029「魔導師と提督」
「うむ、ああそうだ。一人つけるから、協力してことに当たってくれ」
シオンは事もなげに言い放ち、玉座の上でぱちんと、軽く指を鳴らした。
「と、仰りますと?」
レンが首を傾げた、その時だった。
――スサッ。
広間の奥、ステンドグラスの光が届かない重厚なカーテンの影から、微かな衣擦れの音とともに、一人の女性が静かに姿を現した。
魔導師隊の制服に身を包んだその女性は、宮廷という華やかな場にありながら、彼女の歩みには一切の気配がなく、まるで影そのものが絨毯の上を滑っているかのような不思議な静けさをまとっている。
それは歴戦の騎士であるレンから見ても、極めて洗練された隠密の歩法のように思えた。
「こちらはアリシア殿、先日、十三人目の帝室付きの魔導師に就任された」
シオンが穏やかに紹介する。
「よろしく……」
アリシアと呼ばれた女の口から、ひどく静かで、波立ちのない湖面を思わせる冷ややかな声が漏れた。
十三人目という異例の抜擢。
魔導師という職業柄どこか浮世離れした奇抜な者も多いが、この女性はことさら静かで、感情の起伏というものが一切読み取れない。
その異様なまでの静けさに、レンは微かな戸惑いを覚えた。
「お名前は存じております」
レンは一礼して応えた。
近衛という立場上、皇帝陛下周辺の人事には精通していた。
未だ相手の正体や実力は未知数だが、シオンが直々に認めた宮廷魔導師である以上、彼が疑いを差し挟む余地はない。
「目付け役だなどと思わないでくれ。これは彼女の希望でな」
シオンの言葉に、レンは恭しく頭を下げた。
新任の魔導師が、なぜわざわざ過酷な海賊の追討部隊に同行を希望するのか。
目的は全く読めないが、皇帝の決定が全てである。
「御意に」
一切の疑問を呑み込み、近衛隊長としての顔で深く頭を下げるレン。その見事な忠誠心に、シオンは満足げに頷いた。
「では、頼んだぞ。艦隊が必要なら提督に要請するといい。私からも話しておこう」
皇帝直々の後ろ盾。それはつまり、国家の海軍力を総動員してでもあの男を追う許可が下りたということに他ならない。
レンの胸の内で、熱い使命感がごうっと音を立てて燃え上がった。
「ありがたき幸せ! ……諸々の手配がございますゆえ、早速始めたいと思います」
レンが力強く宣言する。
同行者がいかなる人物であれ、今はそんなことよりも遂にラリー・ヒューアを追い詰める権利を得たことの使命感の方が勝っていた。
「うむ」
シオンが優しく頷く。
「アリシア殿、後ほど」
「ええ、ご連絡お待ちしております」
アリシアの唇が微かに微笑みの形を作り、再び影に溶け込むように静かに一歩下がった。
どこまでも気配の薄い、不思議な女だった。
「では陛下、失礼いたします」
レンはシオンに対して最敬礼を行うと、踵を返し、謁見の間をあとにした。
§
ふかふかとした真紅の絨毯の上を歩く靴音が、やがて広間の外へと出た瞬間、硬質な石畳を叩く冷たい音へと変わる。
カツン、カツンと、宮殿の長く広い廊下に、己の足音だけが規則正しく響き渡る。
レンの歩みは、迷いがなく力強かった。
「遂に……この時が来たんだ。あの人に会える……いや」
レンは足を止めず、誰に聞かせるわけでもなく小さく呟いた。
脳裏に浮かぶのは、剣の稽古で何度も床に転がされた記憶。
そして、泥だらけになった自分に手を差し伸べ、豪快に笑いながら頭を乱暴に撫でてくれた、あの銀髪の隊長の姿だ。
誰よりも強く、誰よりも自由で、そして帝国の誰よりも頼りになった男。
レンの歩みが、ふと止まった。
少しの間を置いて、彼はきつく拳を握りしめる。
かつての温かな記憶や憧慕の情を、己の心の中で冷徹に切り捨てるための儀式のように。
「今やあの人は、我らが帝国を捨てた裏切り者。僕のこの手で、必ず捕らえてやる」
レンの瞳に、甘さを捨て去った鋭い使命感の炎が燃え上がった。
再び歩き出した彼の足取りは、さらに力強く、冷たい石畳を打ち鳴らしていった。
向かう先は、宮殿の別棟にある軍令部。
帝国海軍のトップが執務を行う部屋である。
――コン、コンッ。
重厚なオーク材の扉の前に立ち、レンは礼儀正しくノックをした。
「おーう」
中から、ひどく気の抜けた、そして呂律の回っていない野太い声が返ってきた。
「近衛隊長、レン・アスティールであります!」
「おう、入れぇ!」
レンが重い木製の扉を開けた瞬間。
むわっ、と強烈なアルコールの臭いが顔面を直撃した。
執務室の中は、およそ帝国の高官が仕事をする場所とは思えない、惨憺たる有様だった。
床には空になった麦酒の木樽や瓶がいくつも転がり、壁一面に広げられた精緻な海図には、なぜか遊戯用のダーツの矢が何本も刺さっている。
そして、未処理の書類の山の上にブーツを履いたままの足をだらしなく投げ出している大男がいた。
彼こそが、帝国海軍を束ねる提督、ジョーイ・デマイオである。
無精髭を生やし、顔を真っ赤にして常に酒を飲んで酔っ払っているこの男の実力を、城内のほとんどの人間は疑っており、彼への評価はすこぶる低い。
彼が采配を振るう姿を見た者はほとんどおらず、なぜこのような酒浸りの男が海軍のトップに居座っているのか、不思議に思う者も少なくない。
「デマイオ提督閣下、帝国海軍への要請を持参致しました」
レンはむせ返るような酒の臭いに顔をしかめるのを必死に堪え、軍人らしい凛とした態度で報告した。
どのような相手であれ、上官には敬意を払うのが彼の生真面目さである。
「要請ぃ?」
ジョーイは半分閉じたようなトロンとした目で、手に持った巨大な木製ジョッキを揺らしながら気の抜けた声を出す。
「は!」
軍人らしく声を張り上げ、かかとを鳴らすレン。
対するジョーイは、心底不思議そうな顔で赤ら顔を傾けた。
「なんで?」
あまりにも間の抜けた幼児のような問い返しに、レンは出鼻を挫かれたように一瞬言葉を失う。
「は、いえ、海賊ラリー・ヒューアの追撃隊を編成したく……」
生真面目なレンが、酔っ払いの脈絡のない返しに戸惑いながらも説明を続ける。
ジョーイはジョッキの底に残ったエールを舐めるように飲み干すと、机の上にゴトンと乱暴にそれを置いた。
「どうしてぇ?」
ジョーイは大きなゲップを噛み殺しながら、さらに意味不明な問いを重ねた。
「どうして……っていや、これは陛下のご意向でもありまして」
次第にレンの顔に苛立ちの色が浮かび始める。
真剣な軍議を行うべき場において、この態度はあまりにも目に余る。
皇帝の信任が厚いとはいえ、こんな泥酔状態の男に艦隊の指揮を任せて本当に大丈夫なのかという疑念が、レンの中で確信へと変わりつつあった。
「……硬いねぇ、兄ちゃん。もっと肩の力抜けやぁ……」
「いえあの、提督閣下、ひょっとして……」
完全に出来上がっている提督を前に、レンが言葉を失いかけた時だった。
「……難しい話は、酒が不味くなるぅ……」
ジョーイは机の上にだらりと突っ伏し、幸せそうな寝息を立て始めた。
グォー、グォー、というイビキが、静かな執務室に響き渡る。
「またか……このお方は……」
レンが深々と、そして心底疲れたようなため息をつく。
血気盛んな近衛隊長の熱意も、この暖簾に腕押しのような提督の態度には、空回りするしかなかった。
その時、バタンッと背後の扉が勢いよく開いた。
「失礼します! あ、近衛隊長殿、こちらへどうぞ!」
飛び込んできたのは、大量の書類を抱え、目の下に濃いクマを作ったジョーイの副官だった。
提督の惨状に完全に慣れっこである副官は、見事な手際でレンを別室へと誘導しようとする。
おそらく、実務のほとんどはこの哀れな副官が一人で回しているのだろう。
「ああ、助かる……」
レンは地獄で仏に出会ったような顔をして、その提案に飛びついた。
彼らが執務室を出ようと扉に手をかけた、その背後で。
突っ伏して眠っていたはずの海軍提督が、寝言のように、しかし腹の底から響くようなとんでもない大声で叫んだ。
「酒だぁ! もう三樽持ってこぉい!」
追加の酒を要求するその雄叫びを背に受けながら、レンは重々しい音を立てて執務室の扉をきっちりと閉めた。
帝都の威信をかけたラリー・ヒューア追撃戦は、こうしてひどく前途多難で、気の抜けた空気とともに幕を開けたのであった。




