016「未知なる島へ」
セント・アイヴスを出港したグングニル号は、高く澄み渡った群青の空の下、波をかき分けあてどない未知の海域へと進んでいた。
リアが港の漁師たちから集めた、海での奇妙な出来事の噂と、機関長ウォルフの長年の勘、そして何よりノアの脳裏に焼き付いている曖昧な記憶の断片だけが、今の彼らの羅針盤であった。
「なあ、とっつぁん。まだ見えねぇのか?」
甲板で海図と水平線を交互に睨みつけていたラリーが、もどかしそうに声を上げる。
どかっとあぐらをかいて座るその膝をせわしなく揺らす仕草が、退屈と期待を持て余している証拠であった。
ラリーが焦れるのも無理もないことである。
出航してから既に五日が経過しており、その間彼らは、同じ海域をただひたすらぐるぐると走り回っていたのだ。
「急かすなラリー。海図に載っとらん海域を進んでおるのだ。暗礁にでも乗り上げたら一大事だぞ」
舵輪を握るウォルフが、煙草をふかせながら重々しい声で窘める。
その視線は常に前方の海面を鋭く探っており、老練な海の男の隙のなさを漂わせていた。
「分かってはいるけどよぉ。お宝探しってのは、もっとこう、トントン拍子に進むもんじゃねぇの?」
ラリーは納得いかない様子で口を尖らせ、つまらなそうに甲板の木箱を蹴飛ばしてぼやく。
そんな船長の様子を見て、航海計器の調整をしていたリアが、呆れたように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「まったく、遠足を待ちわびている子供のようですわね。海を舐めていると痛い目を見ましてよ」
彼女の冷ややかな忠告に、ラリーはむっとしたように振り返る。
「なんだと、俺はいつだって真剣そのものだぜ!」
胸を張って言い返す彼へ、リアは一切の容赦なく言葉のナイフを突き立てた。
「ええ、お宝に対してのみ、ですけどね」
いつもの軽口の応酬を背景に、ノアは船首の近くで一人、じっと前方の海を見つめていた。
潮風が彼女の髪を激しく揺らすが、その視線がブレることはない。
セント・アイヴスの港で出会ったヴァナディースと名乗る女性の言葉。
きっと分かちがたい仲になるという不思議な予言が、ふとした瞬間に胸をよぎる。
だが今はそれ以上に、近づきつつある目的地への不安が彼女の心を強く支配していた。
(本当に、この先にあるのかな……私の、かけがえのないもの)
自分でもそれが何なのか分からない。
金銀財宝なのか、誰かとの思い出の品なのか、あるいは恐ろしい何かなのか。
自分が何者なのかすら分からないのに、それを誰にも渡してはいけないという強迫観念だけが、彼女を突き動かしているのだ。
「ノア、こわい?」
ふいに、下から服の裾をちょんと引っ張られた。見下ろすとソエルが大きな瞳でノアを見上げている。
「ソエルさん……ううん、怖くはないの。ただ、ちょっぴり不安なだけ」
ノアは無理に笑顔を作り、自分に言い聞かせるように優しく答えた。
その強がりを見透かしたように、ソエルはえっへんと胸を張ってみせる。
「だいじょーぶ! ソエルたちがついてるよ。敵が出たらばばーんってやっつけてあげる」
「ふふっ、ありがとう。ソエルさんは頼もしいですね」
その無邪気な優しさに救われ、ノアが心からの微笑みを浮かべてソエルの頭を撫でた、その時だった。
「……風が、変わった」
船首楼で静かに目を閉じていたエイダリアが、ぽつりと呟いた。
彼女の長い金髪が、それまでとは違う、どこか湿り気を帯びた重い風に揺れる。
「お嬢様、何か見えましたか?」
リアが即座に反応し、声のトーンを一段階落として尋ねる。巫女のエイダリアが、自分たちが感知できない何かを感じ取ることが出来ることをリアはよく知っていた。
「ん……前方の海域だけ、魔力の流れが不自然に淀んでる。まるで、海そのものが何かを隠そうとしているみたいに」
エイダリアの神秘的な瞳が、水平線の彼方、うっすらと立ち込める海霧の先を射抜く。
その言葉を受けたラリーが、顔つきを退屈を持て余した青年から、獰猛な海賊船長のそれへと一変させた。
最初は、ただの薄い海霧のように見えていた。
だが、グングニル号が進むにつれ、その輪郭が圧倒的な質量を持って眼前に立ちはだかる。
行く手の水平線を完全に分断するように、海原のただ中に、天を突く巨大な塔のごとき白一色の『円柱』がそびえ立っていたのだ。
それは海面から遥か上空、雲に届くほどの高さまで垂直に立ち昇り、広大な海域を円状に囲い込んでいる。
しかも、ただ静止しているのではない。
その表面はまるで意思を持つ巨大な生き物の皮膚のように不気味にうごめき、陽の光を歪な形で吸い込んでは、不規則な乱反射を繰り返していた。
「おいおい、冗談だろ……なんだありゃ。局地的なスコールだってああはならねぇぞ」
ラリーが船縁に身を乗り出し、黄金の瞳を細めてその巨大な白い塔を睨みつける。
彼の顔から、退屈そうな色は完全に消え去っていた。
ウォルフが舵輪を握る手に力を込め、低く唸るような声を出す。
「妙だな、ただの霧なら風で流されるはず。だが、あの白い塔は風に逆らって、そこに留まり続けておる。到底ただの自然現象とは考えられん」
「まるで私たちの侵入を拒んでいるみたいですわね」
リアが眼鏡の位置を直し、懐から魔導銃を引き抜いてその魔力残量を確認する。
ガシャリ、という金属質の冷たい音が甲板に響き、静かな緊張感をさらに引き締めた。
「どうする、ラリー? 迂回するか?」
ウォルフの問いに、ラリーは獰猛な牙を剥いてニヤリと笑った。
「冗談。お宝がそこに隠れてるって、わざわざ看板立てて教えてくれてるようなもんだろ。とっつぁん、このまま正面突破だ!」
「ふっ、言うと思ったわい。総員、突入準備だ! 帆を半開にしろ! 各自、ロープにしがみついておけ!」
ウォルフの野太い号令が甲板に響き渡ると同時に、船上は一気に緊迫した活気に包まれた。
「とっつにゅーだー!」
ソエルは小さく拳を突き上げ、ノアの上着の裾をぎゅっと握りしめながらも、その瞳には冒険者としての好戦的な光をみなぎらせている。
ノアは、目前に迫る巨大な白い壁を見つめながら、自身の胸元を強く押さえていた。
まだ霧の中に入ってもいないというのに、その異様な気配が、彼女の肌を、そして魂を、冷たく撫で回してくるような感覚に襲われていた。
冷気。湿気。そして、深海の底に沈められた太古の記憶。
ドクン、ドクンと、心臓の鼓動が不自然なほどに跳ね上がっていく。恐怖なのか、それとも、奇妙な懐かしさなのか。
「ノア、大丈夫か?」
ラリーが横から声をかける。
その声に弾かれたように顔を上げると、ラリーは不敵に、けれど不思議な安心感を与える温かい笑みを浮かべていた。
「俺の後ろから離れるなよ」
「あ……はい、ありがとうございます」
ノアがコクコクと頷いた、まさにその瞬間。
グングニル号の船首が、その巨大な白い障壁へと接触した。
船体が霧に飲み込まれる瞬間、ひんやりとした薄皮を一枚隔てたような不思議な感覚が全員を包み込む。
船はそのまま、白い海霧の中へと完全に滑り込んでいった。
途端に、波の音が不自然なほど急速に遠ざかっていく。
上空を追いかけてきていた海鳥たちの声すらも、いつの間にかプツリと途絶えていた。
右も左も、空と海の境界線すらも分からない、果てしない白の世界。
まるで時間が止まってしまったかのような、あるいは世界の果てに取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。
だが、拍子抜けするほど、それ以外に異常はなかった。
計器盤を覗き込むリアが、肩透かしを食らったように息を吐く。
羅針盤の針は狂うことなく真っ直ぐに北を指し、帆には順調に風がはらんでいる。
海面は鏡のように滑らかで、グングニル号は普段の航海よりもむしろ快適なほどスムーズに進んでいた。
岩礁にぶつかる気配も、魔物が襲ってくる気配もない。ただただ、無音の白い世界を滑るように進み――。
どれほどの時間が経っただろうか。やがて、唐突にその時は訪れた。
ぱっと視界が明るくなり、眩しい陽光が甲板に降り注いだのだ。
「霧を抜けたぞ!」
ウォルフの安堵の声に、クルーたちは一斉に周囲を見渡した。
だが。
「……おい。島なんて、影も形もねぇぞ」
ラリーが眉をひそめて呟いた。
彼らの目の前に広がっていたのは、先程までと同じ、高く澄み渡る群青の空と、キラキラと輝く穏やかな水平線だけだった。
振り返れば、つい先程まで彼らを包んでいた巨大な白い霧の塔が、まるで何事もなかったかのように静かに海上に鎮座している。
「通り抜けてしまったというのか? コンパスも正常で、間違いなくあの塔の中心部を目指していたはずだぞ」
狐につままれたような顔のウォルフに、エイダリアが静かに首を振った。
「……強力な幻惑の結界みたい。空間そのものを捻じ曲げて、侵入者を自然と島から遠ざけるように誘導してる」
「お嬢様なら、正しい道筋が分かりますか?」
リアの問いに、エイダリアはわずかに目を伏せ、ゆっくりと首を振る。
「魔力の流れが複雑に絡み合いすぎてる。私の力で結界の存在は感知できても、これほど巨大な幻惑を破って正しい航路を割り出すのは、難しい」
エイダリアにも手出しができないという事実に、甲板に重い沈黙が落ちた。
(何かが、いる……)
誰もが手掛かりを失う中、ノアだけは自身の胸の奥で激しく脈打つ奇妙な感覚を感じ取っていた。
ドクン、ドクンと、自分の心音ではない別の鼓動。
息が詰まるような重い空気。
古いカビと、冷たい石の匂い。
どんなに結界が視界を騙そうとも、魂に刻まれたその陰惨な気配を、ノアは見失うはずがなかった。
「……あっちです」
ノアは振り返り、真っ白な塔の壁の一角――中心部からやや外れた方向へと、すっと指を差した。
「あっちって……ノアさん、何か確証はあるんですの?」
リアが怪訝そうに尋ねるが、舵輪に寄りかかっていたラリーは、ノアの迷いのない瞳を見てニヤリと笑った。
「決まりだな。とっつぁん、船を反転させろ! ノアの指差す方へ突っ込むぞ!」
「おうよ! 面舵いっぱーい!」
グングニル号は再び、不気味な白い壁の中へと船首を向けた。
コンパスの代わりにノアの細い指先が示す通りに、ウォルフが慎重に大舵を切り直していく。
船首が再び白い壁に吸い込まれる。
今度は無音の静寂ではなく、微かに潮の香りが鼻腔をくすぐった。
すると。
先程までの静寂が嘘のように、霧の奥からザザァァン! と本物の波が岩肌を打つ音が響いてきた。
「抜けるぞっ!」
ウォルフの叫びとともに、分厚い霧のカーテンが真っ二つに引き裂かれる。
晴れゆく視界の先。
彼らの眼前に、巨大な孤島が唐突に姿を現した。
「見えたぞ! 上陸だ!」




