032「新生・グングニル号」
(どうしたんだろう。胸が苦しい……)
新しく『プーちゃん』と名付けられた伝説の幻馬に対し、クルーたちが口々に無茶な注文を突きつけている喧騒の裏で。マストの影に座り込んでいたノアは、一人ひっそりと自身の胸元をきつく握りしめていた。
先程、自分のものではない恐ろしい声が口から飛び出した時の感覚。
そして今もなお、心臓の奥底で黒い泥が渦巻いているような、原因不明の重苦しい痛みが彼女の身体を内側から苛んでいた。
だが、その痛みを誰かに伝える暇など、今のこの騒がしい船にはなかった。
なぜなら、彼らの想像を絶する真の奇跡が、今まさに幕を開けようとしていたからだ。
――ヴゥゥン……キィィィィィンッ!!
唐突に、絶海の空気を振るわせる異音が轟いた。
それは、地殻変動を思わせるような重く低い魔力の唸りと、天界の鐘の音のような高く澄み切った軽やかな波動が混ざり合った、この世のものとは思えない神秘的な響きだった。
水晶の駒が、まるで超新星爆発を起こしたかのような、目を開けていられないほどの凄まじい青白い閃光を放ったのだ。
「うおおっ!?」
「きゃあっ!」
あまりの光と音に、クルーたちは一斉に目を覆い、幾人かは甲板にしゃがみ込む。
光の奔流はグングニル号の船体全体を包み込み、まるで時間が巻き戻るかのように、あるいはまったく別の物質へと変異するかのように、凄まじい勢いで木材や鉄を再構築していく。
折れたマストが天に向かって伸び、弾け飛んでいた甲板の板が継ぎ目なく繋がり、そして船底の機関室からはかつてないほどに力強く、そして洗練された金属の駆動音が響き始めた。
スレイプニルの絶大な魔力によって大破していたグングニル号は、より洗練された完全な姿へと修復されていったのだ。
光が収まるまで、ほんの数十秒の出来事だった。
「ふむ……ふむ、ふむ」
光が完全に消え去り、南洋の太陽の光が再び視界に戻った後。
いち早く立ち上がったウォルフは、信じられないといった様子で真新しく拡張された広い甲板を歩き回り、分厚い手で継ぎ目のない美しい木目を撫で回していた。
焦げ臭い硝煙の匂いは完全に消え去り、船全体から真新しい高級な木材と防腐用の油の心地よい香りが漂っている。
「いやこいつは素晴らしい。修復を頼んだつもりが、どこもかしこもまっさらになっとる」
彼が驚嘆の声を上げるのも無理はない。
長年の過酷な航海で染み付いた汚れや無数の傷は跡形もなく消え去り、全ての部材が新品以上の強度と輝きを放っている。
手すりの真鍮は鏡のように磨き上げられ、新調された純白の帆はまだ風を受けていないというのに力強い張りを見せていた。
おまけに彼が早口で捲し立てた最新の技術や複雑な配管のレイアウト変更まで、彼の脳内の設計図面と寸分の狂いもなく実現されているのだ。
「とっつぁん、見ろよ!」
その時、船首の方からラリーの子供のようにはしゃいだ大声が響いた。
どうしたラリー、はしゃぎすぎだぞ」
図面通りの完璧な仕上がりに内心大興奮しているウォルフだが、表面上は落ち着き払った最年長としての声でたしなめる。
「人の事言えるかって。それより、船首の姫さんを見ろよ!」
「ああ、そんなことを言っておったな」
ウォルフが思い出したように頷く。
先程、機関の注文のどさくさに紛れて、ラリーが船首像のアップグレードをちゃっかりと要求していたのだ。
ラリーがビシッと指差した先。
そこには、以前の見窄らしく塗装の剥げた木彫りの女神像の面影は微塵もなく、滑らかな大理石を思わせる純白の素材で精緻に彫り上げられた、豊満で艶やかな人魚姫の彫像が誇らしげに船首を飾っていた。
波を切るための機能美と、芸術品としての美しさを完璧に両立させた見事な造形だ。
「俺好みのイイ女になったじゃないの!」
ラリーは満面の笑みを浮かべ、新調されたフィギュアヘッドの美しい曲線をこれ見よがしに撫で回している。
彼の海賊としての分かりやすい美学が、ここに極まっていた。
《要望は問題なく果たされた。確認は必要か?》
いつの間にか自身にも真新しい鎖紐をあつらえていたスレイプニルが、頭上でふわふわと漂い、当然のような顔でラリーの首元へとちゃっかり収まる。
「ふむ、そうだな。ラリー、操舵室を見ておかんか?」
ウォルフは操舵室へと彼を促した。
彼にとって重要なのは、見た目の装飾よりも船の機能性である。
「なんか変わったのか?」
「うむ、視界を広めに取るようにしてあってな……」
技術的な解説に夢中になり、ウォルフの熱のこもった声が次第にフェードアウト気味に遠ざかっていく。
ラリーもまた、新しい玩具を手に入れた少年のように、目を輝かせて操舵室の真新しい舵輪や様々な計器を触り始めた。
その様子を少し離れた場所から見ていたリアが、深い深い嘆息を漏らす。
「まったく、この船の殿方ときたら、いくつになっても中身はお子様のままですのね」
彼女は呆れたように首を振り眼鏡を指先で押し上げた。
絶体絶命の死地から命拾いしたというのに、彼らの頭の中には新しくなった船の設備のことでいっぱいらしい。
緊迫感というものが全く欠如している。
「ねえリア」
その後ろから、エイダリアがいつもの静かな、しかしどこか不思議そうな声で呼びかけた。
彼女の透き通るような長い金髪が、新しく生まれ変わった船を撫でる心地よい海風に優しく揺れている。
「どうされました、お嬢様」
リアがすかさず振り返り、侍女としての完璧な態勢をとる。
「なんだかこの船、大きくなってない?」
エイダリアの唐突な指摘に、リアはきょとんと瞬きをした。
いくら魔法の力とはいえ、船の体積そのものが大きくなるなど、常識では考えられない。
そう思ってリアが周囲を見渡した、その時だった。
視線を甲板の端へと向けた彼女の眼鏡の奥の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「おおーい」
「おおーい」
今までは船の中央部から見る、船首や船尾の位置はそう遠くはなかった。
だが今、それぞれに立って大きく手を振りながら叫んでいるソエルとノアの姿は、彼女の記憶よりずっと遠くにいる。
「気のせい……ではありませんのね」
リアは、信じられないものを見るような声で呟いた。
以前の船のサイズであれば、多少大声であれば普通に会話が届く距離だったはずだ。
しかし今のグングニル号の広大な甲板では、二人の姿ははっきりと見えはするものの、その距離は今までの倍近く離れてしまっている。
規格外の魔力がもたらした、元より一回りも二周りも巨大になった帆船。
それが彼らの新しい家であった。
拡張された甲板の端、船首付近。
あまりの劇的な変化に、ノアは膝に両手をついて、呆然と周囲を見渡していた。
目の前で起きた世界が書き換わるような魔法の光景は、彼女の処理能力の限界を超えていた。
船尾側から両手を広げて駆け寄ってきたソエルは全く動じる様子も無く、元気いっぱいにノアの顔を覗き込む。
「ノア、中を見に行こ!」
ソエルは屈託のない笑顔でノアの手を取った。
彼女の底抜けの明るさと、この船を満たす新しい木材の温かな匂いが、ノアの心を覆っていた薄暗い靄をきれいに晴らしていく。
先程まで感じていたあの恐ろしい胸の痛みや、得体の知れない不安は、この騒がしくも温かい仲間たちのドタバタ劇を見ているうちに、いつの間にかどこかへ消え去っていた。
ソエルの引く力の強さに、ノアの顔に自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
「あ、はい!」
ノアは弾んだ声で応え、ソエルに手を引かれるまま、広大に生まれ変わった新生グングニル号の船内探検へと駆け出していった。




