020【回想録〜ソエル〜】1
遥か遠くの地。
そこは俗世の喧騒や、血生臭い争いとは完全に無縁の、絶対的な平穏と静謐が支配する神域であった。
天を衝くようにそびえ立つ霊峰の頂、常に清らかな瑞雲に包まれたその場所には、重力という世界の理を無視してふわりと空に浮かぶ、黄金の瓦と白玉の柱で設えられた壮麗な宮殿が存在していた。
そこは『天帝』と呼ばれる不可侵の絶対者によって治められ、悠久の時をただ静かに、そして美しく維持し続けている国である。
宮殿の最奥。どこまでも透き通るような白磁の床に、淡い光を放つ蓮の花が咲き乱れる謁見の間。
その中央に設えられた豪奢な玉座に、この世界の頂点に立つ存在、天帝が腰掛けていた。
天帝は、凡人であればその圧倒的な神威の前にひれ伏すほかないほどの絶大な力を持つ存在でありながら、玉座の肘掛けに気だるげに肘を突き、自身の頬を乗せるという、ひどく人間らしくリラックスした姿勢をとっていた。
ある日、そんな天帝の元へと呼び出され、静寂の宮殿におよそ似つかわしくない軽やかな足音を響かせて訪れた者がいた。
「てんてーさま、来ったよー♪」
謁見の間の重厚な扉を開け放ち、小鳥のように甲高く無邪気な声を響かせたのは、小さな少女、ソエルであった。
彼女は天帝の威厳など全く意に介する様子もなく、ぴょんぴょんと弾むような足取りで玉座の前まで駆け寄った。
天帝は、そんな彼女の自由奔放な振る舞いを咎めるどころか、肘を突いたままの姿勢で、まるで孫娘を愛でる好々爺のように優しく温かな微笑みをソエルへと向けた。
「よく来たね。実は君に一つ頼みたいことがあるんだ」
天帝の口から紡がれたのは、世界を統べる者としての重々しい命令ではなく、親しい者への穏やかなお願いのような響きだった。
「実は今、世が邪悪なまずいものに脅かされそうになっているみたいでね」
その穏やかな声色とは裏腹に、語られた内容は世界全体の存亡に関わるほどの、途方もなく深刻な危機であった。静寂の宮殿の空気が、ほんの僅かに冷たく張り詰める。
「ほえー」
だが、ソエルは事の重大さをまったく理解していないのか、それとも理解した上で意に介していないのか、間の抜けた気の無い返事を返して小首を傾げた。
天帝は彼女のそんな反応にも苦笑することなく、静かに言葉を続ける。
「で、ここより遥か西に、主神オーディンに認められた人間がいるみたいなんだ」
主神オーディン。その名が出た瞬間、謁見の間の空間がビリッと微かに共鳴した。
「君にはその者を見極めて欲しい。頼めるかな?」
邪悪な脅威に対抗しうる可能性を秘めた、遠き西の海をゆく一人の人間。その者が本当に世界を託すに足る器であるかどうかを、彼女自身の目で確かめてこいという、天帝からの直接の密命であった。
「ん、おっまかせー!」
ソエルは、近所へのお使いでも頼まれたかのように、満面の笑みで元気よく自身の胸を叩いて快諾した。
謁見の間を後にし、ソエルは宮殿の長い回廊を、来た時と同じようにぴょこぴょこと跳ねるような足取りで進んでいく。
「おっでかけー、おっでかけー♪」
彼女は自作の楽しげな歌を口ずさみながら、帝居の巨大な門をくぐり抜け、外界へと続く玉砂利の道へと出た。
その瞬間だった。
帝居の門を出て数歩歩いたところで、ソエルの弾むような足取りがピタリと止まる。
そして、先程まで彼女の顔に張り付いていた無邪気な子供の笑顔が、まるで精巧な人形から魂が抜け落ちたかのように、完全に、そして不気味なほど綺麗に消え失せたのだ。
エメラルド色の大きな瞳から一切の感情と光が消え去り、絶対的な虚無だけがそこにはあった。
「風火二輪」
ぼそりと、機械の音声のように感情を完全に排した冷たい一言が、彼女の小さな唇からこぼれ落ちた。
彼女の言葉に呼応し、ソエルの細い足首の周りの空間が歪み、複雑怪奇な幾何学模様がびっしりと刻み込まれた光る輪が、二つ、音もなくふわりと浮き上がった。
右の足首を包む輪は、深い海の底を思わせる鮮やかな珊瑚色。
左の足首を包む輪は、芽吹いたばかりの若葉のような淡い萌黄色。
二つの魔法の輪は、彼女の足元で静かに、そしてゆっくりと回転を始める。
「彼の下へ」
再び紡がれた無感情な言葉。
その言葉を座標指定の命令として認識し、足元の二つの輪の回転速度が爆発的に上がり、放たれる光量が周囲の景色を白く飛ばすほどに激しく増していく。
空間そのものを削り取るような重い魔力の唸り音が周囲に響き渡っていく。
ソエルが、感情のない虚ろな瞳のまま、ゆっくりと遥か西の空を見上げたと思った、その直後だった。
――キンッ!
空間が割れるような甲高い音が響き、彼女が立っていた場所に、天を衝くほどに鋭く細い光の柱が一瞬だけ立ち上った。
強烈な閃光が収まった後、そこには玉砂利の道が残されているだけで、少女の姿はすでにどこにも無かった。
§
時はやや進み、港町の大聖堂でラリーがエイダリアと数奇な邂逅を果たしている、まさにその頃。
同じ街の裏手、海風の匂いよりも熱気と鉄の匂いが色濃く漂う鍛冶屋街は、職人たちの怒号とハンマーが金床を叩く甲高い音に包まれていた。
火の粉が舞い、石炭の焦げる匂いが充満するそのむせ返るような路地の一角で。
ウォルフは、とある薄暗い部品屋の店先に立ち、山のように積まれたジャンクパーツや鉄屑の海に分厚い腕を突っ込んで、職人としての鋭い眼差しでパーツ漁りをしていた。
「ふむ……これより一つ小さいサイズを探しているんだが」
ウォルフは、油まみれの手で拾い上げた鋼鉄のナットを光にかざし、店主である筋骨隆々の鍛冶屋に向かって尋ねた。
グングニル号の複雑な機関部を完璧に整備するためには、寸分の狂いもない正確な規格の部品が不可欠なのだ。
「悪いね、今そのサイズは切らしてるんだ。特注サイズだからね」
鍛冶屋の店主は、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「そうか……参ったな」
ウォルフは深くため息をつき、目的のパーツの山を前にして腕を組み、どうやって代用品を加工すべきかと思考の海に沈んで低く唸り声を上げた。
その時だった。
周囲の荒々しい鍛冶屋街の空気とはまったく不釣り合いな、ぴょこぴょこと不規則で軽やかな足音を立てて、ウォルフの大きな背中の後ろへと近づいてくる小さな影があった。
それは、オレンジ色のダボダボのアウターを着込み、自分よりも大きなリュックサックを背負った少女であった。
「何ー?」
彼女は、唸り声を上げているウォルフの背中を見上げ、無邪気で間の抜けた声を張り上げた。
「いやぁ、この店ならあると思ったんだが」
ウォルフは、背後から声をかけられたことに気づきはしたものの、頭の中は完全に機関の図面と代替パーツの計算で埋め尽くされていたため、振り返りもせずに独り言のように返事をしてしまった。
「だから何ー?」
だが、その背中の人物は諦めることなく、さらに大きな声で食い下がってきた。
そのひどく幼い声の響きに、ここでようやくウォルフは相手が船乗りや職人ではないことに気付き、怪訝そうな顔で振り返った。
「……お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
視線を足元近くまで下げて、ウォルフは迷子にでも話しかけるような優しい声で尋ねる。
「お嬢ちゃんじゃないもん、ソエルだよ」
ソエルは子供扱いされたことが不満だったのか、ぷくっと頬を膨らませて抗議した。
「あぁそうか、すまなかった。で、ソエルはどこから来たんだい?」
ウォルフは苦笑しながら、もう一度彼女の素性を尋ねた。こんなむせ返るような鉄と火の街に、こんな小さな子供が一人でいるのはどう考えても不自然だったからだ。
「えっとねー、あっち」
ソエルは小さな指を突き出し、遠くの方を無邪気に指差してみせた。
ウォルフが彼女の指差す方角へと視線を向ける。だが、その先には建物の屋根と、その向こうに広がる青い海があるだけだった。
「……儂には海しか見えんが」
ウォルフが首を傾げて答えると、
「うん! あっち!」
ソエルは海の方角を指差したまま、満面の笑みで力強く肯定した。要領を得ない子供の返答に、ウォルフはやれやれと首を振った。
「まぁいい。ここは危ないから、違うところで遊びなさい」
火の粉が舞い、重い鉄材が転がるこの路地は子供の遊び場ではない。ウォルフは彼女を安全な場所へ追い払おうとして、再びパーツの山へと向き直った。
「何探してるの?」
だが、ソエルはまったく帰る素振りを見せず、ウォルフの横にちょこんと立ち、彼の手元を興味深そうに覗き込んできた。
「ん、あぁ、これより一回り小さいナットなんだがね」
ウォルフは溜息をつきながらも、自身の手のひらに乗せている鋼鉄のナットを彼女に見せてやった。子供に説明したところでどうなるものでもないと分かっていながらの、ただの気まぐれだった。
だが、その無骨な鉄の部品を見たソエルは、驚くべき言葉を口にした。
「あるよー」




