008【幕間〜壱〜】
その窓一つない石造りの部屋は、静謐で冷たい空気に支配されていた。
唯一の光源は部屋の中央に置かれた円卓の上で、不気味な脈動を繰り返す巨大な水晶球だけだ。
その白磁の肌を持つ滑らかな球体は、周囲の闇を吸い込み、代わりに青白い魔力の光を撒き散らしている。
その水晶を覗き込むようにして、一人の女が立っていた。
闇に溶けそうなほど深い黒の衣装に身を包んだ彼女の瞳に今、ある光景が映し出されている。
それは、メダリアの港を離れ、白波を蹴立てて進む一隻の帆船の姿だった。
「ついに……遂に見つけたわ」
女の唇から、蜜のように甘く、毒のように鋭い呟きが漏れた。
彼女の細い指先が、愛おしげに、あるいは呪うように水晶球の表面をなぞる。
指が触れた場所から波紋が広がり、甲板で笑い合うクルーたちの姿が拡大されていく。
「あの時切り離された半身……あまり期待はしていなかったけど……保険はかけておくものね」
女は満足げに口角を吊り上げ、暗い悦びに浸った。
「あとはこの者たちが導かれるままに、見出したものを頂くだけ」
すべては彼女の掌の上で踊る舞台に過ぎない。
自分は彼らが辿るであろう冒険のその結末だけを、最も美味しい瞬間に刈り取ればいい。
しかし、不意にその表情が凍りつく。
水晶球の中に映る、一人の男の顔――銀髪を逆立て、不敵な笑みを浮かべて舵を取る見知らぬ青年。
その姿が彼女の網膜に焼き付いた瞬間、胸の奥で何百年も前に凍りついたはずの記憶が微かに鳴動した。
「でも、この男……。どこかで、遠い昔……」
女は思わず息を呑み、一歩後ずさった。
彼女は知っていた。
この傲岸不遜な笑い方の奥に見える強さを。
迷いのない、射抜くような眼差しに秘めた優しさを。
だが、そんなはずはない。
自分が知る『彼』は、とっくの昔にこの世から姿を消しているはずなのだ。
「そんなはずは無いわ。そんな事があっていいはずがない」
彼女の声が激しく震える。
かつて愛した、誰かの面影。
だがもしも、あの男が失われたはずの運命そのものであったとしたら。
「でも……。もしかしたら……?」
恐怖にも似た期待が、彼女の冷静な思考を侵食していく。
頭をよぎった可能性を振り払うよう、彼女の手から溢れ出した魔力が、意志を持つ蛇のように周囲をのたうち回る。
石造りの部屋に、ヴゥゥゥン……と低い唸り音が深く、重く鳴り響いた。
水晶球の中で、グングニル号は地平線の彼方へと突き進んでいく。
その彼らの行く先にあるのは栄光か、それとも破滅か。
彼女は狂おしい愛憎を瞳に宿し、闇の中で遥か遠くを見据えるのだった。




