023「帝国の包囲」
「ソエル、少し手伝ってくれんか?」
ウォルフがハッチの内部に体を滑り込ませながらソエルに声をかける。
「うん、ソエル働くよ!」
ソエルはオレンジ色の袖をまくり上げ、元気いっぱいに両手を挙げて応えた。
「ちょいと奴らを見張っててくれ。準備ができたら合図するから、そこのレバーを引っ張るんだぞ」
操舵輪のすぐ横にある大きく無骨な赤いレバーを指し示し、ウォルフは船底の機関室へと消えていく。
重々しく階段を上り下りする音が響く。
「りょおかいっ!」
ほどなくして、船の奥底からガチャン、ガコンと、いくつも巨大なバルブやレバーを動かす音が響き始めた。
甲板に残ったソエルは、赤いレバーに両手をかけ、水平線の彼方から迫りくる艦隊をじっと睨みつけていた。
その時だった。
――ドォォォォンッ!!
遠くで砲撃の音が、腹の底を震わせるような重低音となって轟いた。
「ウォルフ! 大変!」
ソエルが機関室に向かってありったけの大声を張り上げる。
「どうした?」
下からウォルフのくぐもった声が返ってくる。
「大砲だよっ、撃ってきたよ!」
「ああん、どれどれ」
船の側面からカチャリという金属音を立ててハッチが開き、ウォルフが油まみれの手を拭いながら顔を出した。
少し大きくなる砲撃音が、艦隊が確実に距離を詰めてきていることを告げている。
放たれた砲弾は、グングニル号の停泊位置よりはるか手前の海面に次々と着弾し、天を衝くような巨大な水柱を何本も立ち昇らせた。
轟音が遅れて入り江に反響する。
「まだ威嚇射撃だな。もう暫くしたら当ててくるかも知れんがな」
ウォルフは自身の髭を撫でながら、極めて冷静に分析してみせた。
彼我の距離と砲の仰角からして、まだ射程外であることは明らかだった。
「ふえー」
大迫力の水柱を見たソエルが、気の抜けたような声を漏らす。
その間にもグングニル号の船底深くでは、石炭がくべられ、強烈な熱と圧力が生み出されようとしていた。
しゅうしゅうと静かな唸り音が響き、ウォルフが巨大なハンドルを回す音、重い金属が擦れ合う音が甲板にまで伝わってくる。
足元の床板が、微かな熱を持ち始めていた。
「……そろそろだな。いいぞ、ソエル!」
機関室から、ウォルフの力強い号令が飛んだ。ボイラーの圧力が規定値に達したのだ。
「あいあいさー!」
ソエルは全身の体重をかけ、渾身の力でレバーを手前にガコンッ! と引き下ろした。ひときわ大きく響く機械音。
直後、プシューゥゥゥゥッ!! という凄まじい蒸気音が船尾の排気口から噴出し、船全体が巨大な生き物の鼓動のように低く震え始める。
ゴウン、ゴウンという重厚な機関の駆動音が、静かだった入り江の空気を完全に支配した。
まさにその時である。
「ウォルフ、ウォルフ!」
甲板の縁から密林の方角へと身を乗り出していたソエルが、弾んだ声を上げた。
「どうした?」
機械室から戻ってきたウォルフがハッチから顔を出し、今度は何事かと尋ねる。
「ラリーたちが帰ってきた!」
「おう、間に合ったか!」
鬱蒼とした密林の木々をかき分け、息を切らせて浜辺へと駆け出してくるラリーたちの姿が見えた。
大急ぎでタラップをよじ登って次々と甲板へ転がり込んでくる。
「おおい、こりゃ一体なんの騒ぎだ?」
甲板に降り立つなり、足元から伝わってくる異様な地響きと駆動音、そして海上の異常な光景に気づいたラリーが叫んだ。
彼の衣服は密林の泥や植物の汁で汚れ、額には汗が滲んでいる。
「帝国の船が来てるんだよ!」
ソエルが水平線を指差す。
「帝国? こんな辺境まで?」
水平線を黒く染める艦隊の威容を目の当たりにし、ラリーは信じられないといった顔で眉間にしわを寄せた。
どうやってこの海図にない島まで正確に追跡してきたというのか。
「奴さんらも必死なんだろうよ」
ウォルフがハッチの傍らで肩をすくめる。
「ちょっと、帝国がどうかしましたの?」
遺跡探索の極度の疲労も抜けきらぬまま、状況がまったく呑み込めていないリアが、眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。
帝国海軍の主力艦隊が、なぜ自分たちのような一個人を包囲しているのか、彼女の常識では理解が追いつかないのだ。
「あれ、言ってなかったっけ? 俺たちお尋ね者だからな」
ラリーは腰の鈍器に手を当てながら、まるで『今日の夕飯はパスタだ』とでも言うようにあっけらかんと言い放った。
「お、おたずね……?」
リアの顔がひきつる。
「海賊だしのぉ。なにやら政治犯やら尾鰭も付いとるらしい」
ウォルフがご丁寧に、さらに致命的な補足を入れた。
「ああ、そういえば海賊でしたわね私たち……って、政治犯んんん!?」
海神の巫女の侍女であるという誇り高き彼女にとってあまりにも不名誉な、そして一族の破滅はおろか、敬愛するエイダリアまでもが国家の敵と見なされかねないという絶望的な単語に、リアは思わず素っ頓狂な悲鳴を上げた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、横にいたエイダリアがそっと支える。
「とっつぁん、出れるか?」
ラリーがリアの悲鳴を完全に無視してウォルフに向き直る。
その瞳には既にこの絶望的な包囲網を突破するための好戦的な光がギラギラと宿っていた。
「船はあったまっとるよ、どんとこい」 ウォルフが太い腕で自身の胸をドンと叩き、機関の準備が完了していることを告げる。
「ようし、ガツンとやっちまってくれ!」
ラリーの野太い号令が、南国の空に響き渡った。
――ギュイィィィィンッ!!!
次の瞬間、グングニル号の船底から響く機械と蒸気の音が激しく大きくなる。
強烈な圧力の蒸気が真っ白な尾を引いて噴き出し、スクリューが海水を猛烈な勢いで掻き回し始めた。
じわじわと、しかし圧倒的なトルクで進み始めるグングニル号。
「えっ、動いてる……帆も張ってないのに?」
マストの帆が完全に畳まれたままであるにも関わらず、巨大な木造船が自力で波を切り裂いていく規格外の光景に、ノアは目を白黒させて驚愕の声を漏らした。
風もないのになぜ、という疑問が彼女の頭を駆け巡る。
「説明しよう、などと言っとる場合じゃあないんでな」
舵輪を力強く握ったウォルフが、白髭を風に靡かせながら不敵に笑う。
「話はあとだ。とにかく奴らを撒いちまわないと。ん……あの派手なのはロートファルケか……」
急速に加速していくグングニル号の船首に立ち、ラリーが目を細めた。
圧倒的な数を誇る帝国の包囲網。その陣形の中心から、一隻だけ、ひときわ異彩を放つ真っ赤な船が群れを抜け出して猛スピードで急接近してきていたのだ。
各所に施された過剰なまでの黄金の装飾が、陽光を反射してギラギラと悪趣味に輝いている。
「うむ、あいつらだな」
ウォルフが苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「あいつら……?」
ノアが首を傾げる。
「懲りない人たちね」
エイダリアが静かに嘆息した。
「まったくもって」
リアが呆れたように、ずれた眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
「えっと、あの、あいつらって……」
全員が共通の認識を持っているらしい相手の正体がわからず、ノアがおずおずと問いかけた、その時だった。
「残念きらびやか!」
ノアの疑問を断ち切るように、ソエルが身も蓋もない呼び名を、これ以上ないほどの元気な大声で青空へと響き渡らせた。




