022「船上の徒然(つれづれ)」
島を、そして入り江の出口をぐるりと囲む巨大な白い霧の壁。
外界を完全に遮断するその幻惑の結界の内側で、グングニル号は静かにその巨体を休めていた。
見上げる空は白く霞み、太陽の光も薄いもやを通して届くのみで、周囲はひんやりとした不気味な静寂に支配されている。
鳥の鳴き声一つ聞こえない原生林の暴力的なまでの緑と、白濁した浅瀬の境界線。
船長であるラリーたちが上陸し、未知の遺跡の探索へと向かってからすでに数時間が経過している。
グングニル号で留守番を任されているのは、ウォルフとソエルの二人だけである。
「ウォルフ~、たいくつ~」
甲板に山と積まれた木箱の上にだらしなく寝転がり、ソエルが間延びした声を上げる。
オレンジ色の大きな帽子を顔の上に乗せてどんよりとした薄暗い光を遮りながら、木箱の縁から放り出した両足を、時計の振り子のようにぶらぶらと空中ではためかせていた。
常に動き回っていないと死んでしまうのではないかというほど元気を持て余している彼女にとって、ただ待つだけの時間というものは、どんな過酷な労働よりも辛い最大の苦痛である。
「うむ? うむ……」
そんなソエルの泣き言に対し、船尾楼の影にどっかと腰を下ろしていたウォルフは、気の抜けた生返事を返しただけだった。
彼の太い指先は、油の染み込んだ分厚い布切れで、愛用の巨大なパイプレンチを磨く作業に没頭している。
長年の航海で歴史の年輪を刻んだような豊かな白髭が、彼が手元を動かすたびに微かに揺れていた。
彼の足元には、煙草の吸い殻が数本ねじ込まれた灰皿が置かれている。
「もうっ、ウォルフったら全然かまってくれない!」
ソエルは顔に乗せていた帽子をどかすと、バネ仕掛けのおもちゃのように勢いよく跳ね起きた。
そのまま木箱の山を身軽な動作で飛び降り、甲板をタタタッと走り回る。
あっちの木箱の隙間を覗き込んでみたり、帆を張るためのロープの束に頭を突っ込んでみたりと、何か面白いものがないかと探検を始めるが、見慣れた船の上の景色に目新しい発見などあるはずもない。
「なーんにーもなーい」
不満げに口を尖らせたソエルは、今度は船縁の手すりの上にヒラリと飛び乗った。
「ウォルフ、見て見てー! 綱渡りー!」
両手を横に大きく広げ、バランスを取りながら細い手すりの上を器用に歩き始める。
一歩踏み外せば、白濁した不気味な海へ真っ逆さまである。
「こらこらソエル、危ない真似はやめんと怪我するぞ。それに、こんな得体の知れん海に落ちたら、どんなことになるか分からんからな」
手元のレンチから視線を外さずに、ウォルフが低い声で窘める。
「だいじょぶだもん! もし変なのが出たら、ソエルがこうやって、ばばーんってやっつけるし!」
手すりの上で得意げに見えない敵へパンチを繰り出すが、やはり誰も見てくれないので、すぐに飽きてしまった。
ソエルは、とぅっと甲板へ飛び降りると、今度は手持ち無沙汰に船縁から身を乗り出し、眼下に広がる海面をじっと見つめた。
波はほとんどなく、薄い牛乳を流し込んだように濁っている。
自分の顔すら映らない水面は、見ているだけで吸い込まれそうなほど気味が悪い。
彼女は足元に落ちていた小さな木片を拾い上げると、えいっ、と海へ向かって放り投げた。
――ポチャン。
小さな水音が響いたが、それだけだった。
波紋すらもすぐに分厚い霧と白濁に飲み込まれ、元の不気味な静寂へと戻っていく。
「……つまーんなーい」
完全に肩を落としたソエルは、とぼとぼと歩いて船尾楼へと戻り、ウォルフの隣にちょこんと体育座りをした。
キュッ、キュッ、とレンチを磨く地味な音が、一定のリズムで響き続けている。
「ウォルフ、その鉄の棒、もうピカピカだよ?」
「いいや、まだまだだ。道具ってのはな、いざという時に裏切らんように、日頃から魂を込めて磨き上げとくもんさ」
「ふーん……」
全く興味がなさそうに気の抜けた返事をして、ソエルは両膝に顎を乗せた。
チャプチャプと船腹のオーク材を優しく叩く波の音が、心地よい子守唄のようなリズムを刻んでいた。
どこまでも続くはずの海はすぐ先で白い霧に閉ざされ、密林の湿気を含んだぬるい微風が吹き抜けていく。
あまりの退屈さにソエルは再び帽子を顔に乗せ、ふぁあ、と大きなあくびを漏らした。
それにつられるように、ウォルフもまた短くあくびをする。
それは、嵐の前のあまりにも長すぎる静寂であった。
「あふ……んむ?」
何度目になるか分からないあくびを噛み殺したソエルが、ふと帽子をずらして顔を出した。
その瞬間、大気がキィィン……と高周波の音を立てて微かに震える。
すぅっ、と。これまで周囲の視界を完全に遮り、島を外界から隠し続けていたあの巨大な白い霧の壁が、まるで魔法が解けたように、一気に、唐突に晴れ渡っていった。
霧が完全に霧散すると同時に、抜けるような群青の空が広がり、刺すような南洋の太陽が容赦なく照りつけ始める。
視界を遮る雲一つないその強烈な日差しは、エメラルドグリーンに透き通る海面の波頭をチカチカと乱反射させた。
あまりに劇的な景色の変化にソエルが大きな瞳をきょとんと丸くし、ふと入り江の出口――広大な外海の方角へと視線を向ける。
だが、そこに広がっていたのは、美しいだけの水平線ではなかった。
何もないはずの外海のただ中に、チカチカと異質な影がいくつも並んで浮かんでいるのを、彼女は見つけたのだ。
「ふむ、ラリーたちが何かしたか……どうかしたか、ソエル?」
レンチを磨く手をぴたりと止め、ウォルフが顔を上げた。
老練の船乗りの勘が、周囲の空気がわずかに変化したことを感じ取ったのだ。
潮の香りに混じって、ごくわずかに、鉄と火薬の匂いが風に乗って運ばれてきている。
「ねえ、遠くに船が見えるよ」
ソエルが身軽な動作で起き上がり、小さな指で水平線の彼方を真っ直ぐに指し示した。
「船……? こんな海の果てにやって来る物好きが、儂らの他にもおるとはな……どれ」
ウォルフはよっこらせと重い腰を上げると、甲板の縁まで歩き、腰の分厚い革ポーチから真鍮製の重厚な望遠鏡を取り出した。
カシャン、と微かな金属音を立てて筒を伸ばし、片目を細めて望遠鏡を覗くウォルフ。
丸く切り取られた視界の中に飛び込んできた光景に、彼の顔からスッと余裕が消え失せた。額に深いシワが刻まれる。
「ふむ……翼を広げた真紅の獅子は、帝国の旗印、か。抱いている剣からして第四艦隊だな。……なるほど、結界のせいで島へ入れんからと、外で網を張って待ち伏せておったわけか」
ウォルフの絞り出すような低い声に、甲板の空気が一気に張り詰めた。
ミドガルズ帝国海軍・第4艦隊。圧倒的な火力と鉄壁の装甲を誇る、帝国の海の暴力そのものであった。
分厚い装甲板で覆われた巨大なガレオン船が数隻、さらにその周囲を固めるように機動力に優れたフリゲート艦が十隻以上。
彼らは入り江の出口を完全に塞ぐように扇状の陣形を展開し、じりじりと、確実に包囲網を狭めつつあったのだ。
「困った?」
望遠鏡を下ろしたウォルフの険しい横顔を見上げ、ソエルが小首を傾げる。
事の重大さをまったく理解していない、無垢な問いかけだった。
「少々やっかいな事になるやも知れんな。こりゃあラリーたちが戻るまで、ひと働きせにゃならんかもだ」
ウォルフは望遠鏡をポーチにしまい、愛用のレンチを肩に担ぎ直して、機関室へと続くハッチへと重い足取りで歩き出した。
背後は鬱蒼とした密林に塞がれ、前方は帝国の誇る巨大艦隊が立ち塞がる。
逃げ場のない袋小路と化した美しい入り江に、静かに、しかし確実に戦火の足音が忍び寄っていた。




