028「鮮血黒帝」
グングニル号一行が大海の只中で漂流状態にあったその頃。
異なる場所で、事態が動こうとしていた。
大陸の覇者たるミドガルズ帝国。
その中枢にして、世界の権力の中心とも言える帝都の空は、今日もどこまでも高く、そして澄み切っていた。
幾重にも張り巡らされた堅牢な城壁と、その内側に広がる無数の尖塔や豪奢な建築物群は、この国が誇る圧倒的な経済力と軍事力の象徴である。
行き交う人々の活気と、整備された大通りを練り歩く装甲兵馬の足音が、途切れることなく帝都の繁栄を歌い上げていた。
そんな都市の最奥にそびえ立つ白亜の宮殿は、長い歴史の中で幾度もの戦火と政争をくぐり抜けてきた、生きた城塞である。
外壁には歴史の重みを感じさせつつも磨き抜かれた石材が輝き、要所には帝国の威信を示す真紅の旗がはためいている。
その宮殿のさらに奥深く、限られた者しか足を踏み入れることの許されない謁見の間は、圧倒的な静寂と荘厳な空気に包まれていた。
天高く設計されたドーム状の天井からは、帝国の建国神話を描いた巨大なステンドグラスを通して色とりどりの光が真紅の絨毯へと降り注いでいる。
その光の道の終点、数段高くなった大理石の台座の上に鎮座する豪奢な玉座に、一人の若き青年が優雅に腰を下ろしていた。
二十代後半ほどの整った顔立ちには、深い静謐が宿っている。
ステンドグラスの光を受ける薄墨色の長髪と、理知的な青灰色の瞳。
長身を包む漆黒の長衣には紫と純白の帝国マントが優雅に羽織られ、胸元の紋章や豪奢な金の帯が絶対的な格式を主張している。
玉座の肘掛けに置かれた純白の手袋が、静かな威圧感を漂わせていた。
その男こそ現ミドガルズ帝国皇帝、シオン・ペンローズである。
一見すれば、芸術や音楽を愛する温和な貴公子のようにしか見えない。
その白く細い指先や、常に絶やさぬ慈愛に満ちた眼差しは、およそ血生臭い武力や権力闘争とは無縁の存在に思える。
だが、この玉座の足元に敷かれた大理石が、かつてどれほどの血で染まったかを、宮殿の古株たちは決して忘れてはいない。
まだ彼が帝位に就く以前。
国を内側から腐敗させていた汚職貴族や反逆の芽を、一切の情を交えることなく冷酷なまでに大量粛清した。
更に、襲い来る諸小国や、それに便乗した隣国の侵略へ対抗すべく自ら先頭に立ち、見事帝都を守り抜いたのだ。
その功績と苛烈さへの恐れから、彼は前皇帝より帝位を譲られたのだった。
国を守るため、民を救うため、自ら修羅の道を進んだ彼を、人々は彼の纏う黒い鎧の意匠を讃えるように『鮮血黒帝』と呼んだ時期もあった。
今の彼が纏う穏やかさは、決して温室育ちのひ弱さなどではない。
嵐が過ぎ去った後の静凪であり、いざとなればいつでも冷徹な決断を下せる、真の覇王としての余裕の表れでもあった。
そのシオンの玉座の斜め後方には、一人の女性が彫像のように静かに控えている。
焦げ茶色の髪をシニヨンにまとめた、知的な佇まいの女性。
ダークチャコールの制服を纏い、純白の手袋で黒革の手帳とフォルダーを抱えている。
その腰には飾りで吊り下げているわけではないことを示すように、華美な装飾の一切を省かれた一本のレイピアが。
彼女の名はユリカ。
胸元のアメジストのブローチが示す通り皇帝からの信頼は極めて厚く、あらゆる実務をこなしてシオンを支える、優秀な補佐官であった。
そんな静寂と威厳に満ちた空間で、真紅の絨毯の上に片膝をつき、深く首を垂れている青年がいた。
現在の帝国近衛隊長、レン・アスティールである。
波打つピンクブラウンの髪に、鋭さと生真面目さを宿した灰褐色の瞳。
白を基調とした清廉な軍服コートを隙なく着こなし、腰には蒼鋼に輝く刀身を持つサーベルを帯びている。
若くして近衛隊長という重責を担う彼は、その実直な人柄と確かな剣の腕で、多くの部下から慕われる存在であった。
「ご苦労、楽にしていいぞ」
シオンの穏やかで、しかしよく通る声が広間に響いた。
広い謁見の間に、その静かな声が心地よく反響する。
「はっ」
レンは短く、軍人らしい明瞭な声で応え、姿勢を正して顔を上げた。
その瞳には、目の前の若き皇帝に対する深い心酔と、国家の盾としての揺るぎない忠誠心が宿っている。
一切の淀みもない、真っ直ぐな青年の目だ。
「此度はどうした?」
シオンが優しく問いかける。
近衛隊長が自らこの謁見の間を訪れるということは、それ相応の重要案件があるということだ。
「はい、ラリー・ヒューアの件であります」
レンが口にしたその名前に、広間の空気がほんの僅かに、だが確かに揺らいだ。
斜め後ろに控えるユリカでさえ、手元の書類を抱える指先に微かな力を込めるのがわかった。
ラリー・ヒューア。
今でこそ帝国のお尋ね者として古ぼけた船で海賊の真似事をしている男だが、数年前までは今のレンが就いている近衛隊長の地位にあった男だ。
そして何より皇帝シオンにとっては、帝位に就く前からの気心の知れた古い友人の一人でもあった。
立場や身分を超え本音で語り合えた稀有な男。
「ラリー、か」
シオンは目を伏せ、その長い髪を微かに揺らして深い物思いにふけった。
脳裏に浮かぶのは、あのどこまでも自由で、しかし誰よりも頼りになった銀髪の男の笑顔だ。
「陛下……?」
玉座での長い沈黙を訝しんだレンが、控えめに声をかける。
シオンはふっと息を吐き、いつもの穏やかな表情を取り戻した。
「艦隊を一つ、駄目にしていってくれたそうだな」
まるで出来の悪い友人の悪戯に呆れてみせるような、どこか楽しげな響きすら含んだシオンの言葉。
対して、報告を上げるレンの表情はひどく生真面目で、苦渋に満ちた険しいものだった。
「は……もっとも直接の原因はロートファルケ号の砲撃にあったとかで」
レンが苦々しげに、奥歯を噛み締めながら報告する。
強大な帝国海軍・第四艦隊が包囲網を敷いたにもかかわらず、逃亡を許した上に艦隊に甚大な被害を出したという報告は既に帝都の軍司令部にも届いていた。
帝国軍の威信を揺るがす大失態。
たった一隻の木造船を取り逃がしたばかりか、身内の暴発で自滅したのだ。
厳格な軍人であるレンにとって、これほどの屈辱はない。
「あっはっは……で、お三方は?」
皇帝らしからぬ屈託のない声でシオンは笑い飛ばし、三人の安否を尋ねた。
ラリーが『キャンディ』の通称で呼ぶカロリーネ・フォン・エンツェンスベルガー公爵令嬢と、彼女に付き従うアルフレート・フォン・グリューネワルト子爵令息、ならびにヨアヒム・フォン・ローエングラム侯爵令息。
いずれも帝国内で強大な権力を持つ大貴族の子弟である。
普段は彼女の私的な目的で独立してラリーを追従しているため、今回のように正規の軍事作戦に参加し、海軍と足並みを揃えたこと自体が極めて異例の事態であった。
「手配はしておりますが、なにぶんその海域に同行した我が艦隊は壊滅状態でして」
レンがさらに渋面を作る。
皇帝の前で無能を晒すのは、近衛隊長として身を切られる思いだった。
「捨て置けとは言えないが、まあほどほどにな」
「は……」
シオンの寛大な処置に、レンは首を垂れるしかない。
シオンはふと視線を外し、ステンドグラスから真紅の絨毯へと落ちる光の帯を、どこか眩しげに見つめた。
脳裏をよぎるのは、帝都の空よりも自由だった友の背中か、あるいは交わることのない互いの道への寂寥か。
だが、再び眼下の青年へ視線を戻した時、その双眸から感傷の色は完全に消え去っていた。
「ラリーの件は貴公に任せる」
次の瞬間、シオンが唐突に下したその決定に、レンは目を大きく見開いて顔を上げた。
「まことでございますか!?」
思わず声が上ずる。
レンにとって、ラリー・ヒューアという男は、単なる前任者でもお尋ね者でも無い。
かつてレンがまだ下っ端の騎士だった頃から、彼は近衛隊長であったラリーを心から慕い尊敬していた。
あの広くて大きな背中を追いかけ、彼のような強く、自由で、頼りがいのある騎士になりたいと願っていた。
だが、ラリーは去った。
帝国を裏切る形で。
残されたレンは、血の滲むような努力の末に彼に代わって近衛隊長となった。
かつての憧れを己の手で捕縛し、帝国の裁きを受けさせること。
それが、今のレンを突き動かしている強い闘志と使命感の源泉だったのだ。
「……ありがたき幸せ。このレン・アスティール、必ずや反逆者ラリー・ヒューアを捕らえ、陛下の御前に引き据えてみせます」
過去の感傷を断ち切るように、レンは力強く宣言し、深く頭を下げた。
その真っ直ぐな忠誠心を受け止めるように、シオンは静かに微笑む。




