030「スレイプニル」1
帝国の思惑など知る由もなく、大海の只中で漂流を続けるグングニル号。
甲板の端にいたノアが突然、普段の彼女からは想像もつかないような、低く冷たい言葉を発したかと思うと、まるで操り糸を切られた人形のように意識を手放し、その場に倒れ伏してしまった。
「おいノア!」
ラリーが悲鳴のような声を上げて駆け寄り、倒れた彼女の華奢な身体を慌てて抱き起こした。
血の気が引いたように青白い彼女の顔色を見て、クルーたちの間に緊迫した空気が走る。
しかし、幸いにも彼女が深い闇を彷徨っていた時間は、そう長くはなかった。
「ん……」
ほんの数秒の後。
ノアの長いまつ毛が微かに震え、ゆっくりとその瞳が開かれた。
「あれ、私、なんで…」
焦点の合わないうつろな瞳で空を見上げ、ノアが弱々しい声を漏らす。
「良かった、目ぇ覚めたか!」
ノアの背中を支えるように抱きかかえていたラリーが、心底ホッとしたように大きな声で言った。
その温かく力強い腕の感触に、ノアは自分が彼に抱き抱えられていることに気づき、ぼーっとした様子のまま小さく瞬きを繰り返した。
「私、どうして倒れて……」
「あいつを見て、なんかわけ分かんねぇこと喋ったと思ったら倒れたんだ。覚えて無いか?」
ラリーは顎をしゃくり、ノアの視線の先を指し示した。
彼が指した空間には、先程まで彼の手の中にあったはずの水晶の『ナイトの駒』が、誰に支えられることもなく空中に漂うようにフワフワと浮かび上がり、真昼の太陽をものともしない強烈な青白い光を放ち続けていた。
「ええと、朧気ながら…」
ノアは痛むこめかみを指先で押さえた。
完全に記憶が飛んでいるわけではない。
他人の意思に身体を乗っ取られ、自分の口が勝手に恐ろしい警告の言葉を紡いでいた感覚が、心臓の奥底にこびりついている。
だが、今はそれよりも、心配そうに見つめてくるラリーや仲間たちの存在が、彼女を確かな現実へと引き戻してくれた。
「大丈夫です、もう平気ですから」
ノアは小さく頭を振り、ラリーの腕からそっと抜け出すと、よろけながらも自らの足で甲板に立ち上がった。
一過性の憑依現象のようなものだったのか、立ち上がった彼女の瞳には普段通りの穏やかな光が戻り、やがていつもの気弱だが元気な様子を取り戻していった。
「無理すんなよ」
ラリーが気遣うように声をかけるが、ノアの視線はすでに、空中に浮かぶ奇妙な発光体へと釘付けになっていた。
小さな馬の頭部を象った水晶の彫像。
それが呼吸をするように明滅を繰り返している。
やがて、その青白い光が一段と強く輝きを増した、次の瞬間。
大地を震わせるような、重々しく、そして何千年もの時を生き抜いてきたような絶対的な威厳に満ちた声が、彼らの耳を通さず、脳内に直接響き渡った。
《我が名はスレイプニル』》
たった一言。
しかし、その声が孕む途方もない魔力と圧倒的な存在感に、船上の空気は完全に支配されていた。
波の音さえも遠のいたかのような錯覚の中で、ただ水晶の駒だけが、まるで力強く呼吸をするかのように明滅を繰り返している。
「なんと……これは財宝どころではないぞ」
最初に沈黙を破ったのは、歴戦の老機関長ウォルフだった。
彼は愛用の巨大なレンチを握り直し、目を丸くしてラリーの掌の上で輝く駒を食い入るように見つめた。
長年の船乗りとしての経験が、この小さな水晶の塊が金銀財宝などという次元の低いものではないことを告げている。
金貨の山を積まれても決して買えないほどの、神の領域に属する力を持った『何か』であると。
「名前は聞いたことがありますわ」
リアが、驚きを隠しきれない様子で眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら呟いた。
巫女の従者である彼女は、古い文献や神話の類には並外れた知識を持っている。
かつて天を駆け、雷鳴を呼び、神々を背に乗せて戦場を駆け抜けたとされる伝説の八本足の幻馬。
その名こそがスレイプニルであった。
神話の中の存在が、まさかこんな小さなチェスの駒に封じられているなどと、誰が想像できただろうか。
《今となっては古い名だ。好きなように呼ぶが良い》
伝説の幻馬は、自身の偉大なる名前に固執する様子もなく、ひどく鷹揚な態度でそう言い放った。
数千年の眠りから覚めた存在にとっては、人間がつける呼び名など取るに足らないものなのかもしれない。
だが、その寛大すぎる申し出が、この個性が強すぎるグングニル号のクルーたちの間で、思いもよらないドタバタな大論争を巻き起こす引き金となってしまった。
「じゃあ、プーちゃん!」
一番槍を入れたのは、事の重大さをまったく理解していないソエルだった。
彼女は目をキラキラと輝かせながら、伝説の幻馬に対してこれ以上なく気の抜けた、そしてあまりにも身も蓋もない愛称を元気いっぱいに提案したのだ。
「ぶっ」
ラリーが吹き出し、盛大にむせる。
「プーっておい、そりゃ無いんでないの?」
神話の存在に向かって『プーちゃん』はいくらなんでもひどすぎる。威厳もへったくれもない。ラリーは必死に笑いを堪えながら、ソエルに冷静なツッコミを入れた。
「えーかわいいよぅ、ノアもそう思うよね!」
しかしソエルはまったく引き下がらず、マストの根本に座り込んでいるノアに満面の笑みで同意を求めた。
「え、いや、えっと……」
突然話を振られたノアは目を白黒させた。
つい先程まで、何者かに意識を乗っ取られたように恐ろしい警告の言葉を口走っていた彼女だが、今は完全に元の気弱な少女に戻っている。
そんな状態で伝説の幻馬の名付け親の賛否を問われても、どう答えていいか分かるはずも無い。
「いやもっとこう……男らしくてイカスやつにしようぜ、なあノア!」
ラリーがノアの困惑を無視して、ぐいっと前に身を乗り出した。
その瞳には、先程までの絶望的な漂流への焦りなど微塵もなく、まるで新しい玩具を与えられた子供のような無邪気な光が宿っている。
彼もまた、ノアに強引に同意を求めた。
「い、いかすやつ……?」
ノアがおずおずと聞き返す。
「ほれ、シャイニングなんちゃらとか、クリムゾンうんちゃらとか……」
ラリーが身振り手振りを交えながら、自身の持つ語彙力を総動員してカッコいい名前のプランを披露し始めた。
それは、街の路地裏でチャンバラごっこをしている少年が考えつくような、三文小説の英雄譚にでもかぶれたような、安っぽく、そして絶望的にセンスのない名前の羅列だった。
「ぷふっ」
そのあまりのひどさに、リアが思わず上品な吹き出し笑いを漏らした。
「何だよ、文句あんのか」
ラリーがジト目でリアを睨みつける。
自分の渾身のネーミングセンスを鼻で笑われたことが不満らしい。
「お子様ですわね」
リアは眼鏡の奥の紫色の瞳を細め、心底呆れたように、そして明確な侮蔑を込めて言い放った。
「なんだとう!」
ラリーがムキになって吠える。
「もっと気品のあふれるものが良いですわ。そうですわね、ウィンド・オブ・プラテューですとか……ねえ、ノアさん?」
リアはラリーの怒りを完全に無視し、優雅な仕草で自身のあごに手を当てながら、いかにも高貴で、そして絶望的に長くて覚えにくい名前を提案した。
しかも、またしても同意の矛先をノアに向ける。
「ぷ、ぷらてう?」
聞いたこともない単語の響きに、ノアは完全に思考停止に陥った。
「ぶははははは、ヘソが熱燗沸かすぜ」
今度はラリーが、腹を抱えて甲板の上で大爆笑した。
「なんですってぇ!」
リアが柳眉を吊り上げ、本気でイラッとした声を上げる。
眼鏡の奥の瞳には怒りの炎がメラメラと燃え上がっていた。
「そんな気合の入らねぇ名前、呼んでられっかよ!」
ラリーが笑い涙を拭いながら、リアの提案に反論する。
その気取った長ったらしいネーミングはひたすらにツボに入ったらしい。
「えー、はー」
左右からまったく方向性の違う同意を求められ、ノアは愛想笑いを浮かべるしかなく、完全に板挟みになっていた。
すると、白熱するネーミング論争に、唐突に、そしてどこまでもマイペースな声が割り込んできた。
「じゃあ……ウマ太」
エイダリアである。
彼女はこれ以上ないほど真剣な顔つきで、あまりにも衝撃的で、身も蓋もない直球すぎる名前を提案したのだ。
その瞬間、甲板の空気が完全に凍りついた。
ラリーとリアは口を半開きにしたまま完全に沈黙した。
あまりのネーミングセンスの酷さに、文句を言う言葉すら見つからなかったのだ。
「えっと、プーちゃんで、良いのではないかと……」
このままでは永遠に収集がつかないと判断したノアが、おずおずと、しかし最も常識的で無難な着地点を提案した。
「決まり! プーちゃんね」
ソエルが我が意を得たりとばかりに、嬉しそうに飛び跳ねた。
《良いだろう》
スレイプニルがあっさりと、そして威厳たっぷりに許可を下す。
「良いのかよ!?」
「良いの!?」
「良いんですか!?」
神話の存在があまりにも簡単に気の抜けた名前を受け入れたことに、ラリー、リア、ノアの三人の盛大なツッコミが見事に重なった。
《プーちゃんで異存は無い》
伝説の幻馬は、一切の迷いなくそう断言した。
こうして伝説の幻馬は、新たなる名を得た。
危機的な漂流の最中にあるはずのグングニル号に、なんとも形容しがたい脱力した空気が満ちていくのだった。




