031「スレイプニル」2
「あっ、そ……。まあいいや……それよりほら、頼みたいことがあるんだ。この船を直してくれ。出来るんだろ?」
ネーミング論争があっさりと『プーちゃん』に落ち着き、甲板に奇妙な静寂が戻った後。
ラリーは自身の野望が打ち砕かれた不満を無理やり飲み込むと、掌で青白く輝く水晶の駒に向かって極めて現実的で切実な願いを口にした。
絶海のど真ん中でマストも無く、燃料もない。文字通り丸太のように漂流するしかない今の絶望的な状況を打破するには、もはや人知を超えた力に頼るしかなかった。
どんな奇跡でも起こせそうなこの秘宝の力が本物であるならば、船の修復など簡単な筈だった。
《造作もない》
ラリーの期待に応えるように、スレイプニルは大地を震わせるような声で即答した。
その神々しいまでの頼もしさと、一切の迷いがない力強い返答に、ラリーが心の底から安堵の息をつこうとした、まさにその時である。
「ああ、ちょっと待ってくれスレイプニル。二、三ほど注文があるのだ」
ガサリ、と。
背後から、分厚い羊皮紙の束を広げる重々しい音が響いた。
振り返ると、そこにはいつの間にか船尾楼から降りてきていたウォルフの姿があった。
彼の両腕にはどこから引っ張り出してきたのか、グングニル号の複雑な内部構造を記した巨大な設計図面が何枚も抱えられている。
その目には、伝説の秘宝に対する畏敬の念など微塵もなかった。
あるのはただ、純粋な技術者としての欲望と、この機に乗じて自身の理想の船を組み上げようとする恐ろしいまでの探求心だけである。
《力の行使には手綱を引く者の許可が必要だ。構わないか?》
スレイプニルがふよふよと浮きながら、ラリーへ向き直り尋ねる。
「ん? あぁ、難しいことは全部とっつぁんに任せてるから聞いてやってくれ」
《承知した》
ラリーはこともなげにスレイプニルにそう返答した。
「助かる。実はな、圧力器の缶体の強度問題で、機関の出力は現状が限界だったのだ。だが、もしお前の力で装甲の材質そのものを変化させられるのであれば話は別だ。シュライバー兄弟が提唱していた最新の冶金技術を導入して、機関部の耐熱限界を今の三倍に引き上げたい。それに伴ってスクリューの羽の形状も、より推進力を得られる流線型に……」
許可を得るや否や、ウォルフは設計図を甲板に広げ、神話の存在に向かって専門用語の嵐を機関銃のように浴びせかけ始めた。
それは単なる『修復』の域を遥かに超えた、完全なる『魔改造』の要求であった。
《造作もない》
驚くべきことに、伝説の幻馬はウォルフの高度な技術論を完全に理解し、まるで有能な設計士のように次々と最適解を返し始めた。
「それよりとっつぁん、船首の姫様をもっと立派にしてやろうぜ!」
マニアックな技術トークが白熱し始めたところに、ラリーが横から嬉々として割り込んだ。
彼が指差したのは、船の先端。この船の守り神となるべき女神の彫像、フィギュアヘッドが飾られている場所だ。
元の彫像は先程の砲撃の余波で半分欠け、なんとも情けない姿を晒している。
「もっとこう、ババーン! としてて、金ピカで! 敵の船がビビって逃げ出すような、強くてデカくてカッコいい女神様にしてくれよ、プー!」
「阿呆かお前は。船首の重量バランスが崩れたら、波を切る速度が落ちるだろうが。そんな無駄な装飾にリソースを割くくらいなら、装甲板の厚みを二インチ増やす方がよっぽどマシだ」
ラリーのロマンあふれる要求を、ウォルフが技術者としての徹底した合理主義で一蹴する。
「お風呂、つきません?」
さらにそこへ、エイダリアが相変わらずののんびりとした、しかしこれ以上なく切実なトーンで『お風呂建設』の要求をちゃっかりとねじ込んできた。
先程の大波で頭から大量の海水を被り、全身がベタベタに潮を吹いている状況において、彼女にとって船の速度や装甲などよりも、温かいお湯に浸かれることのほうが百万倍重要だったのだ。
「そうですわ! 絶対に必要です!」
エイダリアの提案に、リアがものすごい勢いで食いついた。
彼女もまた、丁寧に手入れしていた髪が海水のせいでギシギシになっていることに、限界ギリギリのストレスを抱えていたのである。
「乙女の身だしなみを整える場所がないなど、文化的な生活とは到底呼べませんわ! なによりお嬢様をいつまでもこんな劣悪な環境に置いておくことなど出来ません! 最低でも足を伸ばせる湯船と、広々とした脱衣所、それに常に清潔な真水が出る給水システムを要求します!」
誇り高き侍女の、血を吐くような訴えであった。
「うむ、分かっとる、分かっとるから急かすな。でだなスレイプニル、圧力器からの高圧蒸気はここを迂回させて上甲板にも回し、その配管の余熱を利用して真水を温めれば、常時稼働する浴場システムが構築できるはずだ。どうだ、いけるか?」
《可能である。空間拡張の法術を応用すれば、船体のバランスを崩すことなく、内部の居住空間を広げることなど造作もない》
「ほぅ、そんな技術があるのか。ではこういうのは……」
技術者であるウォルフはその無茶振りすらも全て排熱システムと魔力配分の再設計に組み込み、神話の存在に対してさらに複雑な注文を重ねていく。
スレイプニルもまた、彼らの欲望にまみれた要求の数々をパズルでも解くかのように楽しみながら、次々と『造作もない』と承認し続けていた。
誰も彼もが、伝説の秘宝に対して遠慮というものを一切持っていなかった。
この船に乗っている者たちは、神の奇跡すらも便利な道具として使い倒す図太さを持っているのだ。
ラリーの豪快な笑い声。
ウォルフの熱のこもった解説の声。
お風呂の完成を想像して喜ぶエイダリアとリアの明るい声。
平和で騒がしい、いつものグングニル号の光景。
だが、その声が、波の音に混じって少しずつ、少しずつ遠ざかっていくように感じられる。
(どうしたんだろう。胸が……苦しい……)
そんな喧騒から少し離れたマストの影で、ノアは一人、自身の胸元をぎゅっときつく握りしめていた。
先程、自身の意志とは関係なく言葉を紡がされた時よりも、さらに重く、冷たい何かが心臓を鷲掴みにしているような感覚。
視界の端がチカチカと明滅し、周囲の光景が水の中にいるように歪んでいく。
「らりー……さ、ん……」
助けを求めようと伸ばした手は空を切り、ノアの小さな声は、船の修復に沸き立つクルーたちの歓声にかき消されて、誰の耳にも届くことはなかった。




