004「物語の始まり」
メダリアを街の入り口から港まで縦に二分割するように伸びる中央大通り、その更に中間点にある噴水広場。
数多の人々や馬車でごった返すその広場まで逃げてきた所で、青年と少女はようやくその足を緩める。
仮面の男たちはもちろん、被害者の保護よりも加害者の捕縛を優先しているのであろう官憲たちも、二人を追いかけてきている様子はなかった。
後方を軽く確認し、問題がないと判断したのであろう青年はそこで足を止め、同じく立ち止まって大きく肩で息をする少女へと声を掛ける。
「ふぅ……まったく、いいタイミングで来てくれたぜ。そろそろいいだろう。お嬢さん、よく頑張ったな」
「はぁっ、はぁっ……は、はいっ……」
大して疲弊した様子もない青年とは対照的に、少女は息も絶え絶え。
手を膝につき、顔を上げることも無く、息を整え少しでも体力を回復させることに専念している。
元々長い時間逃走劇を繰り広げていた上に、最後の最後での全力疾走。
見た目通りの小柄な少女の体力ではいささか酷なロードワークであっただろう。
許されるものならこの場で全身を投げ出し大の字で地面に寝そべりたい。
少女が内心そう思ってしまうのも無理のない話だった。
「ちょっとそこで待ってな、飲み物を買ってくる」
青年は少女にそう告げ、周りに立ち並ぶ屋台の一つへと向かっていく。
そこでは恰幅の良い熟年の女性店主が道行く人々に快活な声で呼び込みをしていた。
どうやら果実水を売っている店のようであった。
店先に並んだ2つの大きな樽の中には氷水と、その中に沈められている瓶に詰められた飲み物が太陽に輝いてキラキラと光を反射している。
「よう、そいつを二つくれ。冷えてるんだろうな?」
青年は屋台の軒先に無造作に並べられた色鮮やかな瓶を指差し、悪戯っぽく笑いながら店主へと声をかけた。
顔なじみというわけでは無さそうだが、彼のどこか人を食ったような、けれど憎めない飄々とした態度は、初対面の相手の懐にもあっさりと入り込んでしまう。
「当たり前だよ、嫌なら買わなくていいんだよ!」
恰幅の良い女性店主も負けじと、大きな身振りと威勢の良い声で言い返す。
港町特有の、気風の良さと商魂の逞しさが滲み出るような小気味良いやり取りだ。
「はは、カンベンしてくれよ! ほらよ」
青年は笑いながら、腰の小袋から硬貨を取り出してカウンターへと放り投げた。
チャリン、という小気味良い金属音が屋台に響く。
「まいどあり!」
青年は、汗を拭いながら豪快に笑う店主と軽口を交わし、よく冷えた果実水の瓶を二つ受け取った。
大して間を置かずに、青年は噴水のへりに腰掛けて休む少女の下へと戻り、瓶の片方を彼女に手渡した。
「ほら、飲めよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
おずおずと青年から瓶を受け取る少女。
青年から受け取ったそれは、程よく冷えていて火照った手の平に心地よい冷たさをもたらした。
「礼なんかいらねぇよ……んぐっんぐっ、ぷはぁ!」
青年の方も喉が渇いていたのであろう。彼女の隣へ腰掛けて一息入れると、そのまま瓶を傾けて一息に果実水を飲み干してしまった。
見知らぬ男から手渡されたことにやや警戒するものの、自身もすっかり喉が渇いてしまっている。
更にはそんな自分の横で美味そうに喉を鳴らす青年の様子に、誘惑に抗えないまま彼女もまた水分を欲する己の喉へと果実水を流し込んでいった。
「んっ、んっ……はあぁ」
果実の爽やかな香りと酸味、わずかな甘みを感じさせつつも程よく冷たくなっていたそれは、あれよあれよと言う間に少女の口へ吸い込まれていく。
疲労し切った少女の身体へと果実水はすんなりと染み渡っていった。
「さて……と。成り行きでこんなことになったが、名前くらい聞いておいてもいいか?」
噴水のたもとでお互いに冷えた果実水を飲み干し、逃走で火照った身体に心地よい清涼感が染み渡り一息ついたところで、青年は空になった瓶を片手にそう話を切り出した。
「あ……はい、すみません」
まだ完全に緊張が解けきっていないのか、少女は少し肩をビクッと跳ねさせてから、慌てて居住まいを正した。
「俺はラリー。ラリー・ヒューアだ。船長なんてモンをやってる」
青年——ラリーは、親指で己の胸をドンと指差し、屈託のない快活な笑顔を向けた。
その堂々とした名乗りに、少女はパチパチと目を瞬かせる。
銀髪にゴーグル、そして背負った奇妙な鈍器。到底一般的な船の船長には見えないが、彼から発せられる不思議な頼もしさは、確かに人の上に立つ者のそれだった。
「ラリーさん、ですか」
「あんたは?」
「私、私は……ノアって言います。あの、助けていただいてありがとうございます」
問われた少女——ノアもまた、両手で瓶をぎゅっと握り締めながらぺこりと深く頭を垂れ、青年に名乗り返す。
「気にすんなって。たまたま見かけて俺が自分から首突っ込んだだけなんだからよ」
ラリーは照れ隠しのようにガシガシと後頭部を掻きながら、大したことではないとばかりに笑い飛ばす。
その底抜けの明るさにノアは救われる思いがしたが、同時に、これ以上見ず知らずの親切な彼を、自分の厄介事に巻き込むわけにはいかないという強い自制心が働いた。
「……あの、本当にありがとうございました。今は何もお礼は出来ませんが、このご恩は忘れません。では……」
今回は彼のお陰で切り抜けることは出来たが、また同じことが起きないとは限らない。
一刻も早くこの場から、いやむしろこの街から離れなければ。
ノアは深く一礼すると噴水のへりから立ち上がり、衣服の砂埃を軽く払う。
そして、どこか名残惜しそうな気配を無理やりに断ち切るように踵を返し、再びあてのないメダリアの雑踏の中へと独り歩き出そうとした。
「まままま、ちょい待てって。そんな慌てて逃げなくたって別に取って食いやしないって」
しかしラリーはそんなノアの心境を知ってか知らずか、彼女を引き留める。
踵を返そうとしていた彼女はまさか呼び止められるとは思っていなかったのか、無意識のうちにびくりと肩を大きく跳ねさせてしまった。
その様を見ていらぬ警戒をさせてしまったと感じたラリーは、引き留めようと伸ばしかけた片手を所在なさげに自身の首の後ろに回してポリポリと掻いた。
「あー、悪い。なんか訳アリっぽかったからよ。良かったら話してみないか?」
ラリーは頭を掻きながら、決して強要はしない、どこまでもフラットで気安いトーンで問いかけた。
「ですが、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
ノアは痛いところを突かれたように俯き、膝の上でギュッと両手を握りしめる。
これ以上、この親切な青年に厄介事を背負わせるわけにはいかない。
そんな強い葛藤が、彼女の表情を固く強張らせていた。
「ま、これも何かの縁ってな。話したくないってんなら仕方無いが」
立ち去ろうとする彼女の背中に、ラリーはあっさりと引き下がってみせる。
無理に聞き出そうとしないその絶妙な距離感と不器用な優しさが、逆にノアのピンと張り詰めていた警戒心の糸をふっと緩ませた。
「いえ……すみません。とは言っても私も分からないんです」
申し訳ないとは思いつつも、絶体絶命の窮地を救ってもらっておいて無碍に断ってしまうのも心苦しい。
何より、彼のその裏表のない態度に、ノア自身が少しだけ縋りたいと思ってしまったのだ。
彼女は迷った末に、ゆっくりと再び噴水のへり、彼の隣へと腰を下ろしてぽつりぽつりと口を開いた。
「分からない?」
ラリーが不思議そうに首を傾げ、静かに先を促す。
「はい。街を歩いていたらいきなりあの人たちに付いて来いって言われて。でもどう見ても怪しかったじゃないですかあの人たち。だから……」
ノアは手元の空になった果実水の瓶を見つめながら、手探りで記憶の糸をたぐるように話し始める。
思い出すだけでも恐ろしいのか、仮面の男たちの異様な姿を口にした時、彼女の細い肩が微かに震えていた。
上等な衣服に身を包んだ二人の男。
そんな得体の知れない連中が、正体を隠すように仮面まで被っているのだ。
たとえ彼女でなくともそんな状況に遭遇してしまったら、回れ右をして一目散に逃げ出すのは自明の理であると言えるだろう。
「逃げたら追いかけられた、と。なるほどな……んな人攫いの真似事なんざするような奴等じゃ無いはずなんだが。今度は何考えてんだあのお嬢……」
状況を把握したラリーは空き瓶を持ったまま何やら考え込み、そう呟いた。
「あ、あの、もしかしてお知り合いで……?」
そんな彼の様子から不穏な気配を察したノアは、座った体勢のままススッと横にスライドしてラリーから距離を取る。
彼の手が届かず、万が一にはいつでも逃げ出せるように。
助けてもらった恩はあれどあの怪しい二人組と知り合いというならば、彼女が警戒レベルをぐんと引き上げるのも致し方ないことであった。
「まぁちょっとな……あーいやいや、別にあいつらの仲間ってわけじゃ無いから。頼むからそう警戒すんなって。さっきも言ったが俺は別にお前さんをどうこうしようってつもりはないからさ」
そして彼女がそう考えてしまうのも無理が無いことであると感じ、彼も慌てて釈明する。
両手の手の平を肩の高さで軽く開いてみせ、自分が無害であることをアピールした。
「うわ、っとっとっと」
そしてそんな仕草を取ったことで持っていた空き瓶を思わず離してしまい、地面に落ちる前に慌てて掴み直す。
その少し滑稽な様と弁明する姿に、どうやら本当に悪い人ではなさそうだと思ったノアは引き上げた警戒レベルを少し戻した。
「はぁ……分かりました」
ほんのちょっとだけ彼との距離を戻す。
ほんのちょっとだけ。
「いや今のは俺が悪かった。んでノア、お前さん今後のあてはあるのかい?」
「あ、いえ……」
両手で空き瓶をぎゅっと握りしめるノア。
やや俯き、表情も曇ってしまう。
本来ならば誰か知り合いのところに駆け込むか、先程は成り行きで逃げてしまったが憲兵の詰所に行ったりするべきだろう。
しかし彼女はそういった手段は取れない。
取れない理由が彼女にはあったのだ。
「そうか……なぁノア。良かったらなんだが」
そんな彼女の様子からただごとではない事情を感じたラリーは、ふいにノアへ提案する。
「俺の船に乗らないか?」
「……はい?」
これがラリーという青年とノアという少女を中心に、大きく繰り広げられる物語の序章だったのであった。




