006「出帆」
「不思議な? 初めて? あの、それは一体……」
エイダリアとソエルの、どこか浮世離れした会話にノアが戸惑っていると、凛とした、しかしどこか艶やかさを含んだ知的な大人の女性の声が、甲板の空気を鮮やかに塗り替えた。
「お嬢様は海神の巫女であられますゆえ、我々には見えない魔力を感じることが出来るのですわ」
エイダリアの後方に控えていた女性が前に進み出てそう言葉を切り出す。
漆黒の髪を無造作に後ろで束ねた、理知的な雰囲気の女性だった。
細いフレームの眼鏡の奥で光る知的な瞳と、スッと通った鼻筋が、彼女のクールな大人の美しさを際立たせている。
彼女のしなやかな長身を包むのは、深い青色を基調とした細身のロングコートだ。
胸元が大きく開いたタイトなシルエットと、内側から少しだけ覗く白いシャツの襟が、彼女の成熟した色香とストイックな気品を同時に演出している。
だが、その知的な秘書や教官のような出で立ちに対し、腰から下の装備はひどく物騒なものであった。
足首まで届くコートの右側には極端に深いスリットが入っており、一歩踏み出すごとに、黒いハイヒールのロングブーツに包まれたスラリとした美脚が惜しげもなく覗く。
さらに腰には、太く無骨な革のガンベルトが斜めに巻かれ、弾薬と、それを使用するであろう、アンティーク調の鈍い真鍮色の輝きを放つ二丁の拳銃が吊り下げられている。
そんな彼女の立ち姿は、冷たく研ぎ澄まされた刃のような、圧倒的な美しさを誇っていた。
ノアの驚きを余所に、紹介されたエイダリアは小さく首を振った。
「そんな大層なものじゃないの。ただ、ちょっと不思議な力を感じられるだけ」
「は、はぁ……」
圧倒されるノアに、コート姿の女性は眼鏡の縁を指先で軽く押し上げながら、不敵な笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「お嬢様が仰られるには、この船にはそういった力を持った者が集まりやすいという話ですの。そして理解できないことに、船長が最もそういった力を秘めているとか。全く、なんであんな人間が……」
彼女の視線が、隣で得意げに鼻を鳴らしているラリーへと向けられる。
その言葉には、明らかな呆れと、隠しきれない毒が含まれていた。
「リア、そういう言い方しないで。この不思議な力は、持っているだけでも凄いことなの。今まで沢山の人に出会ったけれど、これだけの力を感じられる人は、船長と先代くらい」
エイダリアが優しく、しかし真剣な面持ちで諭すように言う。
その言葉を聞くや否や、ラリーは目に見えて調子に乗った。
彼はまるで天下でも取ったかのような得意顔になる。
「え、何? じゃ俺、そんなに凄いんだ?」
ラリーはこれ見よがしに胸を張る。
だが、リアと呼ばれた女性の追撃は容赦なかった。
「宝の持ち腐れですけれどね!」
氷のように冷ややかな、しかし迷いのない即答。間髪入れずに突き刺された痛烈な一言に、ラリーは顔を真っ赤にして身を乗り出した。
「なっ、この、見てろよ、今に手からどぶわ〜っと炎出したり雷呼んだり、それから……」
子供のようにムキになって言い返すラリーを無視して、エイダリアはノアに向き直った。
騒がしい男を視界から外すようにして、彼女は穏やかな微笑みを絶やすことなく紹介を続ける。
「船長の魔力はそういう使い方をするものでは無いのだけれどね。リア、彼女に挨拶を」
「失礼致しました。リア・ファイルと申します。エイダリア様の侍女をさせて頂いております」
リアは流れるような優雅な動作で、コートの裾をつまむ代わりに従者の礼を示した。
しかし、ラリーがその横から茶々を入れる。
「こわーい先生だからな、気をつけろよ」
「何ですって?」
リアの眼鏡の奥の瞳が、スッと細められる。その背後に立ち上る目に見えないプレッシャーに、ノアは思わず身を縮めた。
二人の間に散る目に見えない火花が、甲板の温度を何度か下げたような錯覚すら覚える。
「は、はぁ……」
そんなノアの様子に気づいたのか、リアは一転して柔らかな微笑みを浮かべた。
先程までの刺々しさを霧散させ、彼女はどこか楽しげに、同じ女性としての親愛を示す。
「今のは無し。どうかお気になさらずに、ね。こんな所ですから、女性が増えるのは心強いのです」
「こんな所たぁご挨拶だな」
重厚な、しかし年季の入った渋い声が響く。
そこにいたのは歴戦の職人だけが持つ、静かで渋みのある空気を纏った初老の男だった。
短く刈り込まれた白髪に、口元から顎を覆う整えられた白い髭。
機械と共に歩んできた年輪を感じさせる深く刻まれた皺の奥には、どんな不測の事態にも動じない冷静で頼もしい眼光が宿っている。
口元には火のついた煙草がくわえられており、紫煙を細く燻らせるその仕草は、彼が思考を整える時の小さな癖であった。
その年齢に反し、シンプルな白いTシャツから伸びる太い腕は、長年の重労働によって鍛え上げられた分厚く逞しい筋肉に覆われている。
上には首元にボアをあしらった無骨な黒いベストを羽織り、下半身は油汚れや摩擦に強いオリーブドラブのカーゴパンツと、頑強な黒いワークブーツで隙なく固めていた。
分厚い黒革のグローブをはめた手には、彼自身の相棒とも言える巨大な銀色のレンチが軽々と握り込まれている。
腰の丈夫なベルトに提げられた使い込まれたレザーのツールポーチには、ドライバーなどの工具が整然と収められており、いつでも機械の修理に取り掛かれる職人としての矜持を伺わせた。
彼から漂う油と煙草の匂い、そして地に足のついた堂々たる佇まいが、彼がどれほど腕の立つ、面倒見の良い頼れる技師であるかを雄弁に物語っていた。
「これは申し訳ありません。勿論、ウォルフ様の手がけたグングニル号はとても良い船でございます。ただ、船長がコレですけれども」
「コレって何だよ!」
リアが再度ラリーを指して溜息を吐く。すかさずラリーが抗議の声を上げるが、ウォルフと呼ばれた老人は苦笑を浮かべて、愛用のレンチを腰のホルスターに収めた。
「そこは目を瞑ってくれと言っておるだろうに」
彼が肩の力を抜くと、その逞しい体つきとは裏腹に、包容力のある穏やかな空気がその場に広がった。
「もしもーし」
完全に蚊帳の外に置かれたラリーが抗議の声を上げるがウォルフはそれを気にも留めず、ノアに向かって丁寧に、しかし力強く名乗った。
彼はノアの目線に合わせて腰を落とすと、深く刻まれた皺の奥にある瞳を優しく細める。
「ああ、失礼。儂はウォルフ。魔力とやらはからっきしだが、機械に関しちゃ少々自信がある。何でも聞いてくれ」
「は、はい」
次々と現れる、あまりにも個性が強すぎる面々に、ノアは返事をするのが精一杯だった。
そんなやり取りを見ていたラリーが、肩を落として呟く。
威厳を見せるどころか、新入りの前で次々と恥を晒していく現状に、彼は額のゴーグルをいじりながら、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
「なんか俺、置いてけぼりな上に貶されてんだけど?」
「気にするな、いつものことだ」
「いつものことー!」
ウォルフの言葉に、ソエルがこれ以上ないほどの元気な声で唱和した。
マストの網にぶら下がったまま、ちぎれんばかりに腕を振る彼女の姿は、ひどく無邪気で楽しそうだ。
そのあまりに息の合った、そしてラリーを蔑ろにするようなテンポの良いやり取りに、ノアの胸の奥でせり上がってきた緊張が、不意に崩れ去った。
「ぷっ……くすくす」
一度漏れ出すと、もう止まらなかった。ノアは慌てて口元を両手で押さえたが、それでも笑い声が零れ落ちる。
これまで自分を縛り付けていた得体の知れない恐怖が、この賑やかな連中の空気によって一瞬で溶かされていくのを感じていた。
「ごめんなさい……あまりにも可笑しくって」
その笑い声に誘われるように、甲板にいた一同の間にも、穏やかな笑いの輪が広がっていった。
ラリーは少しだけ気恥ずかしそうに鼻の頭を掻くと、照れ隠しをするようにノアの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「気にすんなよ。お前さん、やっぱ笑ってたほうがいいぜ」
不意に投げかけられた真っ直ぐな言葉に、ノアは不思議そうに目を瞬かせる。
「そう、でしょうか……?」
そんな彼女の初々しい様子に、エイダリアが静かに、けれど確信を込めて言葉を添えた。
「うん、そのほうが綺麗」
エイダリアが静かに添えた言葉に、ノアの頬が林檎のように赤く染まる。
だが、その表情には先程までの怯えや不安は微塵も残っていなかった。
彼女は自分の胸元をぎゅっと握りしめ、自分を拾い上げてくれたこの場所で、もう一度前を向く決意を固める。
「頑張り……ます!」
小さく、しかし力強いノアの宣言。
それを受け、ラリーは腰の鈍器を一度強く叩くと、天を仰いで力強く号令を下した。
「いよぅし! そんじゃ一発、最大船速で出発と行くか!」
その声とともに、それまで緩やかだった空気が一気に引き締まり、各々が熟練の動作で自分の持ち場へと動き出す。
リアは流れるような動作で船尾へと向かい、航海計器を確認し始める。
エイダリアは静かに目を閉じ、風の流れを、あるいは目に見えぬ何かを読み取ろうとしている。
ソエルは小さな体を弾ませてマストの網を駆け上がり、ロープを器用に解いていく。
ウォルフは豊かな白髭を揺らしながら、船尾楼の重厚な舵輪へと向かった。
ノアは、その眩しいばかりの光景を呆然と眺めていた。
自分がいたはずの、静かで、しかし閉塞感に満ちた世界。そこから無理やり引き剥がされ、流れ着いた先は、想像もしていなかったほどに騒がしく、そして自由な風が吹く場所だった。
グングニル号。
その古めかしくも力強い船体が、波のうねりを受けて心地よい軋み音を立てる。
まるで、これから始まる長い旅路への期待を語りかけているかのようだった。
——バツンッ!
頭上で解放された巨大な純白のメインセイルが、港に吹き込む海風をいっぱいに孕んで大きく膨らんだ。
潮の香りと、張り詰めた帆布の弾ける音。
それらすべてが混ざり合い、一つの巨大な生き物のように船が目覚めていく。
「さあ、出帆だ!」
ラリーの声が、メダリアの青空に響き渡った。
帆が風を捉え、ゆっくりと、しかし着実に岸を離れ始める船。桟橋で見送る人々の姿が、徐々に小さくなっていく。
ノアは、自分を捕らえようとしていた仮面の男たちがいた街が遠ざかっていくのを、船縁に手をかけて見つめていた。
不安がないわけではない。
自分の中に眠るという『いろいろ』が何なのかも分からない。
けれど、この騒がしくも温かな海賊たちとなら、どこまでも行けるような気がしていた。
空の蒼と海の碧が溶け合う、その無限に続く地平線の先へ。
少女と五人の風変わりな海賊たちを乗せて、グングニル号は、追い風に乗って新たな冒険の航跡を刻み始めた。




