寿綾乃という女 第3部 5
忘れていた…
すっかり、忘れていた…
長谷川センセイは、五井家の人間…
たしか、五井西家の人間だった…
それを、すっかり忘れていた…
五井は、連合体…
五井十三家で、構成されている…
そして、その頂点に君臨するのが、今は、五井東家…
五井本家と合体した五井東家だ…
五井本家に、五井東家の人間が、嫁いだからだ…
五井十三家というのは、五井本家と、東西南北の四家…その他の七家から、なる…
そして、本家と他の一族の違いは、株の比率…
五井一族が、持つ、五井グループの株の比率に他ならない…
要するに、五井グループを統括する、持ち株会社の株を一族で、独占して、支配している…
その持ち株会社を、さらに管理する会社の株を五井一族が、握っているということだ…
それゆえ、五井一族は、五井グループを掌握できる…
五井グループを支配できる…
持ち株会社の株をさらに、支配する会社の株を握ることが、五井一族の力の源泉だからだ…
そして、その持ち株会社の支配する会社の株の持ち株比率は、当たり前だが。本家が、一番で、東西南北の四家が、それに、次ぐ…
他の七家は、おまけといえば、聞こえは、悪いが、持ち株比率が、低い…
だから、具体的には、五井と言えば、本家と、東西南北の四家…
この五家が、五井を代表する…
そして、意外だったのが、本家の力が、弱かったこと…
当たり前といえば、当たり前だが、十三家もあれば、力が分散される…
ある一家に、力を集中させることは、できない…
だから、本家といえども、決して、圧倒的ではない…
それゆえ、現当主、諏訪野信明の父、諏訪野建造は、苦労した…
五井をまとめるのに、苦労した…
若くして、当主となった建造と弟の義春は、五井東家から、昭子と和子の双子の姉妹を、嫁にもらった…
本当は、二人とも、嫌だったのだが、それを、拒めなかった…
二人とも、当時、好きな女が、いたのだ…
だから、互いに泣く泣く、東家から、昭子と、和子の姉妹を嫁にもらった…
が、
それを、契機に、建造と義春の兄弟は、五井本家の力を強くすることを、誓った…
本家の力が、弱いから、東家から、嫁をもらわざる負えない事態になったからだ…
だから、本家は、強くなければ、ならない…
本家が強くなければ、五井一族を、仕切れないからだ…
本家の力を強くする…
それが、建造と義春の悲願だった…
が、
皮肉にも、それが、東家から、昭子と和子を、嫁にもらうことで、実現した…
東家から、嫁をもらうことで、本家の力が、増したからだ…
事実上、本家と東家が合体したからだ…
だから、それを契機に本家の力が、増した…
要するに、建造と義春が目指したのは、五井本家の力を、増し、五井の他家から、干渉されないことだった…
二人とも、好きな女と結婚できなかったのが、なにより、心残りだったのだろう…
皮肉にも、それが、原動力となった…
本家の二人の兄弟の結婚の挫折が、原動力となった…
見方を変えれば、これは、笑えるが、現実は、そんなものかも、しれない…
ノーベル賞は、数学賞がないのは、有名であるが、これは、もし、数学賞があれば、ノーベルが、嫌いな人間が、受賞することになったからだと、一説には、言われている…
世界最高の賞であるにも、かかわらず、あまりも、人間的というか…
俗人的…
世俗にまみれている(笑)…
が、
世の中、そんなものかも、しれない…
だから、それを例にとれば、五井本家の出身である、諏訪野建造、義春の兄弟が、嫌だった結婚を無理やりしたことで、五井本家の力を拡大させようとするのは、わかる…
わかりすぎるほど、よくわかるのだ(笑)…
私は、思った…
思ったのだ…
そして、そんなことを、考えていると、ユリコが、
「…寿さん…なにを、考えているの?…」
と、聞いてきた…
私は、
「…なにも…」
と、反射的に答えた…
こう答えるのが、一番…
一番だった…
ユリコは、鋭い…
うっかり、不用意な一言を漏らして、アレコレ詮索されるのは、困る…
私が、今、このユリコに知られたくないのは、癌ぐらいだが、ユリコと話すことで、案外、それ以外の思いがけないことを、ユリコに知られるかも、しれないからだ…
これは、誰にでも、ありがちなこと…
本人が、意識すると、意識しないと、なにげなくしゃべったことが、きっかけで、後で、とんでもない事態に、陥ることがある…
私を例にとれば、菊池リンが、そう…
菊池リンは、五井家が、私につけたスパイだった…
私を監視するスパイだった…
私が、五井の血を引く娘だと思っていたからだ…
本物の寿綾乃は、五井家の血を引く娘だった…
だから、私が、本物の寿綾乃なら、厄介なことになる…
五井家の財産を分与しなければ、ならなくなるからだ…
だから、五井家は、私に、スパイをつけた…
菊池リンというスパイをつけた…
私を監視するためだ…
人のいい、私は、それに気づかなかった…
人のいい=とろい私は、それに、気付かなかった(苦笑)…
これも、何度も言うように、愛らしく、頼りない、外見の菊池リンが、
「…綾乃さん…綾乃さん…」
と、私になついたからだ…
それゆえ、うっかり、騙された…
菊池リンの愛らしい顔と、頼りない外見に騙された…
今、思い出すと、自分でも、自分に頭に来る…
あんなにも、あっさりと、騙された自分の頭の弱さに頭に来るのだ…
私が、そんなことを、考えていると、
「…そうね…」
と、あっさり、ユリコが、言った…
それから、
「…いきなり、なにを考えているの?と、言われても、答えられる人間なんて、めったに、いるものじゃないわよね…」
と、言って、笑った…
私は、なんて、答えていいか、わからなかった…
だから、
「…」
と、答えなかった…
「…」
と、なにも、言わず、ユリコが、次に、なにを発するのか、待った…
すると、だ…
「…私は、てっきり、寿さんが、長谷川センセイに会いに、行くのは、五井家の情勢を探るためかも、しれないと、思ってた…でも、それも、私の思い過ごしのようね…」
「…どういう意味ですか?…」
「…セカンドオピニオン…」
「…セカンドオピニオンですか?…」
「…ほら…一つところだけで、診てもらっても、誤診という可能性があるでしょ? ボクシングの世界チャンピオンだった竹原だって、かかりつけの医者がいて、いつも、体調を見てもらってたと言うじゃない…でも、竹原が、体調が、悪くて、その医者に、診てもらっても、問題ないと、言うばかりだったって…でも、さすがに心配になって、ほかの医者に診てもらったら、癌だとわかったって…」
ユリコが言う…
私は、
「…」
と、黙った…
答えなかった…
ユリコの真意が、わからなかったからだ…
言葉通りの意味では、私のカラダを心配して、他の医者にも、診てもらえば? と、言っているのだが、どうにも、引っかかる…
とりわけ、ボクシングの竹原を例に出しているのが、引っかかる…
竹原は、癌だった…
そして、私も同じ癌…
だから、もしかしたら、私が、癌であることを、遠回しに、知っていると、匂わせたのだろうか?
そうとも、考えられる…
なにしろ、ユリコのことだ…
油断できない…
なにを、考えているか、わからない…
うっかり、口でも滑らせれば、どうなるか、わからない…
私の表情が、強張った…
ユリコを前にすることで、これまで以上に、ユリコを警戒しなければ、ならないと、肝に銘じた…
が、
それは、考えすぎかも、しれなかった…
私が、ユリコを警戒していると、
「…まあ、寿さんも、お元気で…カラダに気をつけて…」
と、ユリコは、言って、あっけなく、その場から、立ち去った…
私は、肩の力が、抜けたというか…
ボクシングで言えば、どこから、攻撃してくるんだろうと、身構えていたら、なにも、起こらなかったに、等しい…
脱力感というか…
肩の力が抜けて、思わず、その場に倒れたい気分だった…
実に、カラダから、力が抜けた…
相手が、ユリコゆえに、どうしても、身構える…
どうしても、ユリコゆえに、緊張するからだ…
だから、ただ、対峙するだけで、疲れる…
ドッと、カラダに、疲労が、残る…
ユリコが、去ったことで、一気に、疲れがやって来た…
…我ながら、カラダに良くないな…
と、苦笑する…
ユリコと会うのは、実に疲れる…
まるで、癌の治療のようだ…
以前、抗がん剤を飲んだ時、疲労感が、全身を襲った…
疲れて、なにも、できなくなった…
そのときに、似ている…
実に、似ているのだ…
だが、
だとしたら、ひょっとして、ユリコは、抗がん剤といっしょ…
私にとって、ユリコは、抗がん剤と同じ効果をもたらす?…
だとすれば、これから、もっと、ユリコと接すれば、私の癌も消滅する…
思わず、そんな考えが、浮かんだ…
そんな荒唐無稽なことが、頭に浮かんだ…
そして、それに、気付くと、思わず、苦笑した…
そんなバカなことを、考える自分に、思わす、苦笑した…
同時に、
…やはり、私は、追い込まれているのだろうか?…
と、あらためて、思った…
こんなバカなことを、考えたからだ…
中学を卒業して、東京に出てきてから、私は、天涯孤独の身だった…
母が、亡くなり、私の身内は、誰一人、いなくなった…
だから、私は、ひとりぼっち…
頼れるものは、なにもない…
頼れるものは、自分だけ…
だから、いつ、死んでもいいと、心のどこかで、思っていた…
私が、死んでも、悲しむ身内は、誰もいない…
その事実が、大きかったのかも、しれない…
が、
予想外の出来事が、起こった…
高校時代、バイトで、入った、藤原ナオキの妻のユリコが、当然、失踪したのだ…
まだ、幼い、小学生のジュン君を残して、失踪した…
それゆえ、ナオキは、困った…
ジュン君の面倒を見るものが、いなくなったからだ…
だから、当時、すでに、ナオキと男女の関係にあった、私が、ジュン君の面倒を見ることになった…
その過程で、いつのまにか、ナオキの家庭に私が、入り込んだ…
要するに、ユリコの後釜に座ったのだ…
だから、ハッキリ言えば、家族…
ジュン君とナオキは、私の家族だった…
疑似家族だった…
ジュン君とナオキといることで、私は、いつのまにか、天涯孤独であることを、忘れていた…
私の隣には、ナオキとジュン君がいたからだ…
考えてみれば、実に意外な展開だった…
母を亡くし、天涯孤独になった、私に、思いがけず、家族ができたのだ…
ナオキは夫…
ジュン君は、息子だった…
が、
その息子に、ひき殺されかけた…
ジュン君が、ナオキの息子でないと、知った、ジュン君が、動揺していたところに、偶然、私を見たからだ…
…偶然、歩いている私を、クルマを運転する、ジュン君が、見かけたからだ…
…偶然?…
いや、
もしかしたら、偶然では、ないかも、しれない…
ふと、気付いた…
もしかしたら、私が、あの場所を歩いていることを、菊池リンが、ジュン君に知らせたのかも、しれない…
菊池リンが、ジュン君に、ジュン君が、ナオキの子供ではないことを、知らせたことは、明らか…
だったら、引き続き、私が、どこを、歩いているか、ジュン君に知らせた可能性がある…
それまで、考えたことのないことに、いきなり、気付いた…




