寿綾乃という女 第3部 10
…誰か、いる?…
でも、一体、誰がいるというのか?
このマンションは、今は、私一人で、住んでいる…
以前は、ジュン君が、いっしょに、住んでいたが、ジュン君は、今、刑務所の中…
私をクルマで、ひき殺そうとした、報いを受けたのだ…
だから、誰もいないはず…
が、
たしかに、誰か、いる…
たしかに、ひとのいる気配がする…
もしや、泥棒か?
私は、思った…
と、同時に、なにか、武器になるものは、ないか?
探した…
素手では、身長160㎝足らずの私のカラダでは、相手が、男では、到底勝てないからだ…
だから、なにか、武器になるものは、ないか?
部屋の中を探していると、
「…なにをしているの? …綾乃さん?…」
と、いう声がした…
その声は、聞き覚えのある声だった…
いや、
聞き覚えがあるというレベルではなく、明らかに私は、その声の主を知っていた…
私は、慌てて、声のする方を振り返ってみた…
そこには、ナオキがいた…
さきほど、五井記念病院で、話題になった藤原ナオキが、立っていた…
「…やっぱり…」
私は、言った…
「…綾乃さん、なにが、やっぱりなんですか?…」
「…ナオキ…アナタ、連絡もなく、いきなり、他人様の家に入ってきて…」
私が、文句を言うと、
「…他人様の家? …このマンションの名義は、ボクだけれど…」
と、ナオキが、いたずらっぽく、笑った…
私は、
「…」
と、絶句した…
たしかに、ナオキの言う通りだからだ…
だから、
「…」
と、絶句した…
返す言葉がなかった…
そんな私の態度を見て、
「…どうしたの? …綾乃さん?…」
と、ナオキが、いたずらっぽく、聞いてきた…
私は、
「…」
と、答えなかった…
無言で、自分より、長身のナオキを見上げた…
「…社長、おっしゃる通りです…」
と、私は、言った…
「…このマンションは、社長のもの…社長の温情で、住まわせてもらっています…」
私が、言うと、
「…温情?…」
と、ナオキが、言って、絶句した…
「…老い先短い、憐れな秘書だった私に情けをかけて、頂き、ありがとうございました…」
私は、ナオキに頭を下げた…
すると、ナオキは、戸惑った…
明らかに、戸惑った…
「…なんで、いきなり、そんなことを、言うの? …綾乃さん?…」
と、当惑した表情で、言った…
「…社長、綾乃さんではなく、寿と言ってください…」
「…寿? …でも、今は、会社じゃないんだから…」
「…それでも、です…ここは、社長の持つ、物件…私にしてみれば、会社の社宅のようなものです…だから、社長は、この部屋の合鍵を持っていたから、入れた…ですよね?…」
「…社宅?…」
「…そうです…」
私は、短く、断言した…
すると、見る見る、目の前のナオキが、落ち込んだ…
明らかに、落ち込んだ…
「…そんな…綾乃さんが、そんなふうに、ボクを見ていたなんて…」
「…」
「…ボクは、綾乃さんが、好きで…」
「…社長、冗談は、やめて下さい…」
「…冗談って?…」
「…私は、もうFK興産の社員では、ありません…今は、失業中…失業保険で、暮らしています…」
私が、言うと、
「…綾乃さん…それは、違うよ…」
と、ナオキが、反論した…
「…違う? …なにが、違うんですか?…」
「…綾乃さんは、たしかに、FK興産を退職していることに、なっている…でも…」
「…でも、なんですか?…」
「…FK興産の非常勤の取締役に登録してある…」
「…ウソォ!…」
思わず、大声を出した…
「…ウソじゃない…」
「…ウソじゃない?…でも、会社のホームページを見ても、どこにも、そんなことは…」
「…載せてないだけだ…」
「…載せてないだけ?…」
「…非常勤とはいえ、取締役に、綾乃さんの名前があれば、知らない人間がみれば、寿綾乃というひとは、誰? と、聞いてくる…」
「…」
「…でも、ボクの口から、以前、ボクの秘書をしていた女性とは、口が裂けても、言えない…だから、登記には、載せているが、公には、公表しない…綾乃さんが、非常勤の取締役に登録していることを、知る者も、社内のごく一部の人間だけ…口の堅い人間だけ…」
私は、ナオキの突然の告白にパニくった…
頭の中が、混乱した…
だから、とっさに、口から出た言葉が、
「…どうして、そんなことを?…」
と、いう言葉だった…
「…綾乃さんの生活の面倒を見るためさ…」
「…私の生活の面倒を見るため…」
「…綾乃さんは、FK興産を退職した…だから、綾乃さんに、お金を渡すことは、できない…もはや、綾乃さんは、社員では、ないからね…それで、会社の顧問弁護士とか、口の堅い人間に、相談したんだ…」
「…それで、私を会社の非常勤の取締役に?…」
「…そうだ…取締役となれば、経営者側だ…使われる側じゃない…使う側だ…そして、なにより、会社の社員ではない…だから、綾乃さんが、退職しても、合法的に、綾乃さんに、お金を渡すことが、できる…」
「…合法的?…」
「…ぶっちゃけ、ボクの小遣いから、渡すこともできるが、それでは、金額が、限られてくる…それよりも、会社の取締役にすれば、会社から、綾乃さんに金を払うことが、できる…なにより、非常勤だから、毎日、出社する必要がない…つまり、綾乃さんの席はあるが、会社に出社する必要は、ゼロ…」
「…ゼロ?…」
「…まあ、ゼロは、大げさだけれども、とにかく、非常勤の取締役にしておけば、会社から、お金を払うことができる…しかも、綾乃さんを、非常勤の取締役にしたことが、社内で、ほとんど知られていない…だから、取締役の会議があっても、綾乃さんが、出席しなくても、誰も、わからない…」
ナオキが、不敵に笑った…
私は、それを、聞き、うまい手を思いついたものだと、気付いた…
たしかに、取締役は、労働者ではない…
いわゆる、労働者=雇用される側では、ない…
ハッキリ言えば、雇用する側だ…
ひとを雇う側だ…
なにより、取締役とも、なれば、会社に常駐する必要がない…
その代表例が、社外取締役…
いわゆる、ユニクロの柳井氏や、ソフトバンクの孫氏が、他社の取締役を兼務している例だ…
が、
柳井氏も孫氏も、当たり前だが、その会社の社員でも、なんでもない…
それと、同じ…
この私をFK興産の取締役にしたのは、それと、同じ…
この私と柳井氏や孫氏は、レベルは、まったく違うが、同じ…
同じ非常勤の取締役だ(爆笑)…
つまり、柳井氏や孫氏と私は、同格ということだ…
が、
本当か、どうかは、わからない…
まさか、今言ったのが、冗談とは、思えないが、やはり、確認が必要だ…
「…その証拠は?…」
私は、聞いた…
「…証拠?…」
「…私の口座に、お金は、振り込んでなかったわ…」
「…それは、当たり前だ…」
「…当たり前?…」
「…綾乃さんの口座ではなく、別の口座に振り込んだ…」
「…別の口座?…」
「…ほら、ここに?…」
ナオキは、言って、持っていたカバンから、貯金通帳を取り出して、見せた…
「…以前の口座に振り込んでも、良かったんだが、万が一でも、経理とか、誰かに知られたら、厄介だ…ボクが、綾乃さん名義の口座を別に作って、ボクが、直接、会社から、この口座に毎月、金を振り込んだ…」
「…見せて…」
思わず、言った…
私が、言うや否や、ナオキが、私に通帳を差し出した…
通帳を開けると、ゼロが、ズラリと、並んでいた…
慌てて、数えると、億を超えていることが、わかった…
たしかに、これでは、経理を通せない(苦笑)…
私は、思った…
「…どうして、こんな大金を退職した秘書に払わなければ、ならないんだ?…」
と、経理部から、詰問されることは、明らかだからだ…
だから、ナオキは、直接、自分の手で、会社の金から、振り込んだのだろう…
私は、思った…
同時に、これまで以上に、ナオキの深い愛情を感じた…
この藤原ナオキが、私が、思っている以上に、私を大事にしている事実に、気付いた…
これは、意外…
実に、意外なことだった…
男と女が、愛し合い、同棲や、結婚をする…
あるいは、そこまで、いかなくても、男女が付き合う…
が、
実際は、互いに、相手が、どれほど、自分を好きなのか?
それは、わからない…
変な話、男は、女に、夢中でも、女は、心のどこかで、
「…もっと、いい男がいないか?…」
と、考えていることもある(笑)…
真逆に、女は、男に、夢中で、男の方が、
「…どこか、もっと、いい女はいないか?…」
と、心のどこかで、考えている場合もある…
つまり、男女ともに、同じレベルで、好きではないと、いうことだ…
これは、友情にも、同じことが、いえる…
ぶっちゃけ、一方は、ただの友人の一人と、思っていても、もう一方は、親友レベルに考えている場合もある…
これもまた、男女の愛情と同じ…
要するに、同じレベルで、相手を好きでは、ないということだ…
私は、考えた…
そして、我ながら、そんな回りくどいことを、考える一方で、もしかして?
と、ふと、気付いた…
この藤原ナオキは、経営者…
従業員千人を、持つ、IT企業の社長だ…
当然、頭もよいし、無駄に金は使わない…
元は、一般人だからだ…
生まれつきの金持ちでも、なんでもない…
だから、お金のありがたみを知っている…
なにしろ、十年以上前は、私とジュン君と3人で、小さなアパートに住んでいた…
いわば、疑似家族…
正真正銘の疑似家族だった…
なぜなら、私とナオキは、他人だし、ジュン君も、後でわかったことだが、ナオキの子供ではなかったからだ…
つまり、誰も血が繋がっていない…
だから、家族ではなく、疑似家族だった…
が、
そんな疑似家族でも、いっしょに暮していたから、ナオキの金の使い方は、わかっている…
無駄使いは、しない…
唯一の例外は、女だが、それでも、今、この私に億の金を渡すようなバカな真似はしない…
たしかに、私は、ナオキと、十年以上前からの付き合い…
ナオキが、ITバブルで、成功する前からの付き合いだ…
関係が長い…
だから、昨日今日、ナオキが付き合った女とは、付き合いの長さが、違うが、それでも、いくらなんでも、億の金をポンと私に渡すのは、おかしい…
…これは、もしかして?…
私は、気付いた…
…もしかして、なにか、別の意味があるのかも、しれない…
そう、気付いた…
これは、例えば、女の売春と似ている…
以前、亡くなった作家の阿部譲二が、言っていたが、外国では、売春は、靴一足の価格ぐらい…
たしか、5千円程度だと、言っていた…
それが、例えば、日本では、3万円とする…
つまり、差額が、2万5千円…
この差額が、なにかと、言えば、それは、口留め料に他ならない…
例えば、男の有名人が、どこそこで、女遊びをする…
が、
当然のことながら、それを、世間に知られては、困る…
だから、女には、口外しないことを、約束させる…
いわゆる、口留め料だ…
だから、セックスに口止め料が、上乗せされるから、日本は、売春の金額が高いということだ…
私は、それを、思い出した…
そして、今、私に、ナオキが、こんな目の玉が飛び出るような大金を渡した意味…
これもまた、口留め料と同じ意味があるのかも、しれない…
つまりは、私になにかさせたいのかも、しれない…
私は、そう、気付いた…
だから、私は、
「…社長、私に、なにを、させたいんですか?…」
と、直球で、聞いた…
なにしろ、私とナオキの間柄だ…
いちいち、回りくどい言葉を使うのも、面倒だ…
すると、
「…さすが、綾乃さん…察しがいい…」
ナオキが、ニヤリと、笑った…
「…一体、なにを私に?…」
「…ユリコが、動き出した…」
ナオキが、言った…




