021【回想録〜ソエル〜】2
無邪気で間延びした声と共に、彼女は背負っていたリュックサックを下ろし、その開口部へと細い腕を突っ込んだ。
軽くゴソゴソしたかと思うと、小さな指先で何かを摘み出し、ウォルフの目の前へと無造作に差し出した。
それは、鈍い金属光沢を放つ、たった一つの鋼鉄のナットであった。
油まみれの分厚い手袋を外したウォルフが、訝しげにそれを受け取る。そして、熟練の職人としての鋭い眼差しでその金属の表面とネジ山の溝を確かめた瞬間、彼の喉の奥でヒュッと息が鳴った。
彼の太い指先に伝わってきたのは、路地裏のジャンク屋に転がっているような粗悪な削り出しの感触ではない。熟練の職人が心血を注いで削り出したかのような、極めて滑らかで寸分の狂いもない、芸術的なまでの完璧な加工精度。
それは、まさに彼が先程から血眼になって探していた特注サイズの規格と、ミクロン単位で合致するナットそのものだったのだ。
「あ、ああ。ありがとう。……どこかで拾ってきたのかな?」
ウォルフは自身の目を疑いながらも、どうにか理性を総動員して、この目の前の異常な現実を飲み込もうとした。
こんな最高級の加工精度の特注部品が、そこらの道端に転がっているはずがない。だが、目の前の幼い少女がそれを持ち歩いている理由など、もっと想像がつかない。きっと金持ちの技師の落とし物でも拾ったのだろうと、己の常識の枠内に無理やり当てはめて結論づけるしかなかったのだ。
「ひとつでいいの?」
ウォルフの動揺など露知らず、ソエルはエメラルド色の大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、純粋な好意から首を傾げて尋ねてきた。
「そうさな……20個くらいあると助かるんだが、いや、何を言っとるんだ儂は」
ウォルフは半分冗談のつもりで、そして半分は己の無意識の欲求に従ってそう口走ってしまい、すぐに苦笑して頭を振った。
こんな特注品のナットが一つ見つかっただけでも奇跡に近いのだ。それが20個も揃うなど、あり得ない。
「はい」
しかし、ソエルはウォルフの自己完結した呟きをあっさりと無視し、再びリュックへと小さな手を突っ込んだ。
そして、中から何かをギュッと握り込んだ小さな握り拳を引き抜くと、ウォルフの顔の前で、ためらいなくその拳をパッと開いてみせたのだ。
――チャリチャリ、チャリッ。
硬質な金属同士がぶつかり合う、小気味良くも重みのある音が路地に響いた。
彼女の小さな掌の上で軽い音を立てて転がっていたのは、紛れもなく、先程と全く同じ極上の精度を誇る特注サイズの鋼鉄のナットの山だった。
ウォルフは、その場に縫い付けられたように完全に硬直した。
「……持っとるのか」
もはや驚愕を通り越し、ウォルフの口からは魂の抜けたような掠れた声が漏れ出た。
「うん! はい20個ぉー!」
ソエルは満面の無邪気な笑顔を浮かべ、じゃらじゃらと重い金属の音を立てながら、呆然としているウォルフの大きな両手の中へと、そのナットの山を気前よく流し込んだ。
「っと、お、おお、ありがとう」
手のひらにずっしりと伝わる、現実の鋼鉄の重み。幻覚でも手品でもない。
ウォルフは、とりあえず目の前の理解不能な不思議現象は思考の隅の頑丈な箱に無理やり押し込み、鍵をかけた。
彼は深く一度咳払いをし、強引に意識を切り替えて、先程まで交渉していた筋骨隆々の鍛冶屋店主へと再び向き直った。
「あぁそうそう主人。ハルトマン式ボイラーの高圧フランジもあると助かるんだが」
ウォルフが次に口にしたのは、先程のナットとは比較にならないほど高度で巨大な部品の名だった。
ハルトマン式ボイラー。それは最新鋭の大型船舶にのみ搭載される、極めて複雑な機構を持つ高出力蒸気機関である。そしてその高圧フランジといえば、凄まじい蒸気圧に耐えうるための特殊な合金鋳造と、精密な削り出し技術が要求される、直径が人間の頭ほどもある巨大で分厚い円盤状の接続部品だ。
こんな辺境の港町のジャンク屋に転がっているような代物ではない。
「すまないがそれも無いね。お客さんの注文は難しいのばかりだな」
鍛冶屋の店主は、呆れたように肩をすくめ、首に巻いたタオルで汗を拭いながらあっさりと匙を投げた。
まぁ、当然の反応である。ウォルフ自身も、ダメ元で聞いてみただけだった。別の街で調達するか、あるいは時間をかけて鉄の塊から自作するしかないだろうと、半ば諦めかけていた。
「あるよー」
鍛冶屋街の喧騒を切り裂くように、またしてもあのお気楽で間延びした少女の声が、ウォルフの足元から響き渡った。
ウォルフと、そして鍛冶屋の店主の動きが、まるで時を止められたかのように完全に静止した。
二人の筋骨隆々の大男は、ゆっくりと、恐る恐る視線を下へと向ける。
彼らの顔は、一切の感情が抜け落ちた無の表情で完全に固定されていた。
「はいっ、よいしょお」
ソエルは、自身の顔ほどの大きさの、重さも十数キロはあろうかという分厚い合金製の高圧フランジを、床に置いたリュックから可愛らしい掛け声とともに両手で持ち上げ、ウォルフへと無造作に差し出していた。
鈍く重厚な光を放つその部品は、間違いなく最新鋭のハルトマン式ボイラーに適合する、完全な新品の高圧フランジであった。
その巨大な金属の塊が、あのリュックの開口部からどうやって出てきたのか。そして、この華奢な少女がどうしてそれを羽毛のように軽々と持ち上げているのか。
「……あぁ、ありが、とう」
ウォルフは、震える手でその巨大なフランジを受け取った。腰が抜けそうなほどの圧倒的な重量感が、彼の下半身にズシリとのしかかる。
もはや、思考の隅に追いやってごまかせる次元を超えていた。
目の前の現象から、いよいよ目を逸らせなくなってきたウォルフは、ごくりと生唾を飲み込み、額に冷たい汗を滲ませながら少女を見下ろした。
「えぇ、と、お嬢ちゃ、いや、ソエル。まさかとは思うんだが、ミスリルやオリハルコンなんぞは……」
ウォルフの口から、半ば恐れを抱いたような、震える声で神話の金属の名が紡がれた。
ミスリル。オリハルコン。
それは、一欠片で国が買えるほどの価値を持つ、伝説の超金属。この世のあらゆる物理法則を凌駕し、神々の武器や防具の素材とも謳われる、現代の人間には製法すら解明されていない幻の物質である。
もし仮に、そんなものがこの薄汚れた鍛冶屋街の路地裏で姿を現せば、噂は一瞬で広まり、街中の荒くれ者や各国の軍隊が血眼になって殺し合いを始めるだろう。世界を揺るがす特大の爆弾に等しい。
「あ・る・よ♪」
だが、ソエルはそんな世界の理など全く意に介さず、お菓子でも取り出すような極めて軽い調子で、弾むように即答したのだ。
そして彼女は、ニコニコと笑いながら、再びあの底知れぬ深淵へと繋がっているリュックサックへと、細い手を突っ込もうとした。
「待ちなさい」
ウォルフは、血相を変えて彼女のその小さな腕をガシッと力強く掴み、間一髪のところで制止した。
彼の心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされている。
もしここで、その神話の金属の輝きが路地裏の鍛冶屋たちの目に触れてしまえば、彼女の命はおろか、この街自体が欲望の業火に包まれて消滅しかねない。
老練な機関長としての危機管理能力が、最高レベルの警鐘を鳴らしていた。
「なにー?」
手を止められたソエルは、なぜ止められたのかまったく理解できないといった様子で、不思議そうに小首を傾げてウォルフを見上げた。
「一体どこでそんなものを……」
ウォルフは周囲の鍛冶屋たちに聞かれないよう、極限まで声を殺し、彼女の瞳の奥にある真実を探ろうと鋭く問いかけた。
この異常な質量の無視。空間を歪めるかのような収納術。そして、神話の物質すらも無尽蔵に保有しているかのような底知れなさ。
彼女は、ただの迷子の子供などでは断じてない。人間の皮を被った、もっと別次元の、人智を超えた『何か』であることは明白だった。
「ひ・み・つ☆」
ソエルは、ウォルフの真剣な眼差しをひらりと躱すように、片目をパチリとウインクさせ、人差し指を小さな唇に当てて悪戯っぽく微笑んだ。
その無邪気な笑顔の奥に、どれほど深く途方もない世界の秘密が隠されているのか。
「……そうか、秘密か」
ウォルフは、彼女のその一言に込められた絶対的な拒絶と、不可侵の領域の存在を悟り、ゆっくりと彼女の腕から手を離した。深く重い息を吐き出し、自身の白い顎髭を撫で下ろす。
これ以上踏み込めば、己の理解できる世界の枠組みが完全に崩壊してしまうだろう。
だが、同時に彼の内に眠る職人としての、そして海賊としての強烈な好奇心が、この奇妙な少女をこれ以上手放してはならないと告げていた。
彼女が何者であろうとも、この途方もない『秘密』を抱えたまま、この危険な街に放置しておくわけにはいかない。
「ソエルと言ったな。お前さん、行くあてはあるのか?」
ウォルフはしゃがんでソエルの肩に手を置き、極めて真面目な顔つきで尋ねた。
「んーん、ないよー! あ、でもね、西の海に面白い人がいるって聞いたの!」
ソエルは満面の笑みで、港の方角――グングニル号が停泊している海を指差した。
「……西の海、か。奇遇だな。儂らもちょうど、その西の海へ向けて出航するところだ」
ウォルフは、この出会いが単なる偶然ではなく、何らかの巨大な運命の歯車の一部であるような気がしてならなかった。
「本当!? じゃあ、ソエルも乗せてってー!」
「ああ、構わんよ。うちの船長は、得体の知れないものを拾ってくるのが趣味でな」
ウォルフは、先ほど彼女から受け取った信じられない精度の特注パーツと高圧フランジをしっかりと腕に抱え込み、ニヤリと老練な笑みを浮かべた。
この規格外の少女を連れて帰れば、あの銀髪の無鉄砲な船長がどんな顔をするか。それを想像するだけで、退屈な寄港の時間が一気に面白いものへと変わった気がした。
「れっつごー!」
ソエルが元気よく両手を高く突き上げる。
むせ返るような鉄と熱気に包まれた鍛冶屋街の路地裏から、重厚な機関長と小さな謎の少女の奇妙なコンビが、港に停泊するグングニル号へ向けて歩き出していった。
遥か高みの『天帝』の意志と、海を駆ける海賊たちの運命が、静かに、そして確実に交差した瞬間であった。




