015「不思議な女性」
「ごきげんよう、いいお天気ね」
船首楼の先端。空と海を背にして立つその女性は、まるで神話の絵画から抜け出してきたかのようだった。
艶やかな髪が海風に揺れているが、彼女の周囲にだけは、ぽつんと陽だまりが落ちたように暖かな空気が漂っている。
そのあまりに人間離れした美しさに、ノアがどう反応すべきか言葉を失って固まっていると、隣にいたラリーは拍子抜けするほど普段通りの、軽い調子で返事をした。
「ああ、いい天気だな」
警戒心ゼロ。まるで近所の顔見知りに道端で挨拶されたかのような気軽さである。
ノアは思わず目を丸くして、ラリーの横顔を見上げた。
彼の全身からは微塵も殺気や緊張感が感じられない。
「ごめんなさいね、ここから海を眺めたらいい気分じゃないかと思って」
女性は悪びれる様子もなく、ふわりと微笑んだ。
その声は鈴を転がすように澄んでいて、聞いているだけで不思議と心が安らぐ響きを持っていた。
「いや、構わねぇよ。もうしばらく出航はしない予定だしな」
ラリーはあっさりと現状を口にする。
女性は少しだけ嬉しそうに目を細め、彼に向かって優雅に小首を傾げた。
「あなたはこちらの船長さん?」
「ああ、そうさ」
ラリーが少しだけ得意げに胸を張ると、女性は慈しむような眼差しで彼を見つめ、ふと視線を横にずらして隣のノアへと向けた。
「そちらの可愛い女性は……恋人さんかしら?」
「こっ、そっ、そんな、違います!」
唐突に投げ落とされた爆弾のような一言に、ノアは顔を真っ赤にして両手を顔の前で激しく振った。突然の『恋人』という単語に心臓が大きく跳ね上がり、呼吸すら忘れてしまいそうになる。
「あっはっはっは! 全力で否定しなくてもな」
慌てふためくノアの様子がおかしかったのか、ラリーは腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。
その無遠慮で屈託のない笑い声に、ノアはますます顔を熱くさせる。
「す、すみません……でも嫌だとかそういうことじゃなくて! その、えっと……」
否定したことでラリーを傷つけてしまったのではないか。
いや、そもそも自分はどうしてこんなに狼狽えているのか。
しどろもどろになって弁解するそんなノアを見て、ラリーはからかうように笑い続ける。
「くっくっく、気にすんなよ」
「うふふ、仲がいいのね、貴方たち」
二人のやり取りを、その女性はまるで我が子の成長を喜ぶように、優しく見守っていた。
これ以上この話題を続けられては身が持たないと察したノアは、強引に話題を切り替える。
「いえ、その……ところで、あなたは?」
「私? 私は……そうね、ヴァナディース。そう呼んでくれていいわ」
ヴァナディース。
その名を聞いた瞬間、ラリーの動きがふっと止まった。
「ん……?」
彼の心のずっと奥底で、言葉にならない不思議な感覚がさざ波のように広がっていく。
目の前にいるのは、見ず知らずの相手のはずだ。
だが、なぜかこの女性からは、ひどく懐かしく、そして絶対的な安心感をもたらす温もりが漂ってくる。
「ラリーさん?」
「いや……」
ノアに顔を覗き込まれ、ラリーは微かな既視感に眉をひそめて小さく首を振った。
——ザザァン、ザザァン。
穏やかな波の音と、上空を舞うカモメたちの鳴き声が、三人の間の沈黙を優しく埋めていく。
海風が吹き抜け、ヴァナディースの長い髪がきらきらと宙を舞った。
「あら、いけない。私、そろそろ行かなくちゃ」
街の時計塔の方角を見やり、ヴァナディースは名残惜しそうに告げた。
「なんだ、もっとゆっくりして行きゃいいのに。他の仲間もそろそろ帰ってくるぜ」
ラリーの言葉には彼自身も気づいていない、引き止めたいという無意識の情動が混じっていた。
「残念だけれど、そうもいかないの」
ヴァナディースはそう言って、街の喧騒がかすかに届く桟橋の方へと一度穏やかな視線を投げた。
微笑みを浮かべ、風に舞う髪を指先でそっと押さえる。
「そうですか……」
ノアもまた、この見知らぬ女性が去ってしまうことに、一抹の寂しさを覚えていた。
彼女が放つ不思議な気配が、ノアの孤独な心を優しく包み込んでくれていたからだ。
「じゃあ、そうね……お二人に出会えた記念に、一つ、いいことを教えてあげる」
「いいこと?」
ノアが目を瞬かせる。
ヴァナディースは清らかに微笑んだ。
「うふふ。私、占いが趣味なの。今朝の占いではあなたたち、きっと分かちがたい仲になるわ」
「それって……」
ノアの頬が、先程とは違う意味で再び朱に染まる。『分かちがたい仲』という言葉が、すとんと胸の奥に落ちてきて、甘い痺れをもたらした。
「そういうのは信じないことにしてるけどな……まあ、覚えておくよ」
ラリーは照れ隠しのように鼻の頭を掻き、ニヤリと笑って返した。
「おばさんの他愛のない道楽だと思ってくれて良いわ。それじゃ、ごきげんよう」
——コツ、コツ、コツ……。
ヴァナディースが桟橋を歩き去っていく音が静かに響く。
彼女の後ろ姿は人混みへと紛れ、やがて陽炎のようにだんだんと小さく見えなくなった。
彼女が姿を消したあとの甲板には、ほんのりと甘い、清らかな花のような香りが残っていた。
潮風にかき消されてしまいそうなほど微かなその香りは、荒々しい海賊船の空気にはひどく不釣り合いで、それでいて、ずっと昔からそこにあったかのように自然だった。
眩しい陽光が照りつける『帝国の宝石箱』の喧騒はすぐそこにあるはずなのに、今の二人にはどこか遠くの出来事のように感じられる。
まるで白昼夢でも見ていたかのような、ひどく穏やかで静かな余韻が、彼らを包み込んでいた。
「不思議な、人でしたね」
「ああ……なんだったんだろな」
ラリーは、彼女が消えた方角をじっと見つめたまま呟いた。
その横顔には、普段の彼にはない深い郷愁の色が浮かんでいる。
「占いって、言ってましたけど」
「そう、だな……」
ラリーは海をじっと見つめたまま、生返事を返す。
その意識は今ここにはなく、もっと遠い、記憶の濁流の底にある何かを必死に掬い上げようとしているようだった。
「ラリーさん?」
あまりに上の空な彼の様子に、ノアは少しだけ身を乗り出し、不安げにその顔を覗き込んだ。
いつも不敵に笑っている彼の、見たこともないような虚脱した横顔が、彼女の胸を微かにざわつかせる。
「あ? いや、うん」
急に名前を呼ばれ、ラリーは弾かれたように我に返った。
焦点を合わせるように何度か瞬きをし、誤魔化すように視線を泳がせながら、無意識に頭の後ろを掻く。
「どうしたんですか? なんだか難しい顔してます」
「あぁ、うん……あの人な、どっかで会ったような気がしてならねぇんだよな……」
ラリーは胸のあたりを片手で無意識に押さえながら言った。
なぜか胸の奥がじんわりと温かく、言葉にできない感情が渦巻いている。
「そうなんですか? でも、そんな素振りは無かったですけれど……」
ノアは小首を傾げ、先ほどの光景を思い返す。
あの美しい女性の眼差しは確かに慈愛に満ちていたが、それはあくまで初対面の若者たちに向ける穏やかなものであり、旧知の相手を見つけたような感情の揺れは一切なかったはずだ。
「確かに……だが気のせいとは思えないんだがなぁ……」
ラリーは腕を深く組み、なおも釈然としない様子で眉間に皺を寄せる。
ただの他人の空似だと片付けることも出来るだろう。しかし胸の奥で燻るこの奇妙な熱を、どうしても無視できなかった。
「不思議、ですね」
結局答えの出ない疑問に、ノアは潮風に揺れるラリーの銀髪を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あぁ……」
どこか上の空なラリーの短い同意が、吹き抜ける風に乗って静かに消えていく。
二人の間に再び沈黙が落ちた。
——ザザァン。
高く澄み渡った青空の下、波が規則正しく船体を打ち据える。
頭上ではカモメたちが弧を描くように舞い、その鳴き声が遠く響いては消えていく。
ノアはゆっくりと瞬きをして、隣に立つ銀髪の青年を見上げた。
強い海風に髪を揺らしながら水平線の彼方を見つめる彼の横顔はいつも通りの頼もしい船長のそれなのに、今はなぜか少しだけ遠い存在のように見えた。
だからこそ、先程のヴァナディースの言葉が、ひどく鮮明に胸の奥で反響し始める。
『あなたたち、きっと分かちがたい仲になるわ』
記憶のない自分を助け、仲間だと笑ってくれたこの人。
ノアは小さく深呼吸をして、意を決して口を開いた。
「あの、ラリーさん、一つ、いいですか?」
「あん?」
ラリーが視線を海からノアへと戻す。
「あの、ですね、さっき、こいび……」
――ダンッ、ダンッ!
その時、船のタラップを重々しい足取りで登ってくる音が、ノアの言葉を無慈悲に遮った。
「おーう、戻ったぞ!」
「ノア、せんちょー! お菓子買ってきたよー!」
両手いっぱいに荷物を抱えたウォルフの野太い声と共に、ソエルがぴょいっと元気よく甲板へ駆け上がってくる。
その後ろからは、静かに微笑むエイダリアと、彼女を護衛するリアの姿もあった。
先程までの神秘的な静寂を吹き飛ばすように、グングニル号に一気にいつもの騒がしさが舞い戻る。
「おう、ずいぶん時間かかったな。でノア、何だって?」
ラリーがウォルフに向かって軽く手を上げ、それから思い出したようにノアへと向き直った。
ノアは少しだけ肩を落とし、しかしすぐにふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。
「いえ……大した事じゃ無いんです」
言いかけた言葉と一緒に小さな胸のときめきをそっとしまい込み、ノアは騒がしい仲間たちの輪へと歩み寄っていく。
吹き抜ける潮風だけが、彼女のほんのりと赤い頬を優しく撫でていた。




