026「秘宝の覚醒」
「あまり大丈夫じゃなかったかも……」
焼けつくような熱を帯びた船縁に力なくもたれかかり、どこまでも続く水平線を見つめながら、ノアがぽつりとこぼした。
魔法の余波と巻き起こった巨大な波の直撃を受け、誇り高く天を突いていたマストは根本から無残にへし折れ、視界を覆っていた広い帆の姿は無くなってしまっている。
さらに、包囲網を突破するための頼みの綱であった船底の蒸気機関も、燃料の石炭を最後の一欠片まで使い果たし、今は冷たく沈黙してしまっていた。
空の蒼と海の碧が、ただただ果てしなく交わる絶海の真っ只中。
現在のグングニル号は、一切の動力を失い、広大な大海原のど真ん中で波の赴くままに揺られるだけの、巨大な木箱と化していた。
――ザザーッ、ザザーッ。
遮る雲一つない空から容赦なく照りつける南洋の太陽の下、波が船腹を叩く音だけが虚しく甲板に響いている。
先程までの怒号と砲撃音が飛び交う喧騒が嘘のような、耳が痛くなるほどの静寂。
そしてどこまでも開けているはずなのに逃げ場が一切無いという、海特有の強烈な閉塞感。
追っ手からは確かに逃れられた。
だがこのまま海流に流されるだけであれば、いずれ真水が尽きて干からびるか、食料が尽きて餓死するかのどちらかだ。
生き延びたという安堵よりも、真綿で首をじわじわと絞められるような生殺しの絶望感が、彼女の細い肩に重くのしかかっていた。
「ソエルぅ……なにか見えるかぁ……?」
唯一残ったマストの根本にへたり込み、ラリーがひどく掠れた声で上空へ向かって尋ねた。
いつもの頼もしい船長としての覇気は完全に消え失せ、全身から疲労困憊のオーラが漂っている。
「見えるよー」
見張り役として、マストの先端に腰掛けていたソエルが、いつもと変わらぬ無邪気な声を降らせた。
その明るい響きに、甲板でうなだれていた全員の顔が僅かに持ち上がる。
「何!? 何が見える!?」
ラリーが弾かれたように立ち上がり、一縷の望みをかけて上を見上げて叫んだ。
島か、通りすがりの商船か、あるいは暗礁でもいい。
とにかく現状を打破できる何かであってくれと、祈るような思いだった。
「うーみぃー♪」
ソエルは元気いっぱいに、見渡す限りの何もない水平線を指差して答えた。
事実以外の何物でもない、純度百パーセントの観測結果である。
「あっ、そ。はああぁぁぁ……」
ラリーはガックリと膝から崩れ落ち、地獄の底から響くような、この世の終わりめいた深いため息を甲板に落とした。
「こんなところで立ち往生だなんて……予備の燃料はありませんの?」
苛立たしげにスーツの砂埃を払いながら、リアが眼鏡のブリッジを押し上げて船尾楼のウォルフへと詰め寄る。
常に冷静沈着な彼女でさえ、この絶望的な漂流状態には焦りを隠しきれない様子だった。
「駄目だな、もうとっくに使い果たして欠片も残っておらんよ。マストがなければ帆走も出来んし、石炭がなければ動力も使えん。こればっかりは儂にもどうにもならん」
ウォルフは愛用の巨大なレンチを傍らに置き、豊かな白髭を撫でながら重々しく首を振った。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた老練の機関長による、完全なるお手上げ宣言。
それを聞いたクルーたちの間に、いよいよ本格的な死の予感すら伴う重苦しい空気が漂い始めた。
「石炭あるよー」
だが、そんな絶望的な空気をまったく読まないソエルがマストからひらりと飛び降りてきた。
彼女はトレードマークの一つでもある大きなリュックを逆さにひっくり返した。
すると、ゴトゴトと硬い石がぶつかり合うような音がして、甲板に真っ黒な石炭の塊が転がり、ちょっとした小山を形成した。
「いや、石炭をいくらか出してもらってもどうにもならんのだ。被弾の影響でところどころガタがきててな。このまま整備せんままに作動させると、缶圧の上昇を抑えられずに爆発するかもしれん」
一筋の光明かと思われた提案だったが、ウォルフは苦虫を噛み潰したような顔で即座に首を横に振った。
ただでさえ限界を超えて酷使した蒸気炉である。
そこへさらに魔法砲撃の衝撃が加わったことで、機関室の配管は今にも破裂しそうな状態だった。
無理に動かそうとした瞬間に、船ごと木っ端微塵になって海の藻屑と化す。
それが、この船の突きつけられた冷酷な現実だった。
「そっかー。困ったねー」
他人事のように言いながらごそごそと石炭を鞄の中へしまうソエル。
「だー畜生! せめてこいつが何でも望みの叶うお宝だったら!」
完全に八方塞がりの状況に、ラリーはついに自暴自棄になり、自身の腰のポーチに手を突っ込んだ。
彼が乱暴に取り出し、八つ当たりのように青空へと向かって高く掲げたのは、太古の遺跡の最深部で手に入れた謎の秘宝――淡く透き通る水晶で彫り上げられた、馬の頭部を象るチェスの『ナイトの駒』である。
「お風呂入りたい」
ラリーの切実な叫びに呼応するように、エイダリアがぽつりと呟いた。
この絶体絶命の状況にあってまったく緊迫感のない、しかし過酷な逃走劇を経た後としては酷く人間らしい、彼女特有ののんびりとした願いだった。
その、あまりにも場違いな一言が甲板の空気を緩ませかけた、まさにその瞬間。
《それが汝の望みか?》
唐突に。
ひどく澄み切った、それでいて大地を震わせるような絶対的な威厳に満ちた低い声が、誰の耳を通すこともなく、彼らの脳内に直接響き渡った。
「へ?」
甲板にいた一同の、間の抜けた声が見事に重なる。
次の瞬間、ラリーが天に向かって掲げていた水晶の駒が、突如として眩いほどの青白い光を放ち始めたのだ。
内部から溢れ出す神秘的な燐光は、真昼の強烈な太陽の下であってもはっきりと視認できるほどに強く、そして美しかった。
《答えよ、手綱を引きし者よ》
声が再び脳を揺らす。
水晶から放たれる青白い光の波紋が、ラリーの身体を包み込むように共鳴している。
「な、なんだ、こいつ……?」
自分の手の中で急激に熱と光を帯び、あまつさえ重々しい声で語りかけてきた水晶の塊に、ラリーは目玉が飛び出そうなほど驚愕して叫んだ。
「しゃべってるよぉ」
ソエルだけが、目をキラキラと輝かせて光る駒を指差して喜んでいる。
《もう一度聞く。汝の望みは?》
「おーいおいおいおい! ひょっとしてひょっとするとお前、とんでもないお宝なんじゃないの!?」
自分を主と認めるような言葉に、ラリーの顔つきが一変した。
先程までの絶望はどこへやら、強欲な海賊特有のいやらしい笑みが口角を吊り上げる。
「これですもの……現金な人ですわね」
変わり身の早すぎる船長に呆れるリア。
「うるっせぃ! おいお前、望みを言えって言ったな?」
ラリーがリアの言葉を乱暴に遮り、目をギラギラと輝かせて水晶の駒に問いかける。
《我が務めは手綱を引きし者の力の行使にある。望みを言うが良い》
その厳かな言葉。どんな奇跡でも起こせそうなその響きに、ラリーはニヤァァァァッと口元を限界まで歪めた。
「よおおし、俺の望みは!」
「お風呂」
「わたくしも賛成ですわ」
大いなる野望を口にしようと大きく息を吸い込んだラリーの言葉を、エイダリアとリアが絶妙なタイミングで、そして極めて実用的な願いで左右から完全に遮った。
「そう、たっぷりお湯を張ったお風呂……って違うだろお前らぁ!」
うっかり同意しかけたラリーが、激しいノリツッコミで吠える。
《では、その望みを叶え》
「叶えなくていいっつうの!!」
主の言葉よりも周囲の雑音を優先し、律儀に風呂の準備を始めようとする秘宝に対し、ラリーの悲鳴のようなツッコミが、誰一人いない大海原に虚しくこだました。
「……てはならぬ」
その時だった。
ドタバタとした言い合いを切り裂くように、ひどく冷たく、異質な声が甲板に落ちた。
「ん?」
ラリーが怪訝そうに眉をひそめる。
「え?」
リアが手元の拳銃に手をかけながら振り返る。
「お風呂ダメなの?」
エイダリアがやや気落ちしたようにぽつりとこぼす。
全員の視線が、声の主へと集まった。
輝くチェスの駒を前にして、唐突に口を開いたのは、それまで黙ってやり取りを見守っていたはずのノアだった。
「堕ちた都を目覚めさせてはならぬ」
ノアの口から紡がれたのは、普段の彼女の弱々しい声とはまったく異なる、古い呪文のような恐ろしい響きを持った声だった。
「ノア……?」
ラリーが戸惑いの声を上げる。
こちらを向いたノアの表情は、氷のように冷たく厳しかった。
だが、その瞳孔は完全に開ききっており、焦点がまったく合っていない。
生きている人間の目ではなく、まるで何か別の巨大な意思に身体を乗っ取られているかのような、空っぽで虚ろな瞳だった。
「封印は、解いてはならぬ」
普段より明らかに低い、地の底から這い出るような声色で、ノアは唸るように言葉を吐き続ける。
彼女の周囲だけ、炎天下の暑さが嘘のように、ひどく冷たい空気が渦巻いていた。
「おいノア、ノアってば」
異変を察知したラリーが、慌てて彼女の肩を掴もうと手を伸ばす。
だが、ノアはラリーの存在など認識していないかのように、虚空を見つめたまま口を動かした。
「滅びし時の力は、朽ちるに任せるが良い。触れてはならぬ、目覚めさせてはならぬ」
「一体……何のことを言っておりますの……?」
リアが息を呑み、後ずさる。
「堕ちた……都……? どこかで……」
エイダリアが、その不吉な単語に記憶の糸を刺激されたように、苦しげに自身のこめかみを押さえた。
「黄昏に眠りし神々を、目覚めさせてはならぬ……」
警告とも、呪いともとれるその恐ろしい言葉を紡ぎ終えた瞬間。
ノアの瞳から不気味な光がスッと消え失せた。
同時に彼女の全身から完全に力が抜け、まるで操り糸を切られた古い人形のように、甲板へ向かってぐらりと倒れ込む。
「おいノア!」
「ノア様!」
「ノア!」
一同が悲鳴のような声を上げ、倒れゆく少女の華奢な身体へ向かって一斉に駆け寄った。




