014「船上にて」
「おお、そういえば」
買い出しを続けていたウォルフがそう言って歩き出そうとした時、ふと何かを思い出したように足を止めた。
そして、抱え込んだ大きな紙袋の中から、ひときわスパイシーで食欲をそそる匂いを放つ包みを一つ取り出す。
「船で退屈しているであろう、我らが船長の分の昼飯を忘れておったな」
「あ、せんちょーのご飯!」
面白いものを探して辺りをキョロキョロとしていたソエルが、その言葉に反応して振り返る。
「ソエル、お前さん悪いが、これを先にラリーの奴に届けてやってくれんか。儂はもう少し、機関部の修繕に使う細かな部品を見て回りたいのでな」
「ええーっ」
ウォルフの頼みに、ソエルはあからさまに不満そうな声を上げてぷくっと頬を膨らませた。
彼女の視線の先には、色とりどりの飴細工を売る屋台や、見たこともない奇妙な玩具を並べた異国の商人の姿がある。
まだまだこの巨大な『宝石箱』の探検を切り上げるつもりはないらしい。
「む、駄目か?」
「ソエル、まだあっちのお店も見てないもん。ウォルフー、あとで一緒に持って帰ればいいじゃんかー」
未練がましく煌びやかな大通りを振り返るソエルに、ウォルフはやれやれと息を吐いた。
「そうもいかん。あの船長のことだ、儂らが戻る頃には待ちくたびれて、甲板の板でもかじり始めておるかも知れんぞ」
困ったように立派な白髭を掻くウォルフ。
その二人のやり取りを見ていたノアは、ふわりと微笑んで一歩前に出た。
「あの、ウォルフさん。私が行きましょうか?」
ソエルから視線を外し、ウォルフが少し驚いたように聞き返す。
「おお、ノア。いいのか?」
ノアは気負った様子もなく、柔らかく微笑んで答えた。
「はい。私はもう、十分に見させていただきましたから。それに……」
ノアは、圧倒的な熱気を持って行き交う大通りの人々を、少しだけ眩しそうに見つめた。
活気に満ちた平和な光景は素晴らしいが、追われる身として常に気を張っていた逃亡生活が長かった彼女にとって、これほどの人混みは少しばかり息が詰まるのも事実だった。
静かな海風が吹き抜ける甲板の方が、今の彼女には落ち着く気がしたのだ。
「ラリーさんには、助けていただいた恩もありますから。お昼のお届けくらい、私に任せてください」
少しだけ胸を張って見せたノアの健気な姿に、ウォルフは目尻に深い皺を寄せて優しく微笑んだ。
「そうか。では、すまんが頼む。……ほれ、これはセント・アイヴス名物の、海鮮をたっぷり挟んだ揚げパンだ。冷めないうちに持っていってやってくれ」
「はい、承知いたしました」
ウォルフから温かい紙包みを受け取ると、香ばしいパンの匂いがふわりと漂ってきた。
「ノア、ありがとー! あとで美味しいお菓子、買って帰るからね!」
「ふふっ、楽しみに待ってますね」
ソエルに小さく手を振り、ノアはウォルフたちと別れて、一人で港の方へと歩き出した。
喧騒に包まれた大通りから、少しずつ潮の香りが強くなる港湾地帯へ。
並び立つ巨大な貿易船の合間を縫うようにして歩きながら、ノアは自身の胸元をそっと押さえた。
自分は一体、何者なのだろうか。
そして、自分が探し求めている『かけがえのないもの』とは、一体何なのだろう。
こんな得体の知れない自分を、何の疑いもなく受け入れてくれたあの銀髪の青年の顔が思い浮かぶ。
彼の底抜けの明るさと真っ直ぐさに、どれほど救われているか分からない。
やがて、数多の船がひしめき合う桟橋の先に、見慣れた飴色の船体と、誇り高く空を指す二本のマストが見えてきた。
グングニル号だ。
ノアが足早にタラップを登り、甲板へと足を踏み入れると、そこには案の定、退屈そうに大あくびをしている船長の姿があった。
「あーあ、遅ぇなぁ……。腹減って死にそうだぜ……」
船縁に寄りかかり、恨めしそうに街の方を眺めていたラリーが、ノアの足音に気づいて振り返る。
「あ、ノアじゃん。お帰りー」
ノアに向かって弱々しく手を降るラリー。
「ただいま戻りました、ラリーさん。ふふっ、ウォルフさんの予想通りでしたね」
「ん? とっつぁんが何か言ってたのか?」
不思議そうに首を傾げるラリーに、ノアは背中に隠していた温かい紙包みをスッと差し出した。
「はい。ラリーさんがお腹を空かせて、甲板の板をかじっているかもしれないからって」
「おっ! マジか、メシか! とっつぁんの野郎、気が利くじゃねぇか!」
ラリーは目を輝かせて包みを受け取ると、すぐさま中身の揚げパンに勢いよくかぶりついた。
ザクッ、という小気味良い音とともに、彼の顔に満面の笑みが広がる。
「んんっ! うめぇ! なんだこれ、エビか? タコも入ってんな!」
「ゆっくり食べてくださいね。お茶を淹れてきますから」
あっという間にパンを平らげていくラリーの豪快な食べっぷりに、ノアは思わずくすりと笑い、船室へと向かった。
しばらくして、温かいお茶の入ったマグカップを二つ持って甲板に戻ってくると、ラリーはすっかり食事を終え、満ち足りた表情で大きく伸びをしているところだった。
「ふぅー、食った食った。ありがとな、ノア」
「いえ、私は運んできただけですから」
ノアはラリーにお茶を渡し、自分も船縁に寄りかかって、広大な海へと視線を向けた。
——ザザァン、ザザァン。
規則正しい波の音と、上空を舞うカモメの鳴き声だけが、穏やかな午後の甲板に響いている。
「なあ、ノア」
船尾楼でお茶をすすりながら一息ついていたラリーが、ふと真面目なトーンでノアに声をかけた。
買い出しを続けているウォルフたちと別れ一足先に船に戻ってきたノアは、船縁から海を見つめていた視線を船長の方へと向ける。
「はい、何でしょう?」
「これから探しに行くものだけどな……。かけがえのないものって言ってたけど、そんなに大事なものなのか?」
ラリーの言葉には、疑いよりも純粋な好奇心が混じっていた。
ノアの記憶の中にある、太古の遺跡に眠るという『それ』。
誰かに追われてまで守り抜こうとしている以上、途方もない価値があることは想像に難くないが、ノア自身の口からは具体的なことが何も語られていないのだ。
「はい……たぶん、ですけど」
「多分、ねぇ。なにかもっと、具体的な話があればいいんだがな」
ラリーは腕を組み、首を傾げた。
金銀財宝なのか、強力な魔導具なのか、それとも歴史的な文献なのか。
海賊としては、そこが一番気になるところでもあった。
「どういうものなのかは……私にも分からないんです」
ノアは少し申し訳なさそうに眉を下げて俯いた。
自分でも歯がゆいのだ。
それが何よりも大切で、絶対に守らなければならないという強い想いだけが胸の奥に焼き付いているのに、その形すら思い出すことができない。
そんなノアの不安をよそに、ラリーはあっけらかんと言い放った。
「あ、そ。ま、行けばわかるさ」
深い追求をせず、ただ前を向くその真っ直ぐな言葉にノアは救われたような気がして、小さく微笑んだ。
「そうだと、良いのですけれど」
それから、再び穏やかな時間が流れた。
ザザァンと船に白波が当たり砕ける音。
ミャアミャアと船を追いかけるカモメたちの声。
心地よい海風を全身に浴びていたラリーが、ふぁあ、と大きなあくびを漏らした。
こうした平和なひとときは、血の気の多い彼にとっては少しばかり退屈なようだ。
そんな中、ノアはふと甲板の一角に違和感を覚えた。
「ラリーさん」
「んあ?」
「この船には、エイダリアさんとリアさん、それにソエルさん……他に女性はいらっしゃらないですよね?」
ノアの唐突な問いかけに、ラリーは眠たげな目をこすりながら答える。
「ああ、あとはノアだけど」
「では、あの人……船首のほうに立っている、紺色の外套の女性。どなたでしょう」
ノアが指し示したのは、船首楼の先端だった。
本来ならば誰もいないはずのそこに、いつの間にか一人の女性が立っていたのだ。
海霧に溶け込むような濃紺のフード付きケープと、軽量ながら上質な生地のコートに身を包んだ姿。
「うん?」
ラリーは眉をひそめ、訝しげに船首の方へと歩き出した。
ラリーの重い足音が甲板に響き、数歩ほど歩いたところでピタリと立ち止まる。
見知らぬ女性が足音に気づき振り返る。
海風が優しく吹き抜け、外套の裾がふわりと舞う。
その顔に見覚えはない。が、ラリーと同じ銀髪がフードの裾から覗いていた。
警戒すべき見知らぬ侵入者であるはずなのに、彼女と対峙したラリーの胸の奥には、言葉にしがたい懐かしさのようなものが静かに広がっていく。
「ごきげんよう、いいお天気ね」
彼女はラリーとノアに気品のある微笑みを向けると、鈴を転がすような優雅な声でそう言ったのだった。




