすっか」
ラリーは軽い調子で応じると正門の方へと振り返った。
彼が巨大な金属の取っ手に手をかけ、足場を固めて渾身の力を込めようとした、その時だった。
「待って」
背後から、エイダリアの静かで、しかし凛とした声が響いた。
「をん?」
ラリーが動きを止め、怪訝そうに振り返る。
「私が……開けるから」
その言葉には、誰かに連れ出されるのではなく、自らの足で、自らの手で外の世界へ踏み出そうとする強い決意が込められていた。
「……そか。じゃ、頼む」
ラリーは彼女の瞳に宿った新しい光の強さを見据え、満足そうに頷いて一歩身を引いた。
「うん」
エイダリアは真っ直ぐに正門へと歩み寄り、その華奢で細い両手を、見上げるほどに巨大で重厚なオーク材の扉へとそっと添えた。
そっと寄りかかるようにして、腕に力を込める。
――ギィィィィィ……ッ。
扉が完全に開け放たれると同時。
それまで大聖堂の冷たい影を支配していた薄暗がりを完全に切り裂くようにして、眩いまでに温かく、力強い港町の陽光が、ドッと音を立てるように流れ込んできた。
空中に舞う微細な埃が黄金色に輝き、光の帯となってエイダリアの純白の衣装を照らし出す。
吹き込む風が彼女の金色の髪を大きく揺らし、長い間閉じ込められていた乳香の匂いを外へと連れ去っていく。
それは、彼女のこれまでの閉ざされた人生の終わりを祝福し、これから始まる果てしない冒険の行く末を優しく導くかのような、息を呑むほど美しい航海の始まりの光であった。




