002「少女ノア」
快晴。
空には一欠片の雲も無く、中天に高く浮かぶのは太陽のみで、そんな空を数羽のウミネコがミャアミャアと鳴きながら飛んでいる。
風も穏やかで、静かに、しかし力強く繰り返される波の音が心地良い。
空の蒼と海の碧が交わる地平線はうっすらと白くどこまでも続いていた。
港町メダリア。
ここアスガルド大陸における主要国家の一つ、ミドガルズ帝国の港町の一つであるこの町にはいつも活気ある声が溢れている。
近隣諸島との交易や漁業などによって活気溢れるこの街で、人々は忙しなく働いていた。
大量に荷を載せた馬車の道を空けるよう御者が大声で叫び、それに負けじと声を張り上げ獲れ立ての魚を売る市場の人々。
ただ歩いて通り過ぎる人もいれば、壁際で談笑している人だかりもいる。
街灯にもたれて酒瓶を抱えながら眠る人がいるのも、荒くれの船乗り同士で樽の上で腕相撲に興じ盛り上がる輪が出来るのも、この港町では至っていつも通りの喧騒であり日常であった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
故に、そんな雑踏の中を息を切らせて駆ける少女がいたとしても、誰も気にも留めないありふれた光景なのである。
歳の頃は十五、六だろうか。
やや長めの金髪を揺らし白と水色でまとめられた清潔感ある衣装に身を包んだ彼女は、行き交う人々の波をすり抜け、ひたすらに走っていた。
「あうっ」
彼女が後方を気にして振り返ったとき、道行く人と軽くぶつかってしまいよろけてしまう。
なんとか体勢を立て直そうとしたが、そのまま屋台の横に積まれていた木箱に体当たりしてしまう。
おかげで何とか転ぶことは無かったが、代わりに木箱の中身がガランガランと音を立てて派手に散乱してしまうこととなった。
「おいっ、あんた何してんだ!」
屋台から店主と思わしき人が慌てて出てくる。
流石に何事かと周囲の人々も彼女に視線を向けた。
「すっ、すみませ……」
流石に申し訳ないと思ったのか、少女が散らばってしまった商品を拾おうとした時。
「いました、あちらです!」
「っ!」
少し離れたところから、喧騒に紛れてそんな声が彼女の耳に届いた。
その声が聞こえた瞬間、彼女はびくりと身を震わせその場から脱兎の如く走り去る。
「あっ待て! これどうしてくれるんだー!」
遠ざかる彼女の背に向かって店主は怒号を上げたが、地に転がった商品たちを放っておくわけにもいかずその場から動くことは出来なかった。
そしてそんな店主の横を、彼女の後を追いかけるように二人の男が走っていったが誰も特に気に留めることは無かったのであった。
§
「はぁ、はぁっ……」
「くっ、待てぇ! ちょこまかと……」
逃げる少女に向かって二人の男のうちの一人が叫ぶ。
少女が男たちから逃げ切れる可能性は低い。
体格、体力を鑑みればすぐに追い付かれてしまうのが道理である。
ここが周りに何も無い街道などであれば、あっという間に彼女は捉えられてしまっただろう。
が、ここは多くの人でごった返す繁華街。
少女はその小柄な体躯を活かし人混みを躱し、すり抜け、時として紛れたりと巧みに追跡者の手から逃れてゆく。
一方追跡者は成人男性が二人。
更にそのうち一人は一般的に見てもかなり体格が大きい。
縦横無尽に行き交う人の波を己が力でかき分けて進む他に無かった。
だんだんと彼我の距離が離れ出し、追跡の音が離れてきたため相手の姿を確認しようと後ろに気を向けた瞬間、彼女はまたしてもやらかしてしまう。
「おっと」
今度は正面から人とぶつかってしまった。声からすると年若い男性であった。
少女は青年の胸に飛び込んでいくような形でその足を止めてしまうこととなった。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて青年から離れる少女。青年はさして気にした様子もなく少女に声を掛けた。
「大丈夫かい?」
「はい、いえ……!」
彼女は逡巡する。
このまま追跡者から逃げ切るのは至難の業だ。
今は何とか逃げられているが、時間の問題だろう。
助けを求めるまではいかなくとも、彼に追跡者の注意を引いてもらうことを頼むくらいは……。
「その子を捕まえてください!」
「っ!」
しかし追い付いてきた追跡者の声に反射的に三度走り出す少女。
「お、おい!?」
青年は一体何があったのかと呆然としたまま、雑踏に消えゆく少女の背を見送った。
程なくして、青年の横を通り過ぎる二人の追跡者。
こういった街ではスリや盗みなどもままあり、逃走劇を見かけること自体はそこまで珍しいものではない。
が、それは追跡者の身なりがやけに上等なもので、更に目元を隠す仮面などを付けていなければの話である。
「待て! 逃げられると思うな!」
「埒が明きません。あなたはこのまま彼女を……」
少女を追いかける二人組のそんな会話を青年は耳にした。
何があったのか気になったが、追跡者に強引に押しのけられた通行人に寄りかかられてしまう。
そのためよろけた体勢を立て直す間に、二人組もまた人混みに紛れて消えていってしまった。
「っと……ありゃ、どっかで見たような……? なんだぁ、おかしな仮面しやがって」
誰に言うでもなく青年は呟く。
そんな彼自身も、気が付けば既にその場にはおらず、街はまたいつもの賑わいへと戻っていったのだった。
§
「待ーてーぇー!」
「はぁ、はぁ、はぁ……お願いだから、諦めてよっ……!」
どうにか追っ手から逃れ続けられている彼女。
しかし、少女の体力の限界はそこまで迫っていた。
引き換え、追っ手の男はまるで疲れを感じていないかのように少女を追いかけ続けている。
少女は後方から聞こえてくる人混みとぶつかる追っ手の叫声に耳を傾けながらも、目の前にいた買い物かごを下げた女性の脇をすり抜けた時。
「!」
彼女の眼の前にいたのは二人の追っ手のうちの一人。
だが後ろからは変わらず聞こえてくる男の声。
彼らはいつの間にやら二手に分かれ、少女を挟み撃ちせんと先回りしていたのだ。
眼前の男が両手を広げ、今にも少女を捕らえようと迫りくる。
「くっ!」
しかしがくんと身を低くかがめることで間一髪、その魔手をすり抜ける彼女。
大きくバランスを崩した少女は何とかそのまま走り抜けようとしたが、通りは先程よりも人が増え、容易にすり抜けられそうには無い。
少女は90度走る方向を変え、建物の隙間の細い路地へと進路を変えた。
人混みで撒けないのなら入り組んだ裏路地で。咄嗟にそう判断した少女は、そのまま薄暗い脇道へと消えていった。
「何を逃がしておるのだ! 折角私が……!」
「言い訳はしません。ですがもう少しです」
後方から男たちの言い争う声が聞こえる。
そのまま言い争っていて欲しいと思う彼女の淡い希望も叶うことなく、追っ手の二人もまた少女を追いかけていく。
右へ、左へ。
出来るだけ追っ手の視界から自身が消えるように建物に囲まれた迷路を少女は突き進んでいく。
もう少し。
もう少し逃げたらまた大通りへ出よう。
これだけ見えなくなっていれば、他の通行人に紛れて歩いていれば見失ってくれるだろう。
そう考え、休息と酸素を求める身体に鞭を打ちつつ少女は路地の角を曲がったが、そこで彼女は立ち止まってしまう。
「はあ、はあ……うそ……」
よりにもよって、道はそこで袋小路になっていた。少女は慌てて周りを見回すが、身を隠せるような物陰は無い。
どこかの家の勝手口と思われる扉が見え、一縷の望みを託し手をかけるが、やはり扉は固く閉ざされている。
少女は来た道を引き返し、違う逃走ルートを試みようとしたが。
「もう、逃げられませんよ」
背後からそんな声が聞こえた。
追いついた仮面の男たちが少女に立ち塞がり退路を断つ。
流石に追っ手も走り疲れているとはいえ、この状況で少女が二人を掻い潜り、逃げおおせる道理は無かった。
「くっ」
彼女が後ずさる。砂を噛んでじりっと音が鳴る。
「そろそろ観念したらどうだい、お嬢さん。なにも取って喰おうっていうわけではないのだから」
二人のうち、大柄な男の方がそんなことを言いながら彼女に詰め寄っていく。
更に一歩、後ずさる少女。
「そう、大人しくした方が君のためにも良いのですよ」
細身の男も隙無く近寄ってくる。
もう一歩後ずさるが、靴の踵がこつんと後ろの壁に当たる。
追いやられ、完全に逃げ場は無い。
「あなたたちに、従うわけにはまいりません」
それでも少女は毅然と男たちを睨みつけ、腕を胸の前で交差し身を守ろうとする。
「毅然とした態度を崩さないのは誉めたいところだがな、こちらにも我慢の限界というものがある」
大柄な男はその様子に眼力を強めニヤリと笑みを浮かべ、拳をバキリボキリと鳴らしながら少女へ詰め寄っていく。
「待ちなさい、下手に手を出して傷つけでもしたら大変です。ここは僕にまかせて……」
「何を言っている? さっきそれで失敗したのは君なんだぞ」
二人の男が口論を始め、視線を少女から外した。
意を決し身を低くしたまま少女は細身の男の脇を素早くすり抜けようとした。が、
「今度はっ! 逃がしませんよ。さあ、一緒に来るのです!」
すり抜けることは叶わず、少女の腕を細身の男が捕らえた。
「嫌っ、離してください!」
必死に振りほどこうと抵抗する少女。
だがその捕らえられた腕が自由になることはなく、男はぐいっと少女の腕を掲げ引き寄せる。
少女は拘束されていない方の腕で男へと殴りかかろうとするが、男の方も逆の手でその攻撃をいなしてしまう。
そうこうしているうちにそちらの手も捕らえられてしまい、更に身動きが取れなくなる少女。
「さあ、来るんだ!」
万事休す。
両の手の自由を奪われてしまった少女は、最早せいぜい身体をよじらせる程度の抵抗しか出来ない。
そして大柄な男がその上から更に少女を押さえつけようと詰め寄ったその時。
「よう、離してやれよ」
揉み合う三人へとそんな声が降り掛かったのであった。




