019「大切な物?」
――ギギギギギギッ……。
数百、いや数千年もの間、誰の手によっても触れられることのなかった重厚な石の扉が、耳を劈くような低い摩擦音を立ててゆっくりと開いていった。
天井からパラパラと細かな土埃が落ち、足元の石畳に積もった長い歳月の痕跡が、開かれた扉の隙間から吹き込む風によって白く舞い上がる。
ラリーが片手で松明を高く掲げ、もう一方の手で愛用の鈍器を構えながら、慎重に、まるで眠れる巨獣の口の中へ入り込むような緊張感をもって、その暗闇へと足を踏み入れた。
後ろからは、リアが両手に構えた二丁の拳銃の銃口を油断なく闇へと向け、エイダリアが巨大な長杖の柄を握りしめて静かに続いている。
ノアは、大きく波打つ胸を両手で押さえながら、恐る恐る彼らの背中を追った。
この奥に、自分を呼ぶ『かけがえのないもの』がある。その確信だけが、震える彼女の足を前へと進ませていた。
しかし。
松明の炎がじりじりと部屋の全貌を照らし出した時、一行の間に流れていた張り詰めた緊張感は、ひどく間の抜けた形で霧散することとなった。
そこは、驚くほど狭く、そして殺風景な四角い石室だった。
床にも、壁にも、天井にも、何もない。
山のように積まれた金貨も、宝石を散りばめた王冠も、あるいは侵入者を串刺しにするような凶悪な罠も、身の毛もよだつような古代の魔獣の姿も、そこには一切存在しなかった。
ただひたすらに、虚無の空間が広がっているだけである。
「……結局なんもないぞ」
松明を持った手をだらりと下げ、ラリーが心底拍子抜けしたように、あからさまな大きなため息をつきながら肩をすくめた。
命懸けのお宝探しを期待していた海賊船長としては、あまりにも肩透かしな結末である。
「ざーんねん!」
静まり返った石室に、リアのからかうような、わざとらしいほど明るい声が響いた。
彼女は構えていた拳銃をくるりと指先で回し、カチャリと小気味良い音を立ててホルスターへと収める。
「なんか刺があるな」
ラリーがジト目でリアを睨みつける。
大層な口を叩いておいてこれか。という、無言の責め苦を感じ取ったのだ。
「気のせいですわ」
リアはふふっと艶やかに微笑み、眼鏡のブリッジを指先で優雅に押し上げた。
いつもの他愛のない、そして緊張感のない軽口の応酬。
だが、その背後で静かに室内を見渡していたエイダリアは、微かに眉をひそめ、部屋の最奥を注視していた。
ここからでは暗くてよく見えない。
だが、確かに何かがある。
彼女はラリーにその事を伝えようと口を開きかけた時、彼女の横からすっと前に進み出る影がひとつ。
「ん……ノア?」
エイダリアの声に、ラリーとリアのやり取りがピタリと止まる。
「どうした?」
ラリーが振り返ると、エイダリアは松明の光がようやく届くか届かないかという、部屋の最奥の壁際を指差す。
「ラリー、ノアが……それに、奥になにか見える」
エイダリアの視線の先。
そこには、部屋の壁と一体化するような形で、大人が腰掛ける程度の高さの簡素な石造りの祭壇がしつらえられていた。
そして何よりラリーたちを驚かせたのは、ノアの様子だった。
つい先程まで、不安そうにラリーの背中に隠れるようにしていたはずの彼女が、まるで何かに魅入られたかのように、フラフラと覚束ない足取りでその祭壇へと向かって歩き出していたのだ。
その瞳はうつろで、焦点が合っておらず、ラリーたちの声などまったく聞こえていないかのようだった。
「ノア、不用意に動くな、ひょっとしたら……」
まだ見えない罠があるかもしれない。
ラリーが慌てて制止の声をかけ、彼女の肩を掴もうと手を伸ばした、その時だった。
「……蹄の音高らかに、風を切る姿を見よ」
石室の空気が、びりりと震えた。
ノアの桜色の唇から紡がれたのは、普段のオドオドとした彼女からは想像もつかない、何百年もの時を経たような重く荘厳な声色だった。
それは歌のようでもあり、祈りのようでもあった。
暗い石室の空気が、彼女の言葉に呼応するように微かに震え始める。
「ノア……?」
ラリーは伸ばしかけた手を止め、目を見張った。
ノアは祭壇の前に辿り着くと、そこに安置されていた小さな『何か』を、まるで壊れ物を扱うかのように、両手でそっと包み込むように手に取った。
「天翔ける汝が姿は雷迅の如く、いななきは雷鳴の如く」
詠唱のような言葉が続く。
すると、どこからともなく、ぼんやりとした不思議な音が石室内に響き始めた。
それは遠くの空で鳴る雷鳴のようでもあり、あるいは大地を蹴って走る無数の馬の蹄の音のようにも聞こえた。
そして、ノアが胸元に抱いた両手の隙間から、星の欠片のようなほのかな青白い燐光が漏れ出し、漆黒の石室を幻想的に照らし始めた。
「おいノア、いったい……」
眼の前で起きている未知の力の発現に、ラリーは思わず息を呑んだ。
リアも再びホルスターから拳銃を抜き放ち、警戒を露わにしてその光を見つめている。
「まさかそれが、お宝なんですの?」
ゆっくりと、ノアが振り返る。
衣擦れの微かな音が、やけに鮮明に響いた。
青白い光に照らし出された彼女の顔は、神聖な儀式を執り行う巫女のように無表情で、その瞳は依然として何かに憑依されたかのような神秘的な光を宿している。
ノアはゆっくりとラリーの前に歩み寄り、両手で包んでいたその光の塊を、彼に向かって真っ直ぐに差し出した。
「手綱を引きし者に、これを」
「ノア……?」
ラリーが戸惑いながらもその品を受け取ると、眩い燐光がスッと収まった。
彼の掌に残されたのは、淡く透き通るような美しい水晶で彫り上げられた、一つの小さな彫像。
手のひらに収まる大きさの、馬の頭部を象ったものだった。
「こいつは……」
ラリーの掌に確かな重さが伝わる。石でも氷でもない、滑らかでひんやりとした奇妙な質感に眉をひそめた。
暗闇の中でもそれ自体が淡い光を放っているかのような、透き通る水晶の彫像。
「綺麗」
エイダリアが感嘆の吐息を漏らす。
彼女は構えていた長杖の柄からそっと手を離し、ラリーの手元を覗き込むように一歩歩み寄った。
その神秘的な瞳には、水晶が放つ微かな青白い輝きが魅入られたように映り込んでいる。
「まるでチェスの駒、ナイトのようですわね」
リアが銃を下ろし、眼鏡の奥の瞳を光らせて冷静に分析した。
彼女の言う通り、丸みを帯びた台座の上に精巧な馬の頭部が彫り込まれたその造形は、まさに盤上の騎士を思わせるものだった。
たてがみの一本一本に至るまで、信じられないほどの緻密さで細工が施されている。
「確かに。ノアも、いななきだの手綱だの……馬っぽいことを言ってたな」
ラリーが掌の上の水晶の駒を不思議そうに眺め、指先でその滑らかな表面をなぞる。
金銀財宝の山を期待していた海賊としては些か拍子抜けする品ではある。
がそれでも、この小さな駒がただのガラクタではないことくらいは、肌がビリビリと感じ取る微かな魔力の残滓から嫌でも理解できた。
「ん……」
光が消えたと同時に、ノアの口から微かな吐息が漏れた。
神秘的な瞳の光がふっと消え、彼女の身体が、糸の切れた操り人形のようにぐらりと前へ傾く。
「っと、おいノア、どうした?」
完全に意識を手放し、床に崩れ落ちるノア。
ラリーは慌てて駒を持たない方の手に持っていた松明を投げ捨て、倒れかける彼女の華奢な身体をしっかりと腕の中に抱きとめた。
静寂を取り戻した太古の石室の中で、ラリーの腕に抱かれたノアは、ゆっくりとまぶたを震わせ、焦点の定まらない瞳を開いた。
「あ、れ……わたしは……?」
掠れた声で呟きながら、ノアは自分の置かれている状況が理解できずに首を傾げた。
つい先ほどまで彼女の全身を覆っていた、何かに憑依されたかのような神秘的な気配は完全に消え失せている。
「覚えてない、の?」
エイダリアが静かに、しかし探るような深い眼差しで問いかけた。
「は、はい……部屋の奥を覗いた途端、頭の中で何かが響きだして……」
ノアは痛むこめかみを指先で押さえながら、途切れた記憶の糸を手繰り寄せるように答えた。
祭壇を見た瞬間に不意に流れ込んできた、雷鳴のような、あるいは幾千もの蹄の音のような不思議な響き。
だが、それ以上のことは濃霧に包まれたように思い出すことができない。
「この品物と関係がありそうですわね」
リアがラリーが投げ捨てた松明を消えてしまう前に拾い上げ、彼の掌で鈍い輝きを放つ水晶のチェスピースを意味深に見つめた。
「ノアにとって大切なものがここにあるとかって話だったよな」
ラリーは水晶の駒をリアが持つ松明の光にかざしながら、不思議そうに呟く。
金銀財宝の山とは程遠い、たった一つの小さな駒。
しかし、ノアが命懸けで守ろうとした『かけがえのないもの』であるならば、この冷たい水晶の塊には、計り知れない価値や秘密が隠されているはずだ。
「そのあとは?」
エイダリアがさらに記憶の核心へと迫る。
「そのあとは……覚えてないんです。気が付いたら皆さんが私の前に並んでいて……目眩がして……」
ノアは申し訳なさそうに眉を下げ、ラリーの腕の中で小さく身を縮めた。
自分自身のことであるにも関わらず、自分が何をしたのか、何を語ったのかすら分からない。その得体の知れない不安が、彼女の顔に暗い影を落としていた。
そんなノアの頭を、ラリーは空いた方の手でポンと無造作に撫でた。
「ふぅむ。……まあなんだ、他にはめぼしい物も見当たらないから、こいつだけ頂戴して帰るとするか?」
ラリーは深刻に沈みかけた空気を吹き飛ばすように、あっけらかんとした、いつもの明るい声で言ってのけた。
水晶の駒を軽く放り投げてキャッチし、腰のポーチへと無造作に放り込む。
「ですわね」
リアもまた、ふっと口元を緩めて同意した。謎は深まるばかりだが、いつまでもこの薄暗く湿った石室に留まっている理由はない。
「さあ、帰ろうぜ。とっつぁんとソエルが船で待ちくたびれてる」
ラリーがノアの背中を軽く押し、一行は来た道を引き返し始めた。
冷たい静寂に包まれていた太古の石窟を後にする彼らの背中を、古代の闇がひっそりと見送っている。
苦労の末に手に入れた小さなナイトの駒が、この先に待ち受ける、世界の運命を揺るがす戦いの引き金になることを、この時の彼らはまだ誰も知らなかった。




