007「星空の宴」
空を赤く染め上げていた太陽が、ゆっくりと水平線の彼方へと沈んでいく。
メダリアの街での荒々しい逃走劇が嘘のように、夜の帳が下り始めた海はどこまでも穏やかだった。
規則正しい波の音が、船底を優しく撫でるように静かな夜の空気に溶け込んでいく。
満天の星々が空に瞬き始め、グングニル号の甲板にはいくつものランタンに温かなオレンジ色の火が灯されていた。
潮の香りに混じって、胃袋を刺激する香ばしい匂いが船上に漂い始めている。
大人たちのジョッキにはキンと冷えた琥珀色のエールや深いルビー色のワインが注がれ、まだ幼いソエルとノアのグラスには、メダリアの市場で買い込んだ甘酸っぱい果実水がたっぷりと満たされている。
「さあお前ら! 準備はいいか!」
甲板の中央に無造作に並べられた木箱のテーブル。その特等席に片足を乗せ、ラリーがなみなみと注がれた木製のジョッキを高々と掲げた。
「今日は俺たちの船に、新しい仲間が加わった記念すべき日だ! ちょいと訳ありみたいだが、まあそれもスパイスってやつだ! ノアの乗船に、乾杯!」
「「「かんぱーい!」」」
ラリーの豪快な音頭に合わせ、ウォルフの野太い声と、ソエルの元気いっぱいの声、そしてエイダリアの穏やかな声が重なる。
がちんと木や金属のジョッキが乱暴にぶつかり合い、琥珀色のエールや果実水が夜空に弾け飛び、甲板の板を湿らせた。
「ほれ、食うぞ! 今日のメインは、メダリアの市場で仕入れておいた大猪の丸焼きと、新鮮な魚介をこれでもかとぶち込んだ特製海鮮シチューだ!」
ウォルフが分厚い鍋つかみを使い、自身の背丈ほどもある巨大な鉄鍋の蓋をガコンと豪快に開ける。
視界を遮るほどの濃厚な湯気と共に、食欲を暴力的に刺激する強烈な香りが立ち昇った。
特製海鮮シチューは大ぶりのエビや殻付きのムール貝、白身魚のぶつ切りがこれでもかと豪快に煮込まれており、魚介の濃厚な出汁と香味野菜の甘みが溶け込んだスープが、ランタンの光を反射して黄金色に輝いている。
そしてその隣に鎮座するのはもう一つの主役。
甲板の上でも使用できるようにウォルフが作成した簡易グリルの上では、特大の鉄串に刺され、じっくりと薪の火で炙られた大猪の丸焼きがその存在を主張していた。
表面の皮はパリッと香ばしく弾け、そこから極上の脂が滴り落ちる。
丸焼きの直下に置かれた大ぶりの鉄板にその脂が落ちると、ジュワッと食欲をそそる音を立てて爆ぜた。
猪肉の表面には、これまたウォルフ特製の秘伝のスパイスがたっぷりと擦り込まれており、野性味溢れる肉の旨味を極限まで引き出していた。
更にその丸焼きの周囲を囲むように、大ぶりの鉄板の上で肉の旨味と脂をたっぷりと吸い込んだ焼き野菜がごろごろと添えられている。
皮ごとホクホクに焼き上がった大ぶりの芋、甘みを増した鮮やかなニンジンや肉厚の玉ねぎが、主役に負けず劣らずの照りを放っていた。
「わあーっ、お肉だー! ソエル、お肉いっぱい食べるー!」
ソエルが自分の顔よりも大きそうな骨付き肉に食らいつき、口の周りをべとべとにしながら無邪気にはしゃぐ。
そのあまりの野生児っぷりに、生真面目な侍女がすかさず注意を飛ばす。
「ソエルさん、よく噛んで食べないと喉に詰まらせますわよ! お肉だけでなくお野菜もちゃんと食べなければ駄目ですよ」
「むーっ! リア、お母さんみたーい」
「お、おかあ……っ!? わ、わたくしはまだそんな年齢では……っ!」
ソエルの身も蓋もない反撃に、リアが顔を真っ赤にして絶句する。
生真面目な彼女はこの騒がしい宴の席にあっても、最低限のテーブルマナーと栄養バランスを守らせようと一人必死だった。
「ふふっ……リア母さん……」
「お嬢様まで! からかわないで下さいませ!」
手元のワイングラスを傾けながら、エイダリアが悪戯っぽく微笑む。
その神秘的な瞳は夜の海を映し出したように深く、そしてどこまでも優しかった。
そんな騒がしくも温かいやり取りをノアは少し離れた木箱の椅子に座り、自分の両手で包み込んだ温かいシチューの入ったマグカップを見つめながら静かに眺めていた。
シチューから立ち昇る白い湯気が、夜風に揺れて消えていく。
(……不思議だな)
ぽつりと、心の中で呟く。
ほんの半日前まで自分は訳も分からないまま、あの仮面の男たちからただ必死に逃げ惑っていたのだ。
なぜ自分が追われているのか。捕まったらどうなるのか。誰にも頼れず、息が切れて肺が焼け付くような恐怖と孤独だけが、彼女の世界の全てだった。
それが今はどうだろう。
波の音、パチパチとはぜる焚き火の音、そして、腹の底から笑い合うこの人たちの声。
ついさっき出会ったばかりだというのに、どうしてこの船のクルーたちは、こんなにも警戒心が無く見ず知らずの自分を当たり前のように輪の中に入れてくれるのだろうか。
「……どうした? 口に合わなかったか?」
ふいに、横から声が降ってきた。
見上げると、ジョッキを持ったラリーが、ノアの隣の木箱にどっかと腰を下ろしたところだった。
「あ……いえ、とても美味しいです。こんなに温かくて美味しいシチュー、初めて食べました」
ノアは慌てて姿勢を正し、マグカップをぎゅっと握りしめて微笑んだ。
「なら良かった。とっつぁんの飯は、見た目はちょいと雑だが味だけは保証するぜ」
「ふふっ……はい。本当に」
ノアの笑い声に、ラリーは満足そうに自身のジョッキを煽った。
ゴクゴクと喉を鳴らしてエールを飲み干し、ぷはぁっ、と大きく息を吐き出す。
「……あの、ラリーさん」
ノアは手元にあるマグカップを包み込む指先にわずかに力を込め、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど小さな声で、隣に座る青年の名を呼んだ。
楽しげな宴の喧騒が少し離れた場所で響く中、彼女の周囲だけが世界から切り取られたような静けさに包まれる。
「ん?」
ラリーはジョッキを口に運ぼうとしていた手を止め、無造作に首を傾げてノアの横顔を覗き込んだ。
その飾らない、真っ直ぐな視線に射抜かれ、彼女は意を決したように、ずっと胸の奥に溜まっていた澱のような問いを静かに口にする。
「本当に、良かったんでしょうか? 私みたいな、得体の知れない人間を……この船に乗せてしまって」
ノアは、膝の上に置いた自分の視線から逃げられないまま、ずっと胸の奥につかえていた不安を口にした。
「私、自分が何で追われているのかも分からないんです。もし、あの仮面の人たちがまた追ってきたら……皆さんに、また迷惑をかけてしまうかも知れないのに」
ノアの言葉尻が微かに震える。
薄暗い路地裏で追い詰められた時の絶望感が蘇る。自分がこの船にいれば、きっと彼らを危険な争いに巻き込んでしまう。
それが分かっているのに、彼らは何一つ文句を言わず、こうして彼女を歓迎してくれている。
それが嬉しくて、そして同じくらい申し訳無くて、たまらなかった。
「お前なぁ……」
ラリーは、心底呆れたというように大きく肩を揺らしてため息をつくと、空いた手で逆立った銀髪の後ろをガシガシと乱暴にかき回した。
「まーだそんなこと言ってんのか。昼間にも言っただろ、お前を助けたのは俺の勝手だ」
彼は隣に座るノアを横目で捉え、面倒なことなど何一つないと言わんばかりに鼻の頭を指で弾いてみせた。
そこには打算も偽りもなく、ただ自分の意志に従ったという海賊らしい傲慢なまでの潔さがあった。
「でも……っ」
「細かいこたぁ気にすんな!」
うつむきかけたノアの言葉を、ラリーが持ち前の突き抜けるような大きな声で強引に遮った。
その迷いのない力強さに、ノアは驚いたように肩をびくりと揺らし、言葉を飲み込む。
「厄介事なんてのはな、この船に乗ってりゃ日常茶飯事なんだよ。今更一つや二つ増えたところで誰も気にしやしねぇさ。それともなんだ、お前はあいつらに捕まった方が良かったってのか?」
ラリーはジョッキを膝に置き、身を乗り出すようにしてノアの顔を覗き込んだ。
背後ではクルーたちの賑やかな喧騒が響いているが、今のラリーの瞳には、目の前の小さな少女を闇から引きずり出そうとする真剣な光が宿っている。
「そ、そんなことは……!」
食い気味に返ってきたノアの必死な否定を聞いて、ラリーは口角を不敵に吊り上げた。
「だろ? だったら、今はただ飯が食えることに感謝して、腹いっぱい食っとけ。お前さんみたいに細っこいと、波が荒れただけで飛んでっちまうぞ」
最後はいつもの不敵な、それでいて太陽のように明るい笑みを浮かべ、ラリーはノアの細い肩を軽く叩いた。
深い慰めでも、人生を説くような大仰な言葉でもない。
ただ、いつものことだから気にするなという、乱暴だがこの上なく心強い宣言だった。
「……っ」
そのぶっきらぼうで真っ直ぐな言葉に、ノアの心に分厚く張られていた不安の氷がゆっくりと溶けていくのを感じた。
ポロリと頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちる。
それは絶望の涙ではなく、ずっと張り詰めていた緊張の糸が解け心が救われた安堵の涙であった。
「……はいっ、ありがとうございます、ラリーさんっ……!」
ノアは袖口で慌てて涙を拭い、今日一番の、満開の花のような笑顔で頷いてみせた。
「おう! さあ、泣いてる暇があったら食え! ソエルのやつに全部食われちまうぞ!」
そう言うと、ラリーは木箱からバネ仕掛けのように立ち上がり、大猪の丸焼きの最も美味しそうな部位へと容赦なく手を伸ばした。
「ああっ! 船長、だめー! それソエルのお肉ー!」
すでに自身の顔ほどもある骨付き肉に齧り付いていたソエルが、獲物を横取りされまいと慌ててフォークを振り回して抗議の声を上げる。
「誰がお前の肉だ! 早い者勝ちだっ!」
大人気なく肉を奪い取ろうとする船長と、それを必死に死守しようとする幼いクルー。
甲板はたちまち、騒がしくも本気の食料争奪戦の舞台へと早変わりした。
「ちょ、船長! 大人げない真似はお止めなさい!」
食事の作法などあったものではない子供じみた惨状に、リアが眉を吊り上げて鋭い怒声を飛ばす。
「はっはっは! ほれ、早く食わんと無くなってしまうぞ」
巨大な鉄鍋の前に陣取るウォルフは、その争いを止めるどころか、腹を抱えて豪快な笑い声を夜空に響かせた。
「騒がしい……騒がしくて、あったかい」
呆れたように、けれどどこまでも楽しげな溜息をこぼしながら、エイダリアが手元のワイングラスを傾けて優しく微笑む。
夜空へと溶けていくその幸せな喧騒を、ノアはマグカップから伝わる温もりを胸に抱きながら、いつまでも大切にするように見つめ続けていた。
満天の星空の下、広大な海にポツリと浮かぶ一隻の奇妙な船。
追われる身の少女が偶然辿り着いたその場所は、騒がしくも、どこまでも温かい光に包まれていた。
ノアの不安に満ちた新しい日常が、彼らの笑い声と共に、少しずつ穏やかな色を帯びて静かに幕を開けたのである。




